第4話 50回目の休日

朝焼けの空は、地平線に紫色の淡いグラデーションを描き、雲海が顔を出し始めた日の光を受け止めている。


レド軍港入口の補給停場、僕は錆び付いた作業クレーンの端に座って、空を眺めている。

冷たい風がぼろ布のローブをはためかせている。


昨晩から夜通し、<拝空ハイクウ>―中層空圏に位置する軍校から、<鉄空>―下層空圏のレド軍港まで小型単座空車スクーターを走らせてきた。

空に放りだしている足にはまだ痺れが残っている。長時間の前傾姿勢も背中に響いていて、腰も痛い。風防と、ヘルメット越しにも、風に叩かれ過ぎた体は軋んで、耳鳴りも収まらないでいる。


教官の許可なく違法改造したスクーターで、悲鳴を上げる体に構わず、全速で目指した僕の自宅、愛する工房は、このレド空域通商軍式港街にあった。


レド空域は、クリュード軍校があった第一空界から南へ、水平空路でおよそ4000㎞、そして、拝空から鉄空へ階層低下させた位置にある空で、飛翔空帝軍、四界団が安全保障を担う、第四空界の下層にあたる。


そして、レド空域通商軍式港街、3つのスピルネラを骨組みとしたその工業都市は、どれも灰色で繫雑ハンザツな居住区画と仕事場に、好き勝手なネオンの光で溢れる、典型的な下層空街である。

紛争による企業の撤退や、近年の魔粒子雲流の高濃度化による空路縮小の影響で、かつて栄えた工廠コウショウのほとんどが元気をなくしてスタれているが、やる気のない空帝四界団の治安管理の怠慢タイマンを逆手に、軍塔から独立した精鋭警団組織の経営や、兵隊育成とその派遣で綱渡りの経済を維持していた。


呆けた僕の視界には、朝日の逆光で黒くなったスピルネラが、遠景にぽつぽつと並び立っていて、星空のような光の明滅の中に、流星のような煌きの一瞬は、浮遊魔導の強い光を船体下部に放ちながら停留する輸送飛翔艦の隊列と、空路を進む小型飛行機の群れを思わせた。


炭酸水で満たされたガラス瓶に、カジったライムを無理やり押し込み、味のないパンを噛んで、それで流し込む。

レド軍港への検閲を待つ間、こうして朝食を頬張る時間は、この後の楽しみに浮かれる心を落ち着かせる。


自分の組の検閲開始を知らせるブザーが鳴った。

急いでスクーターに乗って、入港口のある検閲受付の広場に向かう。


大きな倉庫のような外観の検閲広場の中は、簡単な案内板と鉄骨で仕切られただけの受付口が、規則的な間隔で敷設されている。

早朝の検閲口に並んでいる飛空乗用車の数はまばらで、その殆どが工業輸送用か、軍式車両である。

また、覗く搭乗者の殆どが勤務上がりの兵隊の装いであった。


「ようこそ、レドの街へ」


検閲の兵達は手際よく荷を渡し、爽やかな挨拶と共に、飛空乗車を見送っていく。


しかし、そんな彼らの様相は、僕の姿を前にして豹変した。


提出した身分証明手帳を確認する兵士の表情には、不機嫌なが広がり、その兵士は顎で側近に指示を出す。それを受けて、銃を持った側近兵は僕に近づき、舐めるような視線を這わせた後、舌打ちをして言い放った。


「おい、こら。隠してんじゃねぇよ。殺すぞ、おい」


首に巻いたローブを乱暴に掴まれ、僕はスクーターごと横転する。

直ぐに立ち上がり、外したローブを腕に巻き付けながら、頭を下げる。

吐き捨てられる罵倒と、軽蔑の視線に、心が冷え切っていくのを感じる。

側近兵は、銃口を僕の右頬にある焼印にアテがいながら、こう言った。


「人並みに生きられると思うなよ、クソ背神者が」


僕はもう一度頭を下げて謝罪を示す。

待ち構えている暴力に身体をスクませていると、検閲口の奥から、太った兵士が声を掛けた。


「さっさとサバけ。居住証明はあるんだろ? いちいち構うなよ」


太った兵士は、ほら、と視線を僕の後方へ向けると、待機していた飛空乗車から急かすような警笛が鳴った。

兵士達は渋々、入港許可印が付いた身分証明手帳を僕に手渡すと、自動小銃ライフルを僕に向けて構える。

僕は急いで、スクーターに乗ってエンジンを付けた。

銃口を向けられながら検閲門を抜け、空に出る。


―――大丈夫、いつものことだ。


そう、繰り返し言い聞かせている心は、まだ締め付けられるような胸の苦しみを、必死になだめている。

背神者となり、印を右頬に焼き入れられてから、もう10年は経つだろうか。

未だに、この感覚には慣れてくれない。


ウツムく気持ちを無理やり奮わせ、顔を上げれば、朝日に照らされるレド軍港を一望できた。


巨大な柱と揶揄ヤユされるスピルネラの上には、規則的な配置で街々が広がっており、軍式飛空挺艦テイカン船渠センキョが、中央に目立ってそびえ立っている。


限界濃度座標から高度50㎞空圏、鉄空と称される下層空域には、こういったスピルネラ上部を自治区画とする世界が点々としている。

拝空に広がる大都市のように、鋼鉄島の浮遊魔導を維持できるだけの経済力がない下層空街は、上から投げられる工業活動の鉄臭さを、文句も言わずに溜めている。


高度を下げていくにつれ、小さな建物に反射していた朝日の輝きはなくなり、代わりに、廃棄された整備工場街の風合いが表れ始める。

正面からの日の光を、威容を誇る船渠で隠すように、その巨大な影に僕とスクーターを割り込ませる。


光の届かない一帯、目覚めのタイミングを逸した街の暗部は、趣味の悪い蛍光色のネオンを張り巡らしている。

無責任に噴き出る蒸気で薄まった、油と鉄、吐瀉物のすえた臭いを潜りながら、僕は街を降下していく。


やがて、下にまた朝の色を吸った雲海を見れば、要はこの街の最下層、僕の住処がある禊街居住区画に行き着いていた。


ここはスピルネラの内部にあたる。

光に溢れ、空の色が分かるのは、ここが、側面からえぐり削られて造られた空間であるからだ。


上部のレド中心街を支えるのは、無作法に、または出鱈目に打ち込まれた鋼柱。

その隙間と隙間、頼りない土台に築かれているのは、箱型収容居住区画。

僕の部屋はそこにある。


下り終わった僕の正面には、無数の窓を付けた四角い建物が、窮屈そうに立っている。

錆びた軒先にスクーターを止め、粗末な階段を僕は駆け上がる。


頭の中では、楽しい休日の詳細な工程を思い描いている。

まずはシャワーを浴びて、内緒で買っていた新作計装を持って工房へ向かおう。


逸る気持ちのまま、戸の鎖カギを外し、立て付けの悪いその鉄扉を開いた。


様々な機械部品ジャンクで一杯な玄関には、奥の部屋からの朝日が届いている。

何か、違和感があった。

足の踏み場のない玄関からの廊下を、足の運びを思い出しながら進んでいく。

そして、顔を上げれば、いつもの部屋が僕を迎えるはずだった。

漂う部屋の埃が光を受けて、分不相応にきらめいている。



部屋の中には、女の人が立っていた。



女だと分かったのは、白いワンピースの中に光に透けて映される、柔らかな体の輪郭に意識が向いたから。

背は僕より低い、だけど小柄な印象に見えなかったのは、小さな顔と、華奢キャシャな手足が伸びているから。

さらさらと、窓からの風に揺れる髪は白く輝き、その横顔を隠している。



女が僕に気がつく。



反射的に視線を逸らせば、飛散している窓の部品が目に入る。

窓が破られていることを理解すれば、思考は恐怖で塗り替えられた。


近くの物に溢れた棚から、震える手で拳銃を探し掴み取り、その不法侵入者へ向けた。

震えが収まらないまま、人差し指は何とか引き金にたどり着く。


「それ、弾はもう抜いてるよ」

―――え。


女が消えた。


瞬間、拳銃は蹴り上げられ、回る視界と、背中に痛撃。

肺が押しつぶされるような衝撃の後、何が起こったか分からず、大きく息を吸い込んだ口に埃が入る。

揺れる視界のまま咳き込んで、いつの間にか、ひっくり返されていた体を起こせば、目の前には少女の顔があった。


「うーそっ」


白い綺麗な肌、僕を見つめる大きな瞳は青い。

目のふちに沿って流れる睫は蕩けるような優美さがあり、潤いを湛える唇は淡く赤らんでいる。

たまらない艶やかさが、少女のあどけなさに混じって、罪深い華やかさがはじけているようだった。


こんな、綺麗な人は見たことがない。


柔らかくはにかんだ少女は、惚けた僕を現実に戻す。

「シャワー、貸してくれる?」

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