第1話

 暖かい風が桂浜を吹き抜けていた。本格的に春を迎えた休日だから、歩いている人も多い。この余りに有名な海岸は、今でも美しいままだ。




 もう10分を過ぎただろうか、二人の少年が竹刀を持って向き合っていた。一人がもう一人の周りをじりじりと回り続けて10分。どちらが優勢なのかは、通りがかりの剣術の素人でも容易く分かっただろう。


 龍成リョウセイは汗まみれの痣だらけで、平太ヘイタの周囲を回って隙を窺っている。平太は中段に構えて涼しい顔をしながら、竹刀の切っ先を龍成の鼻先に向ける事は忘れていない。龍成は構えを上・中・下段に切り替えつつ間合いを拡げたり狭めたりしながら、平太の周りを回っていた。


 そうこうするうちに、15分が過ぎようとしていた。二人の立ち合い(龍成にとってはそうでも平太にとっては稽古ですらない)を飽きもせずにニコニコしながら眺めていた花野カノが遂に立ち上がって、両手を口に当てた。


「リョウ、がんばれえええ!!」


 平太は背後から妹の大声を受けて、苦笑して肩をすくめた。龍成はそれを隙と見て一気に間合いを詰めた。どこを打つか考える暇は無い、速く、速く、速く。自分よりも相手の方が背が高い、それなら中段か下段か、手でも胴でも足でもどこでもいい、当てるんだ、1回だけでいいから当てるんだ!


 しかし平太は、竹刀の先端を少し下げた。左手だけで持ち、上半身を捻って左腕を突きだした。先端は龍成の胸の真ん中を突いて、突進を止めた。龍成はそのまま後ろにひっくり返った。胸の骨が砕けたか、心の臓が止まったか。そんな様子でのたうち回る龍成を見て、花野が兄に向けて怒りを露わにした。


「ちょっとお兄ちゃんやりすぎでしょ!? これは酷いよ!」


「大丈夫だ、胸を突いたんだ、喉じゃない。それにこうなったのは半分はこいつのせいだ、さっきのは本当に良い踏み込みだったから、上手く手加減してやる暇が無かったんだよ」


「聞いたリョウ?久しぶりに褒められたね!今日は一本取れちゃうかもよ?」


 少女に助けられて起き上がろうとする少年は、それどころではない。


「マジで、胸が潰れたかもしれない・・・」


 それを聞いた少女は、躊躇いなく少年の胸に手を置いた。目を閉じて感覚を集中させて怪我の具合を確かめる。少女の髪の匂い、そして胸元から覗く二つの膨らみに気付いて、少年は赤面してそっぽを向いた。


「うん、大丈夫みたい。骨と筋肉には異常無し。まあ、痣は確実にできるねえ」


「それは良かった。どうするリョウ、まだやるか?」


「やるよ、やるやる!今日は一本取れそうな気がするもの!」


 少年の代わりに少女が答えた。花野は龍成を無理矢理立たせると竹刀を持たせ、右手を上げてはじめーい!と叫んだ。


「今日こそ俺から一本取って、花野の許嫁内定か?さあ来い!」


「いや平太兄ヘイタニイ、今日はもう無理・・・」


「リョウがんばれえ!一本取れええ!!」




 少女の声援にかき消されて、少年の挑戦はなし崩しに続行となった。今出来る事は何も無い、とにかく休むんだ。龍成は間合いを取って休もうとした。花野は問題無いと言ったが、心臓の鼓動がおかしい気がする。すると、平太はニコニコと笑みを浮かべながら間合いを詰めてきた。意地が悪いにも程があるだろ!と龍成は心の中で悪態を吐いたが、やはり今は逃げるしかない。平太は微笑みながら間合いを詰めてくる。いや、嫌がらせではない。最後に一本取って終わらせようとしている。今日はこれくらいにしてやろう、と考えているんだ。それが分かると急に怒りが込み上げてきて、龍成は後ろに下がるのをやめた。


「おっ、覚悟を決めたか?」


「いいから来いよ!」


 開き直ると、呼吸も落ち着いて視野も広くなるのを感じた。龍成の視界の端っこに花野がいて、さらにそのずっと後ろ、本体を失った坂本龍馬像の台座の上に誰かが座っているのが見える。その人物は龍成の視線に気付いたのか、台座の上に立ち上がって手を振り始めた。その瞬間、頭頂部に鋭い痛みが走った。完全な一本だった。攻撃どころか、踏み込みさえ全く見えなかった。完全に虚を突かれた一撃。龍成は頭を押さえてしゃがみこんだ。


「せっかくやる気になったそばから、なんで気を抜いてしまえるかなあ?」


「痛てぇ・・・。龍馬像のとこにサルが来てるんだよ」


「へぇ?」


 平太が振り向くと、‟サル”と呼ばれた少年は花野の横に座ろうとしていた。サルは無邪気な表情で龍成に声をかけた。


「りょーせー、今日もぜんぜん勝てないのかあー?」


「うるせえなあ、さっき一本取りそうだったんだよ!」


「えー、ウソくさーい」


「本当だよサルちゃん、さっきお兄ちゃんが珍しく褒めてたんだから!」


「そうなのか?すごいすごい!」


 花野の言葉を聞いて、サルは体を揺すりながらキラキラした目で観戦を始めた。熱心な観客が一人増えてしまって、もう一試合行わなければならない雰囲気が漂っているが、龍成も平太も既にやる気を失っていた。あの一本で今日は終了、そのはずだった。それならば、あと一本適当に流して終わりだ。二人は視線で確認し合った。それも平太が一本取るのだから、龍成は癪ではあったが。


「そうだ、リョウ、あれやってみなよ、褒められた物真似の技!」


「技って・・・。あれはそんな大層なもんじゃないよ」


「何だって?物真似?」




 それは、龍成が剣術の道場で師範に褒められたという話だった。その時たまたま龍成は師範が竹刀を振るのを見ていて、その型を一切何も考えずに、所謂‟無心”の状態で真似した。すると、周りにいた練習生がどよめいた。まるで、剣を振っていたように見えたからだ。龍成はその場の皆が見守る中で同じ動きをさせられたが、緊張してしまい先程のようには出来なかった。師範は皆をそれぞれの練習に戻らせて、龍成にもう一度型を見せた。簡単に言えば、相手の剣を叩き落とし次に相手の手を打ち最後に面を打つという、高速の三連撃。正確には昔は高速だった連撃、だが。


 長部家の四国統一や紅竜軍の撃退戦、そして妖怪悪魔の類の討伐。要するにありとあらゆる戦いを経験してきたという老剣術師範の必殺技で、初見の相手には必ず当たると繰り返し歴代の弟子達に自慢してきた。この道場に関係する人間なら誰でも知っている。必殺‟ててめん”と老人は言う。手、手、面と打つからだ。いや、最初は剣を狙ってるじゃん、とは誰もが一度は必ず思うが、口に出した者はいない。そんな技を、龍成は見事に真似た。それは老人の型ではなく、現役の剣士が実戦で有効で使用する価値がある技として、道場にいる者達の目に映ったのだった。師範は自分で自分の型を見た事は無いからお前がどれだけ上手く俺を真似しているのかは分からんが、と前置きしてから言った。


「お前は達人に成りきれば、本当に達人に成れるかもしれんぞ?」


 もうその道場に平太は通っていない。長部家の親衛隊と実戦に近い練習を始めていて、仕事に随伴したりもしているという。それでも、龍成は平太が今でも老師範を尊敬していると知っていたから、その言葉は小さいが確実な自信となった。




 平太は興味を示した。


「やってみろよ、物真似剣。見てみたい」


「いや、あれは師範が目の前にいて、それを真似しただけだから・・・」


「んーそれじゃあさ、リョウ、お兄ちゃんの真似してみなよ」


 花野の言葉を聞いて、龍成はなるほどと思った。今まで桂浜に通って、何十回何百回と平太と立ち合ってきた。一本を取れた事は一度も無い。でも、坂本龍成ではなく、武市平太に成る事が出来れば・・・。やる価値はある。やってみよう。


 自分を消す。空っぽにする。そこに、降りてきたものを入れる。あの時は確か、そんなかんじだったと思う。自分を消して、武市平太を入れる・・・。




 龍成の雰囲気が変わった。それは、平太だけではなく花野とサルにも分かる程のはっきりとした変化だった。肩の力が抜け、表情は穏やかで自信に満ちたものとなり、中段に構えた竹刀の先端は正確に相手の正中線に合わせられた。


 身長が170センチに届かない13歳の少年と、身長が180センチに近い15歳の少年。片方は洋服を着て短い髪のどこにでもいそうな風貌で、もう片方は和服を着て伸ばした髪を後ろで縛った侍の子弟そのものに見える。明らかに外見は異なっている。なのに、そっくりだった。何も知らない他人が見れば兄弟か、想像力が豊かなら、小さい方が成長したら大きい方になるだろう、などと思ったかもしれない。


 平太の表情が変わった。笑みが消え、眉間に微かに皺が現れた。


 「からかってるわけじゃあ、ないみたいだな」


 

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不死語部口伝 死と闇を払う龍(仮題) 四国編 土井 留 @okameinkosukisuki

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