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「だから、ぴよネッタを投げてはいけないと言ったんです。この一時間で七度は言いましたよ」
「新米指揮官の前でやめてよお。””不定形・CASE:8”、ノイズによる無意識下での限定解除について、強制置換された信号の連続した入力の後に現実へ実装された場合、
「でしょ? じゃありません。ああ、神木さん、お怪我がなくて何よりです。すみませんでした」
「いえ」神木は顔を上げる。穴を中心に、壁一面に光の点と線でできた奇妙な幾何学模様が浮かび上がっていた。
さち丸が
雲の切れ間で半透明の巨大な歯車が気儘に回る。結像により空に現れたザインの周りに、壁と似た模様があった。変幻自在な星座めいた光線には、〈境面回路〉のシンボルである歯車から突き出たプローブの先端を目指すものや、刹那で彼方へ消えていくものや、光の蚯蚓脹れを残すだけのものもある。
この景色そのものは決して珍しいものではないが、神木は、システムの展開と同時に発生した現象が神木の〈代理自己〉を経由して空間のログを頻りに要求する事実に戸惑っていた。
神木は空間を撫でて数個の小型画面を展開し、その処理を可視化した。〈代理自己〉が〈境面回路〉を介して書き出した計算式は、各場所に点在する制御盤へ固定された基準値を元に発生したエネルギーの誤差を算出し、相殺を図っている。
然し、それを認識する神木本人は、更新された自身の”常識”に慣れていないことを理由に、無理に理解しようとはしなかった。
『酷いよ』端末からさち丸の声がした。
『誰かに落とされるし、起きたら何かが飛んでくるし。これは抗議して然るべきだね』
「あ、ちょっと黙ってよさち丸。
すみません、どちらについても、抗議するつもりはありません」
神木はすぐに端末を両手で包むようにしたが、玄澤は気にする必要はないといったふうに両手を挙げた。
「いいや、そいつの反応が正しいでしょ。俺たちは何の言い訳もできない」
しかし、と玄澤は頭を捻る。その隣で、さち丸が古橋美津保と名を当てた少女が神木の端末をまじまじと見つめた。
「ねぇ、さち丸。あなたを落としたのは私達じゃないの。ログを見てみようか」
『いーや、結構』
さち丸は3人の前に円形の画面を展開した。〈領域〉内で受信していた得体の知れないメッセージを端末へ送り込んで、解析を進めていたらしい。しかしほとんどが解読不能のままであり、辛うじて表示できたのは、さっきまでそこら中を埋め尽くしていた桜と同じアイコンと、ノイズで揺らめくメッセージ。
”ようこそ、神木指揮官殿!”
「これ、身に覚えある?」
玄澤が親指でメッセージを指し、神木は迷いながら頷く。先ほど見た現象を話すと、玄澤は引攣らせていた顔を思い切り弛ませた。
彼は帽子から派手な色のバッチを一つ取り外し、宙へ放り投げた。バッチは外観テクスチャが剥がれ、アウトラインのみとなった平面の図形ーー実装用のシンボルであるーーとなり、紺色の海豹を思わせるドッペルアバター、Navyがマッピングされる。Navyは宙を泳ぐように漂ってから壁へまっすぐ突っ込み、そこに多角形のシンボルを残して消えた。空間の〈領域〉がエラーレポートを作成するより先に、ログを削除するつもりらしい。
ここでは、こういうことが普通なのだろうか? 淡々と作業を進める玄澤も、隣の古橋も、その表情に動揺の色は全く見られない。
それでは、これは新しい“常識”とすべきなのだろうか。
「悪いね神木さん」玄澤がいった。「うちの後輩の悪戯ですねえ、それ。でも、それで納得だ。あんたが一人でぽつんとこんな所にいるのは変なんだもんなー。で、柊さんは何処で何してるわけ?」
「さあ。別れてから、連絡がないので分かりません。とりあえず、ここで待機するようにと言われていたのですが」
端末にも相変わらず連絡はない。玄澤は呆れたように笑った。
「そうかよ。ここの空間は乗っ取られてたから、多分メッセージは全部破棄されてるよー。ホント、数々のご無礼まことに申し訳ございません。
いま、
「……えっと、気にしないでください。僕もちょっと驚いたくらいで、何ともありませんでしたし」
「ちょっと驚いたくらいなの。マジかお前」
彼らはもう一度壁を見る。損傷箇所は引っ掻き傷のようなものが小さく残っている程度にまで修復されていた。壁や〈境面回路〉に現れていた星座擬きも薄れていて、Navyのシンボル以外に目立って視界に入るものはない。
ハザードシンボルが消えた頃、玄澤はNavyを呼び戻して、すぐに間抜けな声を出した。
「ぴよネッタの処理してないやあ。みぃちゃん、代理データの作成、直近一時間のレコードの削除その他もろもろ、頼んでもいい? それとお、指揮官を誘導することもなく馬鹿な遊びに巻き込んだどうしようもない餓鬼の隣で再起動させてやってえ」
「わぁ。それ、玄澤さんのプライベートシンボルを付けてもらえますか?」
「寧ろそうする。後で諸共、柊さんから説教受けまっさあ」
古橋は直ぐに処置をはじめた。白衣の袖から、カンブリア紀の葉足動物を思わせる白いアバター、シュティレを呼び出し、空間に展開したシンボル内へアバターを送り込み、Navyの隠蔽作業を引き継いだ。
施設の破壊の件は、とりあえずこれで大丈夫だろう。そんなふうに呟いて、玄澤は神木に手招きをした。
「もう出発時間ギリギリだし、神木さんは俺と整備室に行きましょうか。多分、うちのエースがそこにいるから」
時間は、あれから十分は過ぎている。ぶりぶりと怒るさち丸をスリープモードへ移し、神木は先を行く玄澤のあとを追った。
彼らが去って少し経った頃、古橋は、床で光っている物を見つけていた。
それは、小さな桜色のアクリルキューブだ。中には桜が一輪だけ閉じ込められている。角度を変えるとその軸が固定されていることがわかり、この桜が実在するものであると証明する。
ここは、さっき神木がいた辺りか。今どき、こういったアーティファクトは珍しい。
「なにか大切なものかしら。だったら、なくしちゃ大変だよね。後でデスクに置いておいてあげましょう」
巨大化したシュティレのシンボルを通して、作業状況を確認する。ここであった不祥事を揉み消すには、まだ数十分は掛かりそうだ。
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