第7話 

これは、どういう状況だろうか。


むざむざと不法侵入者に洗い場を明け渡し、部屋の隅で膝を抱えるだけの僕の胃は、いつベルが鳴り始めるのだろうと、心労にキリキリと痛んでいる。

ここまで響いてくるシャワーの水音は、かれこれ、5分は続いている。

勢いがいい、今月分を使い切ってしまうのではないか。


そして、とうとうその時は訪れた。


各部屋に割り当てられたタンク水量の低下を伝えるベルは、無慈悲に鳴り響いた。

反射的に跳び上がり、女が籠る洗い場の前まで駆け出す。扉を叩いて知らせるが、中からの反応はない。

響くベルの音がシャワーの音と混ざって、焦る気持ちに拍車がかかる。


—————バキンッ。


気が付けば、簡単な留め具は外れ、蝶番の動きにならって、鉄の薄い扉は滑らかに開いていた。

目に入ったのは、綺麗に水に濡れる、彼女の白い背中と——————、


翼だった。


それは細くて、羽のない、歪で、不完全な、折りたたまれた腕のようなものが、肩甲骨の辺りから、生えている。


だが、そんな驚きは、すでに、ベルの音と共に消え去っていた。


目に映り込んでいる、その情報を脳が認識したとき、冷や水をぶっ掛けられたかの様に、僕の感情は冷め切った。

そしてそれは、彼女が天使である事よりも深く、僕の胸に突き刺さった。


白い背中、細い脚に、醜く、無数に、赤く浮かび上がる生傷と、その跡。

斬られ、抉られ、突き刺され、焼かれ、溶かされ…。

試すような、醜悪な愉悦を覗かせる、拷問の跡。

なぜ、分かるかって? それはだって———。


「あっ」


振り返った裸の彼女と目が合った時には、シャワーは止まり、ベルも鳴り止んでいた。

彼女は臆することなくこちらに向き直り、歩み寄ってくる。

傷の跡は、正面にも広がっている。目立っているのは、腹の赤く縦に走る肌の盛り上がり。

想像するに容易い、ある映像が頭に流れるのを必死で抑えている。

汗が噴き出る、目がチカついている。


「タオル、あるかな」


言葉を失くした僕は、ただただ後退りするだけ。

踵に何かが当たり、つまずき、尻もちをついた。


「ちょっと、大丈夫?」


彼女は、部屋に干してあった適当な布を髪にあてがい、水気をとっている。

その自然な所作に、恐怖は膨れ上がる。


「あー、なるほど。私が天使で驚いたかな? やっぱり、怖い?」


僕を見下げる彼女は、背中を向けて、翼を動かす。

僕は瞠目のまま、反応を諦める。

そんな僕の態度に、眉をひそめた彼女は屈み、その綺麗な顔を僕に近づける。


「ねぇ、何か喋ってよ。君、しゃべれないの?」


彼女の瞳が見開いた。


押し倒され、僕の二の腕には彼女の膝が乗り、床に固定された。

顎を手で掴まれ、唇に親指を押し込まれる。


「うそ、なんで…」


無造作に垂れた彼女の白髪を伝って、水滴が僕の開いた口に落ちた。


「舌、抜かれてるの…」


ゆっくりと、彼女は手を顔から離す。

口を開放された僕は大きく咳き込み、彼女の顔目掛けて、唾を不器用に吐き掛けた。


「…そっか。ごめんね」


立ち上がった彼女は、脱ぎ捨てていった衣服を掴み、濡れた体に構わず被り着た。


「私、行くね。シャワー、ありがと」


開けられた窓から飛び去って行く彼女の背中を、僕は虚ろに見つめていた。

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