Episode8 証拠不十分 10月13日(日)に早送り

 10月13日(日)、午後1時過ぎ。

 それは、父1人、子1人の平良家での昼食が終わった頃であった。


「実葉、後片づけはお父さんがするから、少し休んでいろ。お前も”ここのところ、大変だった”んだから」


「ありがとう、お父さん。でも、もうスポンジに洗剤つけちゃったし……このまま最後まで洗っちゃうよ」


 2人分の洗い物へと、手際よく取り掛かり始めた実葉。

 ”友人の突然の自死”という心の傷を負っているにもかかわらず、自分を心配させまいと気丈に振る舞う一人娘の後ろ姿に、平良実は胸が痛んだ。


 父と娘の2人だけで暮らし始めて、もう何年になるだろうか?


 コウノトリは、本当に”出来過ぎる子”を俺の元に運んできてくれた。あるいは、会社の若い男性社員たちが、休憩時間にスマホを片手に話していた言葉で言えば、俺は子供に関しては”最強のガチャ”を引き当てたんだろう。


 実葉は、幼い頃から手がかからず、聞き分けも良く、成績だって塾に行かせたり家庭教師をつけていたわけでもないのに、オールマイティに優秀で、今も県下一の進学校において常にトップクラスの成績だ。

 さら言うなら、実葉は容姿だって親の贔屓目で見なくても、平均以上であるだろう。

 いや、成績や容姿といった数値で測れたり、目に見えたりすることだけじゃない。


 母親が出て行って寂しかったろうに、実葉は自分のことなどよりも、常に父親である俺を気づかってくれていた。物静かで年齢よりも大人びており、理解力と包容力のある子供だ。優しい子供だ。


 けれども、そんな実葉も思春期の女の子ならではの心や体の変化に戸惑ったり、また女の子特有の人間関係の難しさに直面したことは少なからずあったはずだ。

 そんな時にこそ、”あいつ”が――葉子が実葉の側にいてくれていたなら……

 そういえば、実葉は先日、友達と遊びに行った蘭舞高校の文化祭で、葉子に偶然会ったと言っていたな……



 元妻・葉子がこの家を出ていった理由については、今でも分からない実。

 実側に重責――浮気、ギャンブル、借金、暴力などは一切なかった。そして、同じく葉子側にも借金や男の影などは皆無だった。

 それに、実自身の願望による思い込みかもしれないが、葉子は単に夫の自分を嫌って出ていったのではない気もしていた。


 葉子は控えめで家庭的な女だった。

 あのまま、自分たち夫婦の名前――実と葉子から一文字ずつ漢字を取って名付けた愛娘・実葉の成長をともに見届け、生涯をともにするものだと思っていた。そして、どちらかがどちらかの最期を看取るものだと思っていた。けれども、そうではなかった。



 インターホンが鳴る。

 洗い物を終え、食器乾燥機に食器をしまっていた実葉が振り返る。

「お父さんが出るから」と実は立ち上がった。

 インターホンから聞こえてきた声は、今まさに実が思い出していた元妻の声であった。


「お久しぶりです。私です……葉子です」



 ※※※



 元妻・葉子の突然の来訪。

 離婚成立後、実葉の誕生日や卒業式や入学式の時ですら電話一本も寄こさず、儀礼的な贈り物をしてくるだけであった葉子がこんな何でもない日の日曜日にやってきた。


 葉子が再婚したということは、実も知っていた。

 けれども、詳しくは知らなかった。どんな相手と再婚したのか、その相手に子供はいたのか、もしくはその相手との間に新たな子供は生まれたのか、ということは。

 聞いたところで、葉子が自分たちの元に戻ってくるわけではないのだから、と。


 ファッションには疎い実であるが、葉子が着ている服はなかなかに高そうなものであることは一目で分かった。

 もしかしたら俺より稼ぐ男と再婚したのか、とも実は推測せずにはいられない。


 けれども、高そうな服に身を包んだ葉子自身は、ボロ雑巾そのものであった。

 化粧もろくにのらないのか荒れた肌はむくみ、目の下には青い隈が刻まれている。疲労困憊していることは明らかであるも、瞳だけは妙にギロギロとしていた。

 アンバランス。そして、鬼気迫る表情。


 葉子は実への挨拶もそこそこに、実葉を睨み付けた。


「実葉……2人だけで話をしたいの。あなたの部屋に行きましょう」


「どうしたの? お母さん。突然、何なの?」


「お母さんがなぜここにやってきたか……あなたに何を聞きたいか、分かるでしょう? あなただって、お父さんに聞かれたら困ることでしょう?」


「え……? 何の話をしているの? 私にはお父さんに聞かれて困ることなんてないけど……」



 実葉は怯えている。いや、”怯えているように見せている”。

 まったく、この娘は女優にだってなれるんじゃないのか?

 演技力までもが、かつて一緒に暮らしていた時と比べてパワーアップしている。

 この怯えの演技によって、たった1人の観客である実には”突然にヒステリーを起こしてやってきた自分こそが悪者として映っている”に違いない。

 だが、この怪物と対峙しなければならない。

 可哀想な希来里のためにも――



「おい、葉子! いきなりやってきて何なんだ! お前、どうかしているんじゃないのか!?」


「あなたは黙っていて!」


 どうかしているのは、実葉の方だ。

 いいえ、実、あなたもあなたで別の意味でどうかしている。

 実葉と17年間も一緒に暮らしているにもかかわらず、この娘の異常さに気づきもしていないなんて。


「葉子、とりあえず座れ。俺も話を聞かせてもらう」


 葉子と向かい合う形でテーブルに座った実葉の隣に、突撃してきた元妻から愛娘を守らんとする実も腰を下ろした。


「実葉……先月の乱舞高校の文化祭でダンス部の女の子が、舞台で”大きい方”を漏らしちゃったのは知っているわよね? あなたも体育館の中で見ていたわよね?」


「うん、それは確かに見てたよ。でも、本当に可哀想だったし、私はあの後、すぐに友達と一緒に体育館から出ていったから……」


「あの漏らしてしまった子はね……お母さんの”今の娘”なの。あの子は、”あれ”が原因で不登校になって、ずっと部屋の中に閉じこもったまま家の外に出ることができなくなって……っ……」


 葉子の言葉は、葉子自身の嗚咽によって続けることができなくなってしまった。

 

 可哀想な、本当に可哀想な希来里。

 若い娘が、いや若い娘でなくても人前で、それも大勢の人々が見ている前で、脱糞してしまうなんて……

 下品な言い方だが、パンチラや乳首ポロリの方が数億倍マシだったろう。それに、体内にあったものを外に出してしまわざるを得なかったとしても、嘔吐の方がまだわずかに救われる。


 さらに言うなら、人の口に戸が立てられないばかりか、今の世はネット社会なのだ。

 何でも面白がって、または悪意を持って、ネットにあげる者がいる社会なのだ。現にあの時だって、野次を飛ばす心無い者が幾人もいたし、スマホのフラッシュが舞台に向かって幾度も光っていた。


 葉子だって、希来里と同じ目に”遭わされた”なら、もう二度と学校に行くことはできないだろう。それどころか、死すら考えるに違いない。

 

 止まらぬ涙を手の甲でぬぐった葉子は、再び実葉を睨みつけた。


「”あれ”には、あなたが絡んでいるのよね? あなたが、あの子を……希来里をあんな目に遭わせたのよね?」


「え? お母さん、何言って……」


「とぼけないで! あなた、あの時、笑っていたでしょう? 体育館の中にいた”誰か”に目配せして笑っていたでしょう?!」


「私は笑ってなんかいないわ! ”あんなこと”笑えるようなことじゃないでしょ! そもそも、私が”どうやって”、お母さんの娘さんをあんな目に遭わせたっていうの?!」


「…………お母さんには、”どんなからくり”なのかは分からない。でも、絶対にあなたが絡んでいる。”あの日のあなたの笑みを思い出す度に、その確信は強くなっていったわ”。だから、今日、ここに来たの! お母さんには分かっているのよ! 実葉、あなたは希来里に嫉妬して……」


「嫉妬って…………お母さん、考えてみて。ううん、よく、あの日のこと思い出してみて。あの日、私がお母さんに蘭舞高校の文化祭で会ったのは”本当に偶然”でしょ。その時、私はお母さんと話をしたけど……お母さん、”今の子供”が息子か娘かも私に言わなかったはずよ」


 確かにそうだ。

 葉子は、”子供”としか実葉には言っていなかった。


「それに、その”今の子供”がダンス部に所属しているってことも、言わなかったでしょ。お母さんの娘さんがダンス部の発表に出ることすら、私は知らなかったんだよ」


 確かに全てが実葉の言う通りだ。


「そもそも、仮に私が娘さんに嫉妬して嫌がらせをしようとしたにしても、お母さんと別れた後も私はずっと友達と一緒にいたんだよ。それに……あの時間だったら、当の娘さんだってもうとっくに体育館の中に入って、同じダンス部の人たちと舞台の袖に控えている頃合いに違いないし……そんななか、どうやって私が娘さんに近づけるの? 指一本触れることができない状況だよ」


 追い風は実葉へと吹いていた。

 いや、最初から実葉への追い風しか吹いていない。



「お母さん……もしかして、私が体育館の中で笑っているように見えたっていう、”たったそれだけを根拠に”ここに来たの? 仮にお母さんの言う通り、私が誰かに目配せして笑っていたのだとしても、そんなのは”証拠不十分”というより、証拠にすらならないよ」


 証拠不十分。そもそも最初から物証的な証拠は皆無だ。

 葉子が確かに見た実葉の笑み、そして、その笑みを思い出すたびに、葉子の中での強まっていった確信。

 これは、血を分け合った者だからこその本能的な勘であり、血の引力による確信であるとしか言えない。


「娘さんがあんなことになって、お母さんが誰かに責任転嫁したくなってしまう気持ちは分かるよ。でも……っ……こんなのって酷いよ! 私、あの日、お母さんに再会できて、うれしかったのに! 私だってお母さんの子供なのに! お母さんだってそう言ってくれたのに!!」



 わあああっと泣き出した実葉。

「実葉……」と実が実葉の肩を抱き寄せた。


 実は険しい顔で――過去の結婚生活においても見たことがない険しい顔で葉子をギッと睨み付けた。


「葉子、いい加減にしろ! お前は自分が実葉にどれだけ残酷なことをしているのか、分かっているのか! お前はお前で今の家庭が大切なんだろうが、実葉はお前が産んだ実の娘なんだぞ! 実葉がどんな子か、お前だって分かっているだろう? 母親なのに、なんで実葉を疑うんだ! なんで実葉を信じられないんだ!?」


 ええ、知っている。この子がどんな子かは、あなた以上に知っている。そして、母親だからこそ、この子を信じられないのだ。


「その、なんだ……大勢の前で漏らしてしまったお前の今の娘は気の毒だが、原因はお前が作った食事にあったんじゃないのか? お前が持たせた弁当が腐っていたんじゃないのか?!」


「あの日、私は希来里にお弁当は持たせていないわ! あの子のお昼は、ダンス部のOGたちから支給されたお弁当とお茶だったんだから」


「その出された弁当を食べて、他にお腹の調子が悪くなった子はいなかったのか?」


「……いなかったわ。学校の先生とかも調べてくれたみたいだけど、他に体調を崩した子はいなかったのよ……」


「じゃあ、お前の作った朝飯が原因だろう?」


「朝食は確かに私が作ったわ。でも、全く同じものを食べた私も夫も何ともなかった……それに、朝食が痛んでいたなら、もっと早くに症状が出るはずだし」


 もはや、葉子は決定的な敗北を突き付けられるためだけに、勝ち目のない戦にやってきたようであった。

 原因は、昼食でもなく朝食でもない。他にあの日の希来里が口にしていた可能性があるものといえば、コンビニや自販機で買っていたかもしれないスポーツドリンクや、本番前の緊張を和らげるために家から持っていったビスケットとかグミといったおやつぐらいだ。しかし、これらは全て市販のものだ。

 

 ヒックヒックとしゃくりあげながら実葉が言う。


「……お母さん……っ……娘さんの排泄のタイミングを他人が操るなんて、常識的に考えて誰にもできないことだよ……っ……あの日、お腹の調子が悪かった娘さんが”最初から舞台に出ないこと”を選択していたら、娘さんは人前で……それも最高潮の盛り上がりとなるクライマックスシーンで漏らすことにはならなかったわけだし……」


 こぼれ続ける涙をぬぐった実葉は、まっすぐに葉子の瞳を見つめた。


「お母さんには、きっと私は悪魔か怪物にでも見えているんだよね。でも、そんな風に思われる”心当たり”なんて私には”全くない”よ……どうして、私のことをそんな風に思ってるの?」



 実葉の言葉を聞いた葉子の恐怖は、この時、絶頂に達することとなった。


 実葉は分かっている。

 ちゃんと、分かっているのだ。

 葉子が実の前で、12年前の事件の”真相”を話せるわけがないということを。

 ”保身”という名の棺に入れ、”時間”という土をかぶせつづけてきた真実を掘り起こせやしないということを。



「葉子、帰ってくれ……ただでさえ今の実葉は精神的に参っているんだ。中学時代の友達を亡くしたばかりなんだから」


「! ま、まさか、実葉が……」


「ンなわけないだろう!!! その子は自殺だ! 自殺したんだ! 学校を休んだ日に自宅で首を吊って……実葉は学校から帰ってきて、”別の高校に通っていた”その友達の訃報を知ったんだ!」


 再び両手で顔を覆った実葉が、肩を震わせる。

 自ら死を選ぶほどに追い詰められていた友人を救えなかったという苦しみと慟哭の思いを、反芻させているように”見せている”としか、葉子にはなおも思えなかった。



「葉子、もう一度だけ言う。早く帰ってくれ。そして、二度と俺たちの前に現れないでくれ。そして、その荒唐無稽な被害妄想を治すために心療内科にでも行けよ……実葉の前だし、今のお前は”他の男の嫁”だから殴りたくないが、このままだと俺はお前を殴ってしまいそうだ……!」


 怒りを押し殺している実。

 かつての交際期間中や”俺の嫁”であった結婚期間中においても、拳をあげたことなど一度もなく、また殴るぞと言葉で脅したことすらなかった実が拳をブルブルと震わせている。


 頬に流れ続ける涙をぬぐった実葉が言う。


「……さよなら、お母さん。でも、”今度は”子供から逃げ出さないでね」



※※※



 唇を噛みしめた葉子が飛び出ていった後、実は実葉を抱きしめた。 

 父親とはいえ17才という思春期の娘の体に触れることに少し躊躇したも、”可哀想な娘”を腕の中に抱きしめずにはいられなかった。


 世の娘たちの中には「お父さん、臭い」「お父さん、汚い」なんて父親を毛嫌いする娘もいるらしいが、実葉はそんなことは一度だって言わなかった。

 それどころか、「お疲れ様、いつもありがとう、お父さん」といつも自分を労わってくれていた。最初はどちらも慣れなかった家事だって、ずっと協力して行ってきた。


 優しいうえにしっかり者で優秀な出来過ぎた娘が、まるで幼子のように肩を震わせ、自分の腕の中で泣きじゃくっている。


 葉子があんな女だったとは……!

 かつて3人家族であった頃の幸せな思い出までもが、今日というこの日、ズタズタのボロボロに引き裂かれてしまった。



「……もうお母さんなんて知らない。お母さんなんて最初からいなかったんだよ。私にはお父さんだけいればいい。お父さんと”ずっと仲良し”でいることができればいい」


 そう言った実葉は、実の肩に涙で濡れた顔をうずめた。


 実葉の頬は、涙で濡れていた。

 しかし、目から溢れていた涙はもう止まりかけていた。


 何も知らぬ、そして、何も気づかぬ父の前で、これからもずっと”あどけなき皮”をかぶり続けるであろう娘の口元はフッと緩んでいた。

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