ひとりよがりの雨
猫屋梵天堂本舗
第1話 ひとりよがりの雨
今日は朝から、冷たい雨が降っていた。
カーテンを開ける前から、外がひどく寒くて、そして雨空なのは分かっていた。
雨音が聞こえていたわけじゃない。
今時のサッシは、雨どころか車や電車の行き交う音ですら遮断してくれるから。
だからあたしは、自分の部屋にいる時は安心できた。
外の世界とあたしは、かけ離れている。
この窓と壁が、光も、音も、空気も、何もかもを遮断してくれる。
ここは、あたしの部屋は、あたしだけの空間。まわりにあるものすべてが、あたしを守ってくれていると。
なのに、今朝は違った。
目がさめると、ぴっちり閉め切っているはずの遮光カーテンの隙間から、ほのぐらい外の光が見えた。
ベッドから起き上がり、真っ暗な部屋を光の方へと歩いた。
ぼんやりとした灰色の光を見たとき、あたしは……雨の記憶が蘇ってくるのを感じた。
あの雨の日のことを。
冷たい雨がしとしとと、静かに降り続けていたあの時のことを。
あの日あたしは、雨の中、コートのポケットに手を突っ込んで、傘もささずに立っていた。
傘を満っていなかったことが問題なんじゃない。降り出した雨の中で、ひとりきりでいることが、ただ寂しかった。
自分の頬を濡らしているのが、雨なのか涙なのか、あるいはその両方なのかを判断することさえ放棄していた。
どうでもよかった。
あたしはただ、あの家の前で立ち尽くしていた。
降りしきる雨の中、びしょ濡れで、たったひとりで。
あの日、あのとき、あのひとの家の前に立っていたことを、どうしてあたしは忘れていたのだろう。
いま、自分の部屋の窓をほんの少し開けて、降り続く雨のにおいを嗅いだ瞬間、あたしは何もかも思いだした。
彼のことを心から愛していたことも。
彼は素敵な人だった。
あたしより少し年下だったけれど、あたしよりずっと大人っぽくて、世慣れしていて、お洒落で、それにハンサムだった。
どうしてこんな人があたしなんかのことを気にかけてくれるのか、その理由が分からなくて、はじめのうちはからかわれているだけなんだと信じようとした。
「君のことが好きだ。ずっと、君のことが頭から離れない」
彼から告白された時も、あたしはエイプリルフールか何かだと思って、はじめはまともに取り合わなかった。本当に、ただのジョークだと思ったのだ。
彼が真剣だと訴えてくれたのは嬉しかったけれど、それでもあたしには、彼と恋をする自信などなかったから、思いつく限りの言い訳を並べて、全てなかったことにしようとしたものだ。
「あたしあなたよりずっと年上のオバチャンだし、見た目もあなたの好みじゃないでしょ。デブなのにまな板でチビでブス。他を探して」
あたしは精一杯粋がって言ったつもりだったが、彼は皮肉っぽく肩をすくめて笑った。
「惚れちゃったもんはしょうがない」
そうして、あたしたちは恋に落ちることを選んだ。
甘い言葉が積み重なり、夢のような時間が飛ぶように過ぎた。
本当に、あたしは彼のためなら何でもした。
自分の持てる全てを、彼のために惜しみなく捧げた。文字通り、身も心も全て。
彼はとても優しい人で、あたしを気遣い、大切に扱ってくれた。
あの頃のあたしは、たぶんこれまでの人生の中で、いちばんの幸せを味わっていたのだろう。
でも、同時に……あたしはいつも、寂しくてたまらなかった。
彼の心の中には、あたしには絶対に入り込めない、決して入れてもらえない、秘密の部屋があるのを感じていたから。
それは、彼と彼女の部屋。
ふたりだけの部屋。
彼は彼女に屈託なく笑いかけ、彼女は無邪気に彼を抱きしめ、信頼と安堵がふたりを包んでいる。
何のしがらみも悩みもなく、愛し愛される無限の幸福が永遠に続く、鍵のかかった部屋。
あたしはそれを、窓の外から見つめることしかできない。
彼の心の中にそんな空間があることになんて、気付かなければ良かった。
気付いても、知らない振りを続ければ良かった。
でも彼は、わたしにも平気で……何のためらいもなく、彼女との愛の積み重ねを語った。
どんなふうに彼女が彼を愛しているか、彼がどれほど彼女を愛しているか。
それだけわたしを信頼していたのだと思う人もいるかもしれない。
でも、わたしはせいいっぱいの作り笑顔でそれを聞きながら、嫉妬と屈辱で、心臓を……いいえ、内臓という内臓のすべてを切り裂かれるように感じていた。
男なんてそんなものだと、割り切ろうともした。
真実の初恋の相手はひとりきりで、わたしはそうはなれないのだから、全て黙って受け入れるべきなのだと。
過去に捉われるより、彼との未来を選ぶべきなのだと。
あんまり思い詰めて、嫉妬ばかりしている女なんて、男にとってはただのお荷物でしかない。
彼に捨てられるくらいなら、どんなに辛くても我慢しよう。
必死にそう、自分に言い聞かせ続けた。
でも、あの日。
あの、雨の日。
世界はあまりにも静かで、雨音のほかには何も聞こえなくて、あたしは心細くてたまらなかった。
どうしても彼に会いたくて、何の記念日でもなかったけれど、何度もメールと電話をした。
今すぐ会いにきてほしかった。
いいえ、顔を見られなくても、ただ声を聞けるだけで良かった。返ってきたのがただのそっけないメールだけだったとしても、あたしはかすかな希望を抱けたかも知れない。
そのくらい寂しくて、不安で、辛くて。
あたしはひとりぼっちの部屋の中で、ただスマフォを見つめながら、ひたすら待ち続けていた。
なのに。
メールの返事は来ず、携帯は留守電で、四度目に電話した時には電源を切られていた。
あたしは最初、彼に何かあったのではと不安になった。具合でも悪いのだろうか、メールの返信もできないくらい疲れているのか。どこかで何か、トラブルに巻き込まれているのかもしれない。事故にあったとか、大きな怪我をしたとか、とにかくあたしに連絡できないほど恐ろしい目に遭っているのではないかと。
でも、すぐに悟った。
彼、あの女と一緒にいる。
だから、彼はあたしに連絡してくれないんだ。
事故なら警察から連絡があるだろうし、具合が悪いなら、病院へ行くより先に彼はあたしに電話する。あたしの仕事が看護士だって、彼は知っている。
彼は、あたしが邪魔なんだ。
あたしのことなんて、たとえ無視したところで、あとで、たぶん明日か明後日になってから、ご機嫌取りのメールのひとつもすれば有頂天になってすり寄ってくるって、彼はちゃんと分かっていたのだ。
実際、明日か明後日がやってきていたら、あたしはまたいつも通りに、彼のためなら何でもする女になっていただろう。
けれど、彼にとっての明日は来なかった。
降り続く雨の中、あたしはそのままふらふらと自分の部屋を出た。
彼の家の前まで行ったあたしは、しばらくそのままじっと、窓越しに彼と彼女の姿を見つめて。
彼は楽しそうに、何の屈託もない子供のような瞳で笑っていた。ソファーの上でゆったりと寝そべっているのは、本当に愛しくて、可愛くてたまらなかった。
あたしは今まで一度も、そんなふうに彼に微笑みかけられたことはなかった。
その隣に寄り添っているのが自分だったら、どんなに良かっただろう。
でも、彼に寄り添って同じソファーに横たわっていたのは、彼の母だった。
彼の自慢のお母さん。若々しくて、すらりと背が高くて、五十代なのに素晴らしいプロポーションを維持して、いつも素敵なアクセサリーとシンプルなファッションに身を包んで、自分がどれほど美しいかを周囲に知らしめていた、あのひと。
チビで貧相で、誇れるものなど何もないあたしには、何の取り柄もないあたしには、彼女は永遠に勝てない相手だった。
彼女はいつだって人目をはばからず堂々と彼にキスし、彼を抱きしめ、彼と手をつないで歩いて、あたしなんかよりもずっと彼に相応しいと常にあたしを見下していた女。
あたしは忘れない。
彼が初めてあたしのことをお母さんに紹介した時、彼女はこう言ったのだ。
「はじめまして、子豚ちゃん」
「はじめまして、おかあさま」
あたしの必死の受け答えに、彼女は高らかに笑った。
「豚が無理に人間の言葉を話さなくていいわ。ブーブー鳴きなさい、四つん這いになってね」
そのとき彼は、なんとかして助け舟を出そうとしてくれた。
「失礼だよ」「彼女は僕の友達なんだから」「やめてよ、ママ」
そんな言葉の羅列にも、あのひとは冷たい笑みを浮かべて、彼の肩に手を回しながら言ったものだ。
「あなた、うちの息子に相応しくないわ。あなが一番分かってるでしょう。二度と息子に近づかないでちょうだいね」
彼女が突きつけてきたのは事実だった。
本当に、あたしが一番よく分かっていた。
彼より年上で、見た目も収入も、何もかもが不釣り合い。
あたしなんかより、彼に相応しい人はいくらでもいる。
自分が抱えている不安の全てを、彼女に言い当てられて。あたしには返す言葉もなかった。
あたしを愛していてくれたはずの彼ですら、一言も発しなかった。
それきり、彼からの連絡は途絶えた。
電話も、メールもなかった。
彼のSNSには、何ごともなかったように、お母さんの作ってくれた素敵な朝食や、友達を家に招いてのディナー、趣味のあれこれの写真が次々とアップされた。ネット上で彼は、新旧を問わず、楽しそうに友達とやり取りしていた。たくさんの女の子たちとも。
まるであたしのことなど、存在しなかったかのように。
この雨の中、あたしはこのまま引き返して、自分の部屋に帰るべきなのだろうか。
彼との思い出の詰まったパソコンを初期化し、SNSも削除して、何もなかったことにして、全てを忘れて……あたしにとっては虚無でしかない現実の世界へと戻るべきなのだろうか。
でもあたしは、あの女のことだけは許せない。
あたしを豚と呼び、あたしのささやかな愛を奪った女のことを。
だから、あたしはやった。
あたしの手の中には……コートのポケットに突っ込んだ手の中には、小さなキッチンナイフが入っていたのだけれど。
小さくても、人を殺すのには十分だったから。
あたしは玄関のチャイムを鳴らし、出てきた彼女を刺した。何度も、何度も。
彼女が床に倒れてからも、もう死んでいると確信できるまで繰り返し刺し続けた。
ほんの数秒遅れて出てきた、あたしの愛するひとは、その場面の恐ろしさに凍り付いて、やがて悲鳴をあげ始めた。
あたしは、あたしたちが幸せになるのを邪魔しようとする悪魔を排除しただけなのに。
彼は、「ママ、ママ」と泣き叫びながら、あの女の生暖かい死体を抱き上げようとした。
あたしなんかより、そいつの方がいいんだ。
あたしのことを愛してるって言ったのに。
誰よりも愛してるって言ってくれたのに。
だからあたしは、彼のことも刺した。
一度だけ。
それでも、渾身の力をこめて。
彼の胸にナイフを突き立てた。
彼があたしの心をズタズタにしたのだから、あたしにだって、彼の心臓を引き裂く権利があると思ったのだ。
彼はすぐに動かなくなり、あたしはその場を去った。
ひどい返り血を浴びていたけれど、雨が全てを洗い流してくれた。
気分は最高と言いたかったけれど、ただ悲しいだけだった。
三日後にあたしは逮捕されて、二人を殺した罪で裁かれることになった。
あたしは全てを認めたけれど、反省の言葉は一言も口にしなかったから、もしかしたら死刑になるかもしれない。
拘置所の小さな窓からも、空は見える。雨が降っているのが見える。
あたしは何故か確信している。
あたしが死ぬその日が来たら、やはり雨なのだろうと。
そして、そう思うだけで、心がとても安らかになるのだ。
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