Episode8 証拠不十分 9月23日(祝)文化祭当日2

 母と娘の数年ぶりの再会。

 しかし、母・葉子とは違い、娘・実葉は表情一つ変えなかった。

 もう何年も会っていなかった産みの母へと、目に涙をいっぱいためて駆け寄ってくるわけでもなく、あるいはプイッと顔を背けたり、睨み付けてくるわけでもなかった。


 葉子と実葉の視線が交わっていることに気づいたのか、実葉の友人の1人が自分たちの方へと振り返った。

 超進学校に通っているにしては、やや派手めな風貌――おそらく地毛だとは思うが少し茶色がかった黒髪で、スカート丈も実葉に比べるとほんの少し短くて、不真面目なギャルというよりもバレーボール部に入っていそうな快活な女子高校生といった感じのその娘が問う。


「実葉、どうかした?」


「この人、私のお母さんなの」


「え? でも、実葉の家って……」


 言いかけた彼女は、途中でハッとする。そして、彼女の傍らの他2人の娘たちもすぐに”同じこと”を察したらしかった。

 元夫・平良実は再婚はせずに、父と娘の2人だけで暮らしてきたに違いない。


「ごめん、ちょっとお母さんと話したいんだ。後で連絡入れるから」


 そう言った実葉に、友人たちは”了解”というように頷き、あるいは軽く手をあげた。



※※※



 廊下へと出た葉子と実葉。

 こうして並ぶと、実葉の背丈は自分よりも高いことに葉子は気づく。

 この娘は、かつて自分の両腕の中に抱けるほどに小さかった。おっぱいを飲ませたり、オムツを変えたり、あやして寝かしつけたり、絵本を読み聞かせていたりしていた頃は、本当にただ愛しいばかりの存在であったことも葉子は思い出す。


 ”実葉はいったい、どんな高校生活を送っているのかしら?”と葉子は考える。

 不穏なものが胸をよぎっていったが、先ほどまでの実葉の友人たちの様子――”実葉”と名前で呼ばれていること、そのうえ、こうして友人同士で連れだって他校の文化祭に来ていることから推測するに、実葉はごく普通の高校生として、周囲に溶け込んでいるのだろう。



「……実葉、元気にしていた?」


「元気だよ。まあ、いつも同じ調子とはいかないけどね」

 

 廊下の窓ガラスごしの青い空を見上げたまま娘へと問うた母に、娘も青い空を見上げたまま母へと答えた。

 互いの顔を見ることはない母娘の会話は、まだ続く。


「……何か、部活とか入ってる?」


「部活には入ってないよ。絵を描くのは今でも好きだから、たまに勉強の息抜きに”色鉛筆で絵を描く”ぐらいかな」


「……その勉強についてだけど、進みたい学部とかもう決めてるの?」


「昔は医療にも興味があったけど、今は心理学に一番興味があるんだ。人間の心や行動について学ぶのってとっても面白いから」


「そ、そう……」


 葉子の背筋を冷たいものが流れていく。

 ごく普通の高校2年生の言葉なら、なんとも思わないだろうけど、実葉の口から「医療にも興味があった」「今は心理学に一番興味がある」なんて言葉を聞くとゾッとせずにはいられなかった。


「ねえ、お母さん」


「……お母さんって、呼んでくれるの?」


「他に何て呼べばいい? もう昔みたいにママって呼ぶような年じゃないし、一緒に暮らしてなくてもお母さんはお母さんでしょ」


「そ、そうよね……」


「お母さん、どうして、ここの文化祭に来ているの?」


「え、えっと……そっ、それは今の子供がこの蘭舞高校に通ってて……それで……」


「今の子供か……そうなると、私はお母さんにとって”前の子供”ってことなんだね」


「! そっ、そんなことない、実葉もお母さんの大事な子供なんだから」


 けれども、実葉は何も答えなかった。

 その”大事な子供”から逃げるために家を出ていったくせに、という無言の圧力が葉子へとのしかかってきた。


 しかし、葉子は思わずにはいられなかった。

 実葉は寂しかったのだ。私のことがずっと恋しかったのだと。

 そもそも、12年前の夏に、実葉が企てて実行したことは全て、母である自分を守ろうとした思いから来ていたのだ。無差別に他人に危害を加えたりしたわけではなかったのだから。



「実葉、皆はどうしてる?」


 話題を変えようとした葉子。

 極めて曖昧な”皆”という言葉で問うてしまった。


「お母さんが言う”皆”って、誰のことを指しているのかは分からないけど……引っ越していった岡島恵都(おかじまけいと)ちゃんは、中学校にも碌に行ってないみたいだよ。おうちは恵都ちゃんの家庭内暴力でボロボロの酷い状態だって噂も聞いた。お母さんどころかお父さんも手がつけられなくなっているって」


 葉子の心臓がドクンと鳴る。


「あと、實田美優華(じつだみゅうか)ちゃんは飛杭高校(ひくいこうこう)に通ってる。弟の颯穐(りゅうき)くんの体の傷は”やっぱり”まだ残っているみたい。美優華ちゃんと颯穐くんは、お母さんと一緒にボランティア活動に力を入れているそうだよ。あのお母さんだけど、”以前のこと”が信じられないくらい優しい人になっちゃったらしくて……もう”敵はかなり減ってる”と思うよ」


 葉子の心臓は、さらにドクンドクンと鳴り続ける。

 なぜ実葉は、よりにもよって、あの12年前の事件の関係者――いや、被害者たちの現状を、顔色一つ変えずに口から紡ぎ出してくるのか?


「それとね、”あの犬”を飼っていたおじさんは私が中学1年生の時に亡くなったの。死後数日たってから発見されたって。事件性はなくて病死だったそうだけど。あのおじさんって、まだ60才にもなってなかったみたい。可愛がっていた愛犬にあの世で再会できているといいね」


 葉子は叫びたかった。

 やっぱり、この子はサイコだ。あどけなき皮をかぶった怪物なのだ。


 葉子と実葉だけが真相を知っている12年前の事件。

 葉子が”保身”という名の棺に入れて、”時間”という土をかぶせつづけてきた事件。

 実葉は、被害者たちの近況という”カード”を葉子に明示し、葉子に当時のことを、より鮮明に”掘り起こさせんとしている”。

 そんなことをしなくても、忘れやしない。

 忘れられやしない。



 岡島恵都ちゃんが、誰にも手が付けられないぐらい荒れてしまったのは、幼き日の彼女が必死で身の潔白を訴えたにもかかわらず、誰にも……そう、自身の両親にさえ、信じてもらえなかったことに起因しているのは間違いなかった。

 落ち着きがなくて元気過ぎるも、真っ直ぐに育っていけたかもしれない彼女の人生を、歪めてしまったのだ。


 實田美優華ちゃんが通っている飛杭高校は、偏差値30後半の学校だ。美優華ちゃんは、やはりお勉強はあまりできない子ではあったらしい。

 そして、颯穐くんの体の傷もまだ残っている。ずっと残り続ける。

 さらに、葉子が驚いたのは、彼女たち姉弟のお母さん――かつでママ友いじめに精を出していた、あのボスママは今はボランティア活動に力を入れているということだ。


 人間が、それも”あの嫌な女”がそう簡単に変わるものだろうか、という疑問が生じる。

 しかし、あの事件の後、「天罰覿面!」「親の因果が子に報い」といった文面の怪文書が實田家には何通も届けられたなんて真偽のほどは定かでない噂も、当時の葉子は耳にしたことがあった。それは、彼女によるママ友いじめの被害者は、葉子だけでなかったことを意味している。

 

 贖罪の心からか、それとも自分の慈善行動を周りにアピールすることで敵を減らして子供を守ろうとしているのかは分からないが、この12年間で彼女も”表向きは”変わったのだろう。


 そして、愛犬を保健所で処分されることとなった中年男は、その人生の最期の時まで、引っ越すこともなく同じ家に住み続けていたらしい。

 あの世や天国や神様なんて信じてもいないくせに、そもそも犬が殺処分される原因を作った張本人のくせに、「可愛がっていた愛犬にあの世で再会できているといいね」などと、いけしゃあしゃあと口にする実葉。


 

「…………ごめんね、お母さん。私、意地悪しちゃった。だって、”私のお母さん”が他の子のお母さんになっていると思うと……」


 実葉の声は震えていた。

 その声には、涙もが滲んでいるようだ。悲しみと嫉妬による涙か?


 正直、実葉の方が希来里よりも、スペックは遥かに上だろう。

 実葉は小さい時から何をやらせても一番だった。コウノトリは、”能力的には”出来過ぎた子を、自分と実の元に運んでくれていたのだから。

 将来も有望で、というか、現に今も県下一の進学校の制服を着て、自分の隣に立っている。

 さらに言うなら、実葉もとびきりの美少女というわけではないが、容姿においてもスタイル込みで希来里よりも実葉の方が数段優れている。

 あのまま自分が平良葉子であり続けることを選択していたなら、「綺麗で優秀な娘の母親」という金では買えないブランドラベルを手にしていただろうとも……


 しかし、そんなブランドラベルなんかよりも、自分の子供に脅かされることのない、平穏であり平凡な家庭を望んでいた。

 そして、今の葉子はまさに”それ”を手に入れているのだ。




 葉子と実葉は互いに言葉を交わすことなく、肩を並べたまま、下へを向かった。

 校舎を出たところで、実葉の友人たちが実葉を待っていた。

 彼女たちは葉子にペコッと頭を下げ、葉子もまた彼女たちに頭を下げ返した。

 

「じゃあね、お母さん……」


「え、ええ……」


 どこかぎこちない空気は、別れの時にも漂い続けていた。

 葉子は自分の現在の連絡先を実葉に教えはしなかったし、実葉も聞いてくることはなかった。

 実葉は聡い子だ。言わなくても、私の心の内が分かっているのだろう、と葉子は考えていた。



 実葉と別れを交わした葉子であったも、前を歩く実葉と彼女の友人たちの足は自分と同じ方向に――体育館へと向かっていることに気づく。

 きっと、実葉たちも蘭舞高校のダンス部の発表を、この文化祭の一番の目玉だと考えていたのだろう。

 

 全国大会3位という実力。

 話題となりメディアに取り上げられたら、大阪の高校のダンス部みたいにTV出演を果たしたり、はたまた芸能人だって誕生するかもしれない。

 父兄や他校の生徒たちはもちろん、ややチャラついた……というかオラついた風貌で、娘を持つ母である葉子が少し危険を感じてしまう若い男たちの姿も、体育館付近では多く見られた。


 体育館の中に入ると、そこはすでに熱気に満たされ、幾つものスマホの光が薄闇で交差しあっていた。


 葉子はアンチ・スマホ派ではないし、葉子自身も自分のスマホは主に家族との連絡手段として常に持ち歩いている。

 当然、鞄からスマホを取り出して、愛娘・希来里のダンスを撮影することだってできる。

 しかし、葉子はスマホの画面越しではなくて、生(なま)の希来里の姿をこの目に焼き付けたかった。


 葉子から少し離れたところに――葉子の斜め前に実葉たち4人の姿が見えた。

 実葉だけでなく、友人たちもスマホを持っているだろうに、今時の高校生にしては珍しく、スマホを取り出して構えてはいなかった。実葉含めて落ち着いているというか、あまりキャピキャピすることのない娘たちなのだろう。


 希来里なら友人たちとスマホを構えて、キャーキャーはしゃぐはずだ。そして、その後に登録している各種SNSに写真や動画をあげて、「ママ、これ見て見て」とうれしそうに見せてくるに違いない。

 けれども、それはそれで微笑ましいことだ。



――希来里……そういや、あの子、今朝も家にあったビスケットとかグミとかも鞄に忍ばせていったわよね。「子供の時から好きなおやつを本番前にこっそりつまむと、緊張がちょこっとほどけるんだ。あまり食べ過ぎると、体が重くなっちゃうけどwww」って言ってたけど。このダンスの発表が終わったら、スーパーに寄って希来里の好きなおやつを切らさないように買っておこうかしら。それに、前から予定していた通り、今日の夕飯は頑張った希来里へのご褒美として、あの子の大好物ばかりに……



 今夜の献立を頭の中で葉子が復唱し始めた時、ついにダンスが始まった。


 揃いの衣装を――黒の半袖シャツとショートパンツを身に付けた高校生ダンサーたち。

 衣装そのものは事前に希来里に見せてもらっていたが、こうして実際に舞台で着衣姿を目にすると露出度が相当に高いことにヒヤヒヤしてしまった葉子。


 そのうえ、ユーロビートに合わせたダンスは激しかった。

 舞台上の彼女たちの躍動感によって、体育館そのものも揺れ始めたのではないかと錯覚してしまった。

 彼女たちには、寸分の狂いもなく乱れもない。

 今現在の43才の葉子はもちろん、17才の頃の葉子でも絶対にこの動きにはついてはいけないだろう。

 ある一定のレベル以上の運動神経、リズム感、センスを揃えた高校生たちが集まって日々練習を積み重ねてきたという才能と努力の集大成だ。

 彼女たちは一体となり、素晴らしいパフォーマンスを自分たち観客に届けてくれている。



――?!


 ふと、本来は乱れぬままであった彼女たちの動きに、綻びが生じたことに葉子は気づいた。

 しかも、その綻びは他でもない希来里からだ。

 希来里の動きが鈍くなっている、他の者たちにワンテンポ、いやツーテンポも遅れて始めている。


 葉子のいる所から希来里の顔色はよく見えないが、希来里はつかめっつらというか、何かしぶるような顔をしている。

 希来里の近くで踊っている部員たちも、訝しがる視線を向け始めていた。


――……希来里!? どうしたの!?


 葉子の喉が急速に乾き出し、心臓がギュッと掴まれたような気になった。

 ついに、舞台上の希来里は、体を――上半身をグッと前に曲げた。


 ”希来里の体内より発せられし音”は、激しい音楽にかき消されたようであった。

 奇しくもその時はクライマックス――最高潮の盛り上がりとなる場面であった。


 体を折り曲げた希来里の、むっちりとした”両太腿の内側を茶色の液体らしきものが伝っていく”のが、葉子にも見えた。



――希来里!!!!!


 

 数秒の間、茫然自失の状態であった希来里だったが、自身がこんな大勢の前でしでかしてしまったことが何であるのかを理解したらしく、ワアアアアッと泣き出した。


 その場にへたり込んでしまった希来里に、部員たちがオロオロと言った感じで駆け寄る。

 ミュージックは今だに流れ続けていた。だが、もう誰もがそれどころではない。舞台の袖にいた顧問の教師も、慌てて駆けつけてきた。


 葉子も「ごめんなさい! 通してください!」と強引に人をかきわけ、希来里の元へ駆け付けようとした。

 なかなか前へとは進めない。

 今すぐにでも希来里をこの腕に中へとかばいたいのに。あの子を守りたいのに。


 お腹の調子が悪いことなんて、誰にだってある。

 だが、信じられないことに、スマホのフラッシュが”舞台に向かって”幾度も光った。

 そして「うわぁ、悲惨」「くっせー」という無慈悲な野次と笑い声も。



 斜め前にいた実葉と実葉の友人たちも、葉子の視界に映った。

 実葉も含め、彼女たちは誰一人として、スマホを舞台に向けておらず、野次なども飛ばしていなかった。

 あの茶色がかった黒髪の娘の「……外に出よっか」という気の毒さがありありと滲んでいる声に、実葉と他2人の友人も黙って頷いていた。見なかったふりをしてくれるらしい。



 けれども、葉子は見たのだ。

 この混沌とした薄闇の中、後方にいた”誰かに”実葉が目配せしたのを。

 その時の実葉が、口元に一瞬だけ笑みを浮かべたのを――

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