不死語部口伝 死と闇を払う龍(仮題) 四国編

土井 留

序章

 全身を包帯で覆った男は、若者を部屋に招き入れた。


 若者も先程換えたばかりの包帯で頭を覆っていたが、失った右目の辺りは既に血が滲み始めていた。男は若者を座布団に座らせると、茶を淹れ始めた。


「傷に良いと思うよ、あまり美味しいものではないけどね。私は痛みが和らぐから飲み始めて、今ではこれを飲まないと落ち着かなくなってしまった」


 若者は無表情で湯呑みを受け取ると、熱い液体を啜り始めた。殺風景な部屋には机と寝具と火鉢、そして灯りのロウソクくらいしか物が見当たらない。


 男も若者と向かい合って座ると、語り始めた。


「昔の事を誰かに話すのは久しぶりだ、何年振りかな? 君には、そうだな、最初から、あの日の事から話そう。君には聞いて欲しいし、聞く資格があると思う」






「あの日、私は東京の渋谷にいた。あの頃は自分の事を‟わたし”なんて呼んではいなかった。俺とか、調子に乗って俺様とか言ってたな。あの日俺は、はは、俺か、昔の自分に少しだけ戻った気がするな。


 あの日俺は、東京の渋谷のスクランブル交差点にいた。新曲のPVを撮るから、警察に頼み込んだり警備雇ったり、かなり大変だった。朝昼晩で3回撮るんだよ、交差点のど真ん中で。バンドのメンバーが演奏して俺が歌って、エキストラの連中が一斉に交差点を歩くんだよ、入り乱れて。最高だった。自分が世界の中心にいるって気がしたよ。朝も最高だった、昼と違って誰もいない、車も全然いない所で朝日浴びながら歌って演奏してさ。


 あの頃の俺はすごく格好良くてイケメンで、こんな醜い姿じゃなかった。歌声もギターで鳴らす音も最高だった。女を口説いても、全然失敗しなかった。俺を拒否する女なんて誰もいなかった。でもその中に一番可愛くて絶対ヤりたくて仕方ない女がいて、その女は結婚するまでは絶対ヤらせないって言うから、結婚したんだ。


 夜の交差点で撮影が始まる前に、小便しに行った。せっかく人が集まらないようにどっかのビルの裏口から入ってスタッフ用のトイレ使わせてもらえるようになってたのに、わざわざマックのトイレに入って、しかも出てからポテトのLを頼んだんだ。無性に食べたくなってさ。人が集まりまくって大パニックになって、スタッフもマネージャーも大慌てだった。ホントにバカだったなあ。


 その時視界の端っこに、俺に全く興味を示さない奴等がいるのがわかった。そいつらのスマホとかから凄い気持ち悪いアラームか何かの音がしていた、今思い出すと確かに凄く嫌な音が出ていた。俺は当然そんな奴等は無視した。ダサい奴等、今何が流行っているかも分かってない情弱なんてどうでもいいに決まってる。


 それに、店員の女の子があり得ないくらい可愛かったんだ。嫁といい勝負だった。スマイル要求して、連絡先交換しない?なんて言って、なんでキミみたいにカワイイ女の子が時給1000円以下で働いてるの?って訊いて。真っ赤になっちゃって、ウブなかんじがもう嫁には無いからグッと来ちゃって。そういうやり取りを集まってきた奴等が全部見たり撮ったりしててさ、後でどうすんだか、ホント救えないバカで、調子乗りすぎにも程があるよな。




 その時、外が光った。悲鳴が聞こえた。すぐに物凄い衝撃が来て、自分を含めた何もかもが吹き飛ぶのを感じた。


 俺はその一瞬、呑気に考えていた。バチが当たったって。


 自分の妻が妊娠してるのに、野次馬に囲まれながらバカ面下げてナンパしてたんだ。こりゃあ自業自得、天罰も下るよなって。


 普通にニュースとかを見てる連中なら、何が起ころうとしていたのか、何が起きたのか、ちゃんと分かっていたんだろう。


 俺はせいぜい、中国が色々揉めてて中でも外でもヤバい事になってる、位の事しか知らなかった。まあ、詳しく知ってればあの地獄を体験せずに済んだかと言えば、そんな事は無かったと思う。


 核戦争、ハルマゲドン、世界の終わり、この世の終わり。映画とかでも生き残るのはほんの一握り。ニュース見ているかなんて関係ない。




 昨日の事のようにはっきり思い出せるのはここまで。


 ここから先はぼやけていたり、忘れてしまった事の方が多い。でもその方が良かったのはわかる。辛い事、苦しい事、惨い事、見たくない事が多すぎたんだ。


 


 目が覚めると、何もかもが壊れていた。


 炎、煙、瓦礫、悪臭、そして死体。それだけだった。それしかなかった。


 電話もメールもLINEも使えなかった。誰とも連絡が付かなかった。妻も両親も兄妹も友達も、バンドの仲間もマネージャーもスタッフも。


 黒い汚れた雨に濡れながらさまよって、地下鉄の駅に逃げ込んだ。人だらけで怪我人だらけで、誰かが誰かを助ける為に必死に動き回っていた。俺は何もしないで座り込んでいた。何もせず、ただ茫然としていた。


 誰も俺に気付かなかった。声をかけてくる奴は一人もいなかった。


 どれくらい時間が経ったかわからない。便所に行って戻ったら、電気が消えた。真っ暗になった。女や子供の叫び声。それからしばらくして、また叫ぶ声が聞こえた。でも、リアルさが、深刻さが全然違った。絶叫だった。何人かが、スマホやらフラッシュライトの灯りを振り回しながら、地上に向かって慌てふためいて逃げていくのが見えた。


 どんどん騒ぎが大きくなっていったから、俺も立ち上がって見た。


 見た。


 地下から、地下鉄のホームの方から、が出てきて、人を襲っていた。


 一瞬見えたのは、昔話に出てくる鬼みたいなヤツと、初めて見た得体の知れない動物が、人を殺したり食ったりしている、そういう光景だった。

 

 俺は逃げた。警官とかが拳銃撃ったり、誰かがバケモノと戦ったりしていたけど、俺は逃げた。何もしなかった。誰も助けなかった。



 

 水と食べ物と安全な場所を探して、壊れた東京を歩き回った。暴徒化した人間やバケモノから、逃げたり隠れたりしながら。


 似たような状況の奴等が集まってグループになって、人数が増えたり減ったりして、噂を聞いた。皇居が一番安全で、寺や神社も無事に残っている所があると。


 皇居は無傷で残っていた。でも、入れなかった。光の壁のようなもので覆われていて、俺を含めて誰も中に入れなかった。


 俺は体調がおかしくなり始めていた。体がだるくて力が入らない。全身が痛い。鼻血が出たり、クソすると大量に血が出たりした。


 もうこれ以上動けないって時に、大きな神社に着いた。




 ここはがあるから問題無いと、医者の男が言った。


 俺はもう完全に動けなくなって、意識も朦朧としていて、医者や看護師の治療に身を任せているだけだった。神社は難民キャンプみたいになっていた。ここまで一緒に来た人間の中で一番症状が重くて一番最初に死にそうなのは、俺だった。


 でも、そうはならなかった。俺よりもずっと元気だった奴等がどんどん倒れて、どんどん死んでいった。気が付くと、残っていたのは俺だけだった。


「君は信心深いんだね、だから助かったんだよ」


 医者はそう言ったが、違った。俺は神様なんて信じてなかった。正月に神社や寺に初詣に行った事もあるけど、それはただ付き合いで行っただけだ。


 俺は死ななかったが、症状は悪化していた。体中の穴という穴全てから出血して、全ての毛髪は抜け落ちて、皮膚も崩れ始めた。最初は神様のおかげとか言っていた医者は、得体の知れないものを見るような目で俺を見始めた。


「なぜ、なぜ君は死なないんだ?」


 全身を包帯に巻かれて、血と膿と激痛に塗れながら、俺は生きていた。


 身体的苦痛から解放されたのは、数週間後か数か月後か。とにかく俺はようやく動けるようになった。死にかけの老人みたいな動きしかできなかったが。


 包帯を交換するときに、看護師の女に鏡を見せてくれと頼んだ。いつから鏡を、自分の姿を見ていないだろう? 今の俺はどんな顔をしている??


 看護師はまだ見ない方がいいと言ったが、医者は見せてやれと言った。俺は鏡を手渡されて、自分の顔を見た。




 それは、人間の顔ではなかった。


 死体の顔だった。ミイラが鏡を見つめていた。鼻と耳が無かった。髪の毛も、眉毛も無かった。俺は絶叫した。絶叫したが、口を大きく開ける事が出来ずに、漏れてきたのはおうおうという無様な呻き声だけだった。


 俺は絶望するだけで、何も出来なかった。それでも、色んな人達が親切にしてくれた。リハビリをして徐々にまともに動けるようになっていった。


 俺だけだった。こんな醜い姿になっても生きているのは、俺だけだった。あの輝いていた頃の俺は、欠片も残っていなかった。誰もが俺を哀れみの目で見た。


 俺はただ何もせず、何も出来ずに誰かの世話になっているだけだった。地獄と化した世界で必死に生きようとする人々を、ただ眺めていた。




 俺の体を診ながら、医者が話してくれた。今、何がどうなっているのかを。


「無数の核ミサイルが飛び交って、世界は終わった。でも、完全に終わったわけじゃない。みたいな場所が沢山あるらしい。核ミサイルと核ミサイルが、核爆発と核爆発がぶつかって、あの世とこの世の境目が開いてしまって、そこを通ってあの世の、異界の住人がこちらの世界に侵入してきているらしい。異界とか、魔界だ。妖怪とか悪魔とか人間の敵のバケモノが入ってきたけど、神様とか仏様とか人間の味方も来てくれたんだ。僕は核とか原子力の専門家じゃないからそんな事が本当に起こり得るかなんてわからない。でも、実際に見た事もないバケモノが人間を襲っているし、実際にこの場所では将門公を篤く信仰している人が常識では考えられない力を発揮したり、高濃度の放射線の影響がほとんど見られなかったりするんだ。君の場合は明らかに信仰心が薄くて神様に助けてもらえなくて死ぬケースなのに、そんな状態で生きている。これだけは辻褄が合わなくて、何故なのかは全くわからないけれど」


 医者は大体そんなかんじの事を語っていたと思う。




 何度もバケモノや暴徒がを襲撃してきたが、を受けた戦士達が撃退していた。どう見ても戦えそうにないひ弱な奴とかデブとか老人までもが、ホームセンターの売り物程度の武器で見事に戦っているのを見ると、俺も考えを改めるしかなかった。


 神だの仏だのが本当にいるかもしれない。いや、その逆の奴等が湧いて出てきて人間を襲っているのを実際に何度も見たじゃないか。それでも、お祈りも神頼みもする気にはなれなかった。全てを失った。神様がいて神の力があっても、それを取り戻せるとは思えなかった。




 ある夜に、終わりがやってきた。よくある襲撃だと最初は思った。


 でも違った。最初にバケモノ達が襲ってきて、それを警備の奴等が撃退した。そしたら、敵の人間どもが銃を撃ってきた。拳銃じゃなくて、軍隊とかが使うようなライフル銃だった。それで結構な人数がやられて、敵が境内に侵入するのを許してしまった。敵は、バケモノと人間が仲間同士みたいに連携していた。


 俺を世話してくれた医者の先生まで武器を持って戦おうとしていた。いつも包帯換えたりリハビリを手伝ったりしてくれた看護師の女は、必死に瀕死の怪我人を助けようとしていた。俺はもう無理だ、全滅すると思った。俺は、逃げ出した。


 何もせず、誰も助けず、俺は逃げた。




 その時、完全に‟俺”は死んだ。‟私”になった。美しかった自分も、自信に満ち溢れていた自分も、完全に消滅した。


 世界が終わった日からどれ位の時間が経っていたのだろうか。その日から‟私”の旅が始まった。ただ生きて、ただ傍観するだけの人生が始まった。




 飢えや乾きが遠くなっていた。飲まず食わずでも平気というわけではなくても、普通の人間に比べれば遥かに少量の水と食べ物で生きられるようになった。泥水を啜っても、腐ったものを食べても体調を崩す事は無かった。


 全ての感覚も遠くなった。五感が鈍く薄くなり、まるで自分の意識が自分の体の一歩後ろにいるように感じられるようになった。その代わりかどうかはわからないが、遂に私も知覚出来るようになった。


 神、仏、精霊、妖怪、悪魔、霊体・・・。要するに、そういう類だ。


 


 私は歩いた。


 幸いな事に、誰かが私から奪おうとしても奪う物は無く、ただ楽しむ為に人を殺す者でも私を人ではなく死体のようなものと認識し、希薄になった私の存在に人外の者どもも殆ど興味を示さなかった。


 私は歩いた。目的地も無い。ただ彷徨い歩いた。


 


 人々は必死に生きていた。善い者も悪い者も、神仏の加護を受けた者もそうでない者も。人間と戦い、人外の者と戦い、安住の地を求めて戦っていた。




 私は見た。


 空と海から押し寄せる大陸から来た大軍勢と、この国を守ろうとする者達の死闘を。圧倒的な物量の敵と戦う、神の加護を受けた戦士たちの雄姿を。


 北方の大国が神の制御に失敗して生まれた巨大な氷壁が如何なる手立ても空しく

 育ち続け、少しずつ人々の土地を侵していくあまりに美しく絶望的な光景を。


 神域から遠く加護が薄い地で新たな国を作ろうとする者達が、それぞれ異なる神を信じるが為に戦わざるを得ない悲劇を。


 かつて繁栄した大都市が魔の巣窟と化し、それでもそこに留まる者、魔の恩恵を受けようとする者、そして魔を払おうとする者、それぞれの生き様を。


 ・・・そして、最強の兵を抱える火の国と、大いなる水龍の力を得た大国と、黄泉津大神に奪われた死の国の物語を」




 


 若者は黙って男の話を聞いていた。不思議な感覚だった。知らない言葉も多く出てきたが、それでも聞いた全てを理解できた気がした。


「もう一杯飲むかい?」


 男は訊いた。若者は反射的に頷いてしまって、男が差し出してきたヤカンからお茶が出てくるのを湯呑みで受け止めるしかなかった。不快感は無かった。それどころか、強い共感のようなものが湧き始めていた。


 若者は、初めて男と完全に視線を合わせた。完全にと言っても左目しか使えない状態だから実際は半分だが、それで十分だった。優しい目だった。その目を見ていると、視界が滲んでくるのが分かった。涙がこぼれても、恥ずかしいとは思わなかった。男は静かに微笑んで若者を見つめていた。そして、話した。


「君は私とは違う。いいかい?君は私とは違うんだ。綺麗事じゃない、本当に違うんだ。私は何もせず逃げて、ただ長い間生きてきただけだ。長いだけで、無意味にだ。弱くて何も出来ない人間で、今でもそうだ。でも、君は違う。君は強くて、力がある。戦えるんだ。私みたいな人間の方が多い、圧倒的に多い、わかるだろう?でも君は違う、確実に何かできる事がある、わかるだろう?」


「わかります」


 若者は答えた。茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。目に光が戻っている。分かりやすい変化だった。


「お話、ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」


 若者は深く一礼すると部屋を出た。戸を閉める時に、もう一度頭を下げた。男はただ頷いて、黙って若者を見送った。




 しばらくの静寂の後で、ぽつりと呟いた。


「・・・無意味では、無かったかもね」



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