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デスクフロアの西方、ホールの入口には「W-3」とある。このホールは五角形で、放射状に通路が伸びている。中央にはドーム状のガラス膜があり、それを取り囲みながら通路と対面するように長椅子が置かれている。
各通路の手前にある透過型スクリーンには数字が映っているが、何を示しているのかは分からない。
響くのは機械の作動音と神木の足音だけである。白と黒と、秘色と青で構成されるこの場所は、シンプルなデザイン故に無機質で少し不気味だった。
次の指示を待って長椅子へと腰掛けた神木は、緩やかに天井を見上げた。夜空がそのまま投影されたような光景と態とらしく大きな三日月を瞳に映した。
「なんだか、落ち着かないな」
『不安なの?』
声に反応して寄って来たさち丸が陽気に揺れた。
「そりゃあ、だって昨日の今日だし。今は月勤ってやつだから、今日も行くんでしょう」
『今週一杯の辛抱さ、頑張れ』
男児とも女児とも付かない音声は棒読みで言う。自分で設定した音とはいえ、こうなると少し腹立たしい。「酷い。他人事かよ」とぼやくと、神木は真新しい制服に皺が寄るのも気にせず、背凭れに沈み込んだ。
『大丈夫、秀才番号は指揮官としての役目を果たせば良いだけなんだから。危険なことは、機動隊である殺人番号に、全部任せておけば良いの』
「簡単に言うなよ。まず、その殺人番号だって普通に人間だったじゃないか」
『人間? 違うね。アレは不可番号に手を加えた、ただの生物兵器さ』
神木は不貞腐れたように両膝へ肘をついた。宙で結像された光があちこちで瞬き、”22”と”58”の数字を示すのを無意識に目で追いながら、ぷつぷつと呟く。
「秀才番号は””箱庭構造”に依存しない、ザインシステムの最たる弱点”。ザインで書かれたシステムの全てを解除する特殊なコードだって。……でも僕なんか、そんな大層なものじゃない」
『ザインによる行動制御が無くとも、自己決定で道を踏み外すことのない完璧な幸福論を持つ者の証である』
「……本当に君って、この話にはそれしか返さないよな。削除した定型文なのに、どこで覚え直して来るんだ」
そう首を傾げたが、神木も神木で、このやり取りが今回で何度目になるのか覚えていない。そして相変わらず、さち丸は何も答えなかった。
”22”と”00”の文字が躍る空間に、気の抜けたような神木の声が反響した。柊からはまだ連絡が無く、端末を起こしたり落としたりを繰り返す。其の内に飽きて、惚けた顔を頭上へ向けた。
異常に大きな三日月は、迫り来る分厚い雲と対峙する間際だ。星の幾つかはとっくに飲み込まれていて、側に残った一際大きい星が雲を迎え撃たんと瞬いていた。
暫く眺めていると、少しずつ空の形が曖昧になってゆく。脳がゲシュタルト崩壊を起こしたのだろう。瞳が乾いて、数度瞬きをした。
雲の髪が目を隠し、耳まで裂けていそうな月の口が、まるで空を笑わせているようである。
実は、あの異様な夜空には意志があって、あれはニタリと笑いながら、此方を見返しているのではないか。つまらない事を考えてみたが、仕様も無いので直ぐに止めた。
腕を伸ばし、月の先端に人差し指を重ねてみる。月の側面を捉え、弧を描く口をなぞる様に、そのまま下へ滑らせていった。
「……ん?」
ふと神木の手が止まる。
何かが、上から落ちてくるようだ。逆光で正体はわからない。それは凝視している内に指をすり抜け、腕に擦れながら、緩やかに神木の左目へと舞い降りた。
それは一輪の花だった。濃紅紫色の太い壷形の萼筒を持ち、八重咲きで少し歪んだ楕円形をした桜の花。小花柄を指先でつまみくるくると回すと、濃紅紫色の残像が小さな花を一回り大きく見せた。
「ヘンなの、桜が落ちてきた。……そういえば、今年はマトモに見てないな」
花はそれだけでも輪郭まで鮮明に夜空へ映えた。どうやら本物ではなく、電子植物らしい。花弁の脇から落ちてきた先を見てみたが、ただの空があるだけだ。
その時頬に温い風を感じ、我に返った神木は体を起こして立ち上がった。思えば、先程から妙に静かである。何かと辺りを見回すと、どうやらさち丸が居なくなっていたらしい。
「さち丸? どーこ行った、おまえ」
身を屈めて膝を叩いても、名を呼んでも返事は無かった。代わりに、また頬を温い風が掠めた。そうして空間を一周したが、あの風鈴擬の姿を見付けることは出来ず、元の位置へ戻ってしまった。
「待て、何故居ない」
ぶっきらぼうな声が響き、神木は不機嫌そうに片足で地を叩いた。
その際、くしゃりと乾いた音が鳴った。見下ろすと、足元で小さな桜が潰れて絶えていた。
ところで、さっきからこれは何なのだ。消えたドッペルアバターの安否も兎も角、連絡のない上司と、無機質な空間に、異様な気配も感じる。
いよいようんざりしはじめた所、背後で何かの落ちる音がした。神木が振り返ると、小さな桜が転がっていた。
電子特有のノイズを纏って転がる桜。何度目かの温い風が頬を撫で、ぞわりと背が疼く。頭上から降って刺さるような視線を感じ、神木は空を見上げた。
時が止まるような感覚を覚える。いつの間にか、桜が空を埋め尽くしていた。真っ白な三日月だけを残して、空は一面桜色だった。真っ白な三日月からは止め処無く桜が溢れ、雪の如く降り注ぐ。
突飛な出来事に、神木は反応を示す間もなく大きな瞳にそれを映した。
どこからか、子供のような笑い声が響く。呼応するように花弁が踊り、思わず足が一歩下がる。その時、確実に桜では無い何かを踏みつけた拍子で、神木の意識が空から反れた。
「……だ、」
漸く声を絞りだす。然し、それが空へ届くことは無かった。
『うっぎゃあ、避けて!!』
酷く汚い叫び声が、耳を劈く。思わず振り返った刹那、何かが鼻先を掠めて、神木は咄嗟に身を引いた。
豪速で空間を跨いだ物体は瞬く間に空間から消失し、通路の入口付近へ激しく衝突する。鈍い轟音が響いて、衝撃で巻き上がった風が花弁を掻き回す。
現実を早送りで見たような気がした。花弁と断片が入り混じって、足元には奇妙なまだら模様が出来上がっている。神木は何かが飛んで行った方向を確認すべく振り返ったが、大きな桜の房が額へ落ちて、視界を遮られた。
ふと冷静になってみると、これはなんだか、狐に摘まれたみたいだと思った。再び開けた視界は本来有るべき空間を映し、まるで小馬鹿にされたような気持ちだ。
視線の先の人影は二人分あった。それはどちらも、間違いなく柊のものではない。
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