Episode1 とある吟遊詩人が愛した娘(上)

 薄暗い森の木々の間から見える空は、灰色であった。

 本来そこにあるべきはずの太陽が姿を消したその灰色の空から降り注ぐ冷たい雨は、大地を容赦なく嬲り続けていた。


 もちろん、21才の若き吟遊詩人・サムソンの急な発熱によって火照りふらつく身体をも、無慈悲な冷たい雨は例外なくこれでもかと苛み続けていた。

 大切な相棒である楽器――リュートは濡らすことのないよう、布で幾重にもくるみ胸の前で抱いていたが、リュートも寒さで震えているかのようであった。


――陽が落ちる前に、どこかで体を休めないと……もう……


 定まった居住地を持たない者には、慣れ親しんだ自分の寝床などはもちろんない。その暮らしを選んだのは、自分自身であるも、著しい体調不良の状況であっても自力で今晩の寝床を確保しなければならない。


 苦しみと”焦りで”、ゴホゴホと咳き込んだサムソンの前で、白く熱い息が舞う。

 今、彼がふらつく両足を奮い立たせて歩いているこの森の中の道は、一応は人の手によって整備されていることが見て取れた。

 つまりは、町境にあると思われるこの森の中の道を辿っていけば、いずれは町へと辿り着くことができるのであろうと。


――町まで……あと、どれくらいだ?


 サムソンは平たい胸に掲げている十字架をギュッと握りしめた。

 彼が右腕で抱きかかえているリュートが苦楽をともにしてきた相棒なら、左手で握りしめている十字架はお守りであり、彼が”たった1人の家族を失ってから”今日と言うこの日まで生きてくることができた”支え”の象徴であったのだ。


 雨の音に入り混じり、猫の鳴き声が聞こえた。

 人に飼われている猫であっても、野良猫であっても、今、彼が聞いたかすかな鳴き声が空耳でなければ、すぐ近く人の住む家が――猫が食料確保するための家があるかもしれない、ということだ。


 サムソンの推理は、見事に当たっていた。

 雨で濡れ、熱で歪んだ彼の視界に、人が住んでいるのは間違いないと思われる、小さな家とその隣に立てられた納屋が映ったのだから。

 



 助けを懇願するサムソンの必死のノックに、その小さな家の中にいた者は応えてくれた。

 扉から、恐る恐る怯えながらも顔を出したのは、まだ20才にもなっていないだろう、16か17才ぐらいの小柄で華奢な娘であった。

 三つ編みにしたおさげを両肩に垂らした娘の、純朴であるがどこか敬虔にも思える穢れなき美しさに、熱と雨に散々に苛め抜かれていたサムソンの身も心も、鞭で甘く打擲されたかのごとく揺さぶられてしまい、すぐには言葉を紡ぎ出すことはできなかったのだ。



「…………一晩でいいので、なんとかここで休ませてもらえないでしょうか?」

「え……? あ、あの……」

 娘は、まだ接吻すらも知らぬであろう無垢な唇を、怯えによって震わせた。

「なんとかお願いいたします。もちろん、宿代としてお金もお支払いたします。町まで辿り着く前に、高熱を出して倒れてしまいそうで……」


 娘は困ったようにうつむいていたが、その赤く染まった顔をあげ、サムソンの顔をじっと見上げた。そして、彼の胸の前で光る十字架にもそっと視線を移した。

 

「分かりました。一晩だけなら構いません……ですが、もうすぐ父や兄たちもこの家に戻ってきますので……」 


 熱で朦朧とした頭であっても、サムソンは娘の”バレバレの嘘”をすぐに見破っていたが、騙されたふりをして頷いた。

 父や兄たちが戻ってくることはない。彼女はこの小さな家に、不用心にも1人で暮らしているのだろう、と。


 素性も得体も知れない見知らぬ男を家に泊めることは、うら若き娘だけでなく全ての女にとっては相当な決断を有することである。金品だけでなく、体までをも奪われる結果となるのは目に見えている。最悪の場合は、命までをも奪われてしまうだろう。

 だが、一晩の宿をと乞うてきた男は、今にも倒れそうなほどの状態であるのは明らかなうえ、外では肌を刺す冷たい雨が降りしきり、もうすぐ夜の闇がこの森を覆い尽くしてしまうであろう、と。

 優しいこの娘は、扉を締めて無慈悲にサムソンを追い返すことはせず、サムソンに身を休めるためのあたたかな寝床を提供してくれたのだ……



※※※



 一晩でサムソンは出ていくつもりであった。

 しかし、サムソンの熱はなかなか下がらなかった。

 流行病にかかったのであれば、サムソンの舌や肌に明らかな発疹が見られたであろうが、そういった兆候はまるでなく、今までの旅で溜まっていたサムソンの疲れを数日間にもわたって解毒しているかのように。


 太陽が灰色の雲の中へと姿を投じているであろう外からの激しい雨の音は、熱でうなされるサムソンの鼓膜をも打擲し続けていた。どこかで猫も鳴いていた。

 時折、部屋の扉の外から、”天使のごときあの娘”がおずおずと顔を見せ、恐る恐る足を踏み入れてきた。

 彼女はサムソンの口に水をそっと含ませてくれたり、解熱のために水で濡らした清潔な布を当ててくれた。さすがに、汗で濡れて肌に張り付いたサムソンの服や肌着を着替えさせはしなかったも、サムソンにとって彼女の優しきその姿は、遠い昔、熱を出した自分を夜も眠らずに看病してくれた”亡き母”を思い起こさせるものであった。



※※※



 回復したサムソンが、ずっと自分を看病してくれた娘に対して、”優しくて親切な娘”以上の情を抱くのに、それほどの時間はかからなかった。

 それは娘の方も同じであったらしい。


 サムソンは娘と言葉を交わしていくうちに、いろいろなことを知った。

 娘の名は、アンジェリカであるということ。”天使”を意味する、この名前は彼女にはピッタリだ。

 そして、”やはり”彼女はこの家で1人で暮らしているということ。なぜ、こうも若く美しい娘が1人で暮らしているのかということは、彼女は語りたがらなかったが、ここより少しばかり離れたところの町の者との折り合いがあまり良くないとのことであった。


 熱が冷めたばかりのサムソンは、アンジェリカを前に違う熱でうなされることとなった。

 数多くの町や村を渡り歩いてきたサムソンは、単に容姿が優れている女など世に多数いることは知っている。さすがに宮廷に足を踏み入れるほどの身分やコネは彼にはなかったが、王族や貴族の中には平民では及びもつかないほどに美しく洗練された女だっているだろう。

 アンジェリカは、確かにとても可愛らしい顔立ちをしているも造作的に見ると、絶世の美貌というわけではない。だが、彼女の――純朴であるがどこか敬虔にも思える穢れなき美しさ、そしてどこか儚げで浮世離れした雰囲気は、サムソンが初めて感じるものであった。



 そして――

 半月以上たつ頃には、サムソンはアンジェリカと日中は木のテーブルで向かい合って食事を取るようになっていた。

 もちろん、ただ飯ぐらいの居候というわけではなく、アンジェリカに今までの吟遊詩人としての稼ぎを幾ばくかは渡し、町での買い物はアンジェリカが行っていたが、薪割りなどの力仕事はもちろんサムソンが買って出ていた。

 サムソンがリュートを手に弾き語りを始めると、アンジェリカはその無垢な瞳を輝かせ聞き入ってくれたし、時にはその瞳に涙を滲ませてもいた。

 互いに魅かれ合い、ともに暮らし始めたばかりの男と女。

 そう、彼らの間にはまだ肉体関係が一切ないことをのぞいては……


 愛している女を抱きたい。

 サムソンの愛の対象である女も、自分を決して嫌ってはおらず、単なる好意以上の思いを自分に抱いてくれているのは漂っている雰囲気でありありと分かる。

 だが、サムソンはアンジェリカの両肩を掴み、無理矢理に押し倒し、自分の欲望を最優先に彼女にぶつけることはできなかった。そんなことをすれば、彼女の自分の腕の中で傷つき、壊れてしまうのではないかと思い……



 そんなある日のことであった。

 長い間、なあなあに働いていたらしい太陽も、やっと本領発揮とばかりにこの鬱蒼とした森の中にも眩しき光を降り注いでいた。

 家の外に出たサムソンは、アンジェリカの姿を探す。

 もしかして、自分に負担をかけまいと力仕事を彼女は自らの細い両腕で行っているのではないか、といじらしい彼女の姿を想像してしまっていたサムソンであったが、すぐに彼女の姿を見つけることができた。


 彼女のスカートの裾が納屋の中から、チラッと見えたのだ。

 そして――

「あっちへ、お行き。しっしっ」という彼女の声も聞こえたのだ。

 おそらくネズミでも追い払っているのであろう。


 サムソンは納屋の中に足を踏み入れたことは一度もなかった。

 普段は鍵がかけられていたし、サムソンが「掃除でもしておこうか?」と聞いても、「いえ、いいんです。そんなに大したものがあるわけではないですから。あそこはいらないものを入れている単なる物置ですので」と彼女に首を横に振られただけであった。


 納屋から出てきた彼女は、苛立ちがありありと分かる手つきで納屋の鍵をガチャリと閉めた。

「アンジェリカ……」

「!!!」

 突如、背中へとかけられたサムソンの声に、当たり前であるアンジェリカは飛びあがらんばかりに驚いていた。

「び、びっくりしました……いつから、そこにいたんですか?」

「ついさっきだ。どうしたんだ、ネズミでも出たのか?」

「そうなんです。でも大丈夫です。追い払いましたから……ネズミだって必死で生きているから殺すのは可哀想ですし……」

 そう言って、彼女は微笑んだ。


 小さな生き物の――それも人間の生活に害を与える生き物の命まで大切に思うアンジェリカという娘。

 世界広しと言えども、これほど優しく清らかな娘に巡り合うことができた縁というのは、神が自分に与えてくれた贈り物なのかもしれない。


 サムソンが腕の中に愛しい彼女を引き寄せんとしたその時――

 町へと続いているであろう道の向こうより、馬車の音が聞こえてきたのだ。

 「?」と反射的に振り返ったサムソン。

 しかし、アンジェリカは、近づいてくる馬車の主に心当たりがあるらしく、一瞬にして青ざめ、その柔らかな頬を強張らせた。

 ただならぬ様子のアンジェリカ。


「ど、どうしたんだ?」

「……お願いです、サムソンさん。あなたは、どこかに身を隠していてください」

「え? でも、もし悪い輩が近づいて来るなら、早く2人で逃げ……」

「違うんです! そんな人たちじゃないんです! ……ただ、あなたは早く隠れていてください。決して、あの人たちの前に姿を見せないで。”何があっても”……そして、”あの人たちが私をどんなに罵倒しても、それを信じないで”。私を信じてください」

 

 懇願するアンジェリカの瞳は、すでに潤んでいた。

 それに、彼女は震えていた。

 ここへ近づいてくる馬車に乗っている者たちとは一体――?



 「早く!」と叫びにも似たアンジェリカの声に、サムソンは身を家の影へと身を隠した。

 だが、来訪者がアンジェリカに危害を加えようとするならすぐに飛び出し、彼女をこの身にかばうつもりだ。



 馬のいななく声とともに、家の前で馬車は止まった。

 馬車から下りてきたのは、1人の女であった。

 でっぷりと太っている中年女は、乾いた大地にドスンドスンと両の踵を下ろした。

 そして、彼女に続き、馬へと鞭を振るっていたギョロギョロとした目の小男も、ストンと大地に踵を下ろした。


 サムソンが身を潜めている場所からはやや距離があるため、来訪者の女や小男の顔立ちの細部までは分からなかったが、彼女たちの身につけている服や立ち振る舞いには、ごく普通の市井の中にいる庶民の匂いというものがありありと染みついていた。お忍びでやってきた身分ある者というわけでもないようだ。


 中年女は小男に指示し、馬車に積んでいた幾つも箱を地面に下ろさせ始めた。中年女は、小男の雇い主であるのは明白であった。

 小男が次々に箱を――どうやら食料が入っているらしい箱を地面に下ろしていく間、中年女は黙って腕組みをしたまま、アンジェリカを睨みつけていた。

 それは、部外者の位置に置かれているサムソンですら思わず縮こまってしまうほど憎しみのこもった恐ろしいものであった。

 もちろん、その激しくほとばしる憎しみを至近距離で一身に受けているアンジェリカは、うつむいたまま華奢な両肩を震わせていた。


 今すぐにでも飛び出して、彼女の盾になりたかったサムソンであるも、彼女の「決して、あの人たちの前に姿を見せないで」という言葉が胸の中でこだまする。

 しかし、もし彼女が憎しみの視線以上の危害を加えられそうになったなら、約束を破ってでも彼女を守るつもりであった。



 小男が全ての箱を下ろし終わったのを確認した中年女は、チッと大きな舌打ちをして、懐より薄汚れた袋を取り出した。

 袋から発せられたチャリチャリという音がサムソンの所まで聞こえた。あの中にあるのは、間違いなくお金だ。

 ムスッとしたまま、中年女は手の内のお金をアンジェリカに突き付け、顎をしゃくった。

 ”受け取れ”と無言で言っているのだ。


 どういうことなのだ?

 中年女はアンジェリカに好意を持っていないどころか、憎んでいるのは明白だ。

 それにもかかわらず、大切な――王族や貴族なら金など吐いて捨てるほど保有しているだろうが、庶民にとっては日々の生活の命綱である大切な金を、アンジェリカに渡そうとしている。


 俯いたままのアンジェリカは顔を上げ、おずおずと袋に手を伸ばそうとした。

 しかし、その時、アンジェリカが中年女に何かを言ったらしい。


 アンジェリカの言葉はサムソンのいる所まで、聞こえなかった。

 しかし、ただでさえ恐ろしい形相となっていた中年女の顔に更なる憤怒と憎しみがギッと刻まれたのだけは分かった。


「!!!」

 中年女が地面にまるで仇のごとく叩きつけた袋からは、銀貨や銅貨がこぼれ出て散らばった。大切な金をぞんざいに扱っただけはすまず、中年女はそのたっぷり肉のついた荒れた手をアンジェリカの左頬に向かって振り上げたのだ。


「!!!!!」

 サムソンがアンジェリカをかばわんと走り出たも間に合うわけもなく、バシッと鞭で打擲されたがごときと音ともにアンジェリカは地面へとドサッと倒された。

 中年女は、自分の娘であってもおかしくないほどの、まだ子供の域にある娘に――震え続けていた無抵抗の娘に惨たらしい暴力を振るったのだ。

 その暴力を、サムソン以上に近い距離で目の当たりにした小男も”うわ……”と顔をしかめたも、彼は雇用者には逆らえないらしい。



「――やめろ!!!」

 突如、飛び出てきたサムソンに、中年女も、小男も、そして打たれたばかりの頬を赤く腫らしたまま地面に転がったアンジェリカも、驚愕で目を丸くしていた。


「大丈夫か? アンジェリカ」

 アンジェリカは何も答えず――いや、答えることすらできないのであろう、アンジェリカはサムソンの胸にガバッと顔をうずめ、肩を震わせヒックヒックと子供のようにしゃくりあげ始めた。

 可哀想に。相当に痛くて怖かったのだろう。


「……あ、あんたら、いったい何なんだ! なんで、こんな酷いことを……!」

 今度はサムソンが、暴力の加害者である中年女と傍観者の小男に、憤怒と憎しみの視線を突き刺す番であった。

 しかし、中年女は、サムソンの視線に一切たじろくでもなく、また更なる攻撃性を増してサムソンまでも攻撃してくるわけでもなく、ただ呆れたような顔で溜息をついただけであった。


「おにいさん……あんた、町で見かけたことはないから旅の者(モン)だね。早いとこ、その娘(こ)から離れた方がいいよ。おおかた、その娘(こ)の見てくれに騙されたってオチだろうけど」


「?」

 何を言っている?、とサムソンが問うよりも早く、中年女は踵を返し、馬車へと戻っていった。

 しかし、踵を返す前に、泣き続けるアンジェリカの背中に憎しみの弓矢のごとき視線をなおも発していた。


「待て! 待てよ!!」

 喚くサムソンの声など聞くわけもなく、暴力女を乗せた馬車は去っていった。

 体を震わせ泣き続けるアンジェリカの柔らかく温かい体だけが、彼の両腕の中に残されていた。

「サムソンさん……今夜、全て話します。だから、お願いです。もうしばらく、このままでいさせてください……」

 


※※※


 夜。

 アンジェリカのベッドに、サムソンとアンジェリカはともに寝間着のまま腰を下ろしていた。 

 いつも綺麗に結っていた三つ編みをほどいたアンジェリカの横顔は、初々しくもどこか大人の女性の雰囲気をも醸し出しているようであり、サムソンの身も心をもさらに疼かせた。


 アンジェリカが嫌がるなら、無理強いはしない。

 けれども、アンジェリカだって男と女のすることを知らないほど、子供でもないだろう。これから、自分たちが体を重ねて愛し合うことを分かっているはずだ。



 だが、その前に――

 サムソンが問うよりも先に、アンジェリカが口を開いた。


「今日、馬車でやってきた女性ですが……あの人は私の一番上の姉なんです。姉は町で暮らしていますが、月に一度、お金や食料を持ってきてくれ、経済的に面倒を見てもらっているのです」

「!」

 この初々しく清らかなアンジェリカと、あのふてぶてしく意地悪そうな顔つきの太った中年女が姉妹であったと! 年も相当に離れていることは間違いないうえ、彼女たちに同じ血が流れているとは到底思えなかった。


「私は商家の四女として、この世に生を受けました。上には姉が三人と兄も三人。今は亡き両親も、遅くに出来た子供であった私を、とても可愛がってくれたのです。そのことが、異性である兄たちはまだしも同性である姉たちには気に入らなかったのでしょう。小さい頃から、姉たちには意地悪ばかりをされていました……」

 アンジェリカの瞳だけでなく、声にまで涙が滲みだしていた。子供自体の忌まわしい虐めの記憶など、思い出すのも辛いのだろう。


「影で意地悪をされるだけなら、まだ耐えられました。けれども……っ」

 苦し気に喘いだアンジェリカは、胸を押さえた。

「いいんだ。アンジェリカ。そこまで話してくれただけで、充分だ。もう、これ以上は……」

 彼女の華奢な肩を抱き寄せたサムソン。

 しかし、首をフルフルと横に振ったアンジェリカは続ける。


「あの一番上の姉の結婚が決まり、旦那様となる方を家へと連れてきた時でした。その時、私が”言ってはいけないこと”を口走ってしまったがために、姉の結婚は壊れ、姉は今も独り身のままなのです。姉の幸せを壊してしまった私は、時が経った今も姉に憎まれ続けているのです」

「?」

 昼間の中年女の外見年齢から推測する結婚適齢期の頃(今の年齢をかなり若く見積もった結婚適齢期)には、アンジェリカはよちよち歩きを始めたばかりの子供だったであろう。

 アンジェリカがどんなことを口走ったのかは知らないが、分別も分からぬ子供が言ったことで結婚が壊れてしまうものなのか?


「……いったい、何を言ったんだ?」

 聞いてはいけない、と思いつつも聞かずにはいられなかったサムソン。

 数秒の沈黙ののち、アンジェリカは口を開いた。

「私は何も考えずに、見えたままのことを口走ってしまったんです。だって、姉の元婚約者の背中には、首に紐を巻き付けたままの女の人がしがみついていたんです。それだけじゃなかった。女の人の脚の間からは、へその緒がついたままの双子の赤ちゃんまでズルズルと……」


 実際に見たわけでもないのに、サムソンの脳内でその身の毛もよだつ光景がサアッと目に浮かんでくるようであった。


「最初は私の言うことなど取り合わなかった家族ですが、姉の元婚約者が明らかに狼狽していたこともあり、人を使いにやって調べた結果……姉の元婚約者には郷里にて酷い捨て方をした女性がいたそうです。そして、身籠ってもいた女性は身も千切れんばかりの哀しみの中、縊死を選んだとも……」


 つまりは、姉の元婚約者に、怨念とともに絡みついていた女と生まれることすらなかった双子の赤ン坊の幽霊がアンジェリカには見えていたということか?

 視える者。

 この世には、そういった力を持って生まれる者が少数ではあるがいることをサムソンは頭の片隅では分かっていた。しかし、いざ実際に、そういった力を持つ者たちからの言葉を聞かされても「はい、そうですか」とすんなり受け入れられそうにはなかった。


 アンジェリカもそのことを察したのだろう。

 彼女は長い睫毛と熱い涙に縁どられた目を伏せた。


「信じてもらえないのは、分かっています。時代が時代なら、魔女として火炙りになってもおかしくないほどのことを言っているとも。でも、サムソンさん……私にはあなたのお母様の姿もずっと見えていたのです。あなたがずっと肌身離さず、身に付けている十字架に宿っているお母様の姿が……」


 驚愕で目を見開いたサムソンに、涙に濡れた瞳のまま微笑んだアンジェリカは続けた。

「お綺麗な方ですね、お母様は……お母様のお名前はエレノア。フワフワとした栗色の髪を胸のあたりまで伸ばしておられて……病に倒れ、喀血して亡くなられていますね。亡くなられた時の年齢は32才で、サムソンさんは当時10才……そして、お母様は娼婦をされていて……」


「!!!!!」

 アンジェリカは見事に言い当てていた。

 サムソンが一度も話したことなどない、亡き母・エレノアについてのことを。

 名前や容貌、死因、死亡年齢、そして母の職業のことも、何もかもを――!

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