第3話

「ヴァルキュリアサンプルが牢を逃れたこと、聞き及んでおるか」



白く巨大な柱が彼方まで続いている回廊の中、不規則に澄んだ足音が響いている。


歩いているのは二人、片耳の削がれた老人と、片腕のない女、そのどちらも白いローブをマトっている。

老人の問いに、その女、カラ・リドリッチは素っ気なく答えた。


「ええ、先ほど。軍職から」

「ふむ、そうか。では、何と聞いた? 待ち切れなんだ下処理役が、手を噛まれたか、それとも、肉塊からの再形成が、いつもより早かったのかな」

「いえ、そこまでは。庭園の失態だと」


カラは隣を歩く老人の横顔を一瞥イチベツする。

口の端を上げ、気味の悪い笑みを浮かべている。相変わらず、を好む老人であった。


「ははは、そうだな。いくらサンプルでも、軍人では遊びきれんよ。あの、クントらのセガレ共が、いつも無茶ばかりしておる。それに――」

「ええ。で、責任の所在は? 庭園側にあるとすれば、神職が動かねばなりませんが」


老人が話を続けようと口を開いたところで、カラは会話の本質を問う。

老人は開いた口のまま、ああ、とだけ小さく頷いた後、ふざけたように肩眉を上げた表情で言い放った。


「軍は動くと言っておるか?」

「軍職ですか? 天使が逃げたのです。神意が下れば、動いているでしょう」


嫌な予感がした。

その老人の問いの意味は、決定的に欠けている何かを読み取らせるに十分だった。


「まさか、まだ対応を取っていない?」

「その通り」


老人は軽やかにそう答える。眩暈メマイがしそうだった。


「報告から、一刻は経っています。もし天使がモジュールに落ちれば、大混乱は必至でしょう。いや、もしかして、神はそのことを?」

「勿論、存じておられるよ」

「神意は? 神はどうお答えに?」

「何も」


何も…、まるで緊急性のない物言い、カスミに話をしているようだった。

カラは立ち止まり、その裏に隠れる真意を掴むように思考を働かせる。


「サンプルに、興味を示されてはいないと?」

「興味ときたか、ふふ、それは良い表現だ。…そうだ、神は今、その方を向いてはおられん」


その方という表現に対し、もう一方はアルカバレンだと、直観で理解する。

現在、ここ飛翔国カルラアルディハーカと戦争中である、惑星第二空圏を有する敵国。


拮抗キッコウする戦力のため、この国空東北部の境界沿いで、ほぼ硬直状態であるといっていい戦線の睨み合いが続いている。

もう、約一年は互いに進捗のないまま、消耗が続いていた。


「…なるほど。では、神職の調査団はどうです?」

「それも、厳しいのだ」

「ふっ、何が厳しいのか。失態の内容を私が知らないとでも? 一体、何をカバっているのです?」


振り向いた老人は、顎を指で掻きながら、醜悪なその顔を歪ませる。


「クントの一部が、また鉱脈を見つけおってな。やつらの無茶をトガめるにも、金が要るのよ」


そう言った老人は、目を細めて、尊大にこちらを仰ぐような表情を見繕ミツクロう。

カラには、その老人の自分を見る目に見覚えがあった。急に体は、途方もない疲労感で重くなった。


「神意もなく、軍も動かない。神議長が動けば、軍職に事態を悟られ、借りを作ってしまうと。情けない」

「だから、お主の力がいるのだ」


カラは苦笑してしまう。

そして、また思う。

その後に続くだろう言葉は恐らく、もう何度も聞いてきた、私の最も嫌いな言葉だろうと。



「対処できるか?」



「……ええ、お任せを」


感情を殺した表情を精一杯に見せつければ、老人は満足げに頷いた。

キビスを返したその醜い背中が見えなくなったところで、カラは長い黒髪を掻き上げ、長く溜め込んだ息を空に吐き出した。



「クソ野郎どもめが」

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