第203話 契約書はよく読んでからサインしような!

希美の傍で、吉田次兵衛が血塗れで横たわり、昇天している。


希美は口回りを中心に、顔中、次兵衛の血で真っ赤に染まり、あたかも希美が次兵衛を喰らったかのようだ。




だが、事実は違う。




うっかり希美に鼻と口を塞がれて、窒息死しかけている次兵衛に気付いた希美が、慌てて人工呼吸を行ったのが先ほどのこと。


次兵衛の鼻からダクダクと流れ出る鼻血をものともせず、次兵衛の口に息を吹き込んだのだから、当然希美の口回りは血だらけになる。


しかし、救命行為の途中に次兵衛の意識が戻ったのがいけなかった。


次兵衛は、主の唇が己れの唇とドッキングしているのを理解した瞬間、ボッ鼻から噴火した。


その勢いは凄まじく、希美はその赤いものを正面から顔に浴びせかけられ、血辱に塗れた。


希美は暴れ出しそうになる右手を(さっきまで自分のせいで死にかけてたから!静まれ、俺の右手っ……!)と必死に押さえて、手拭いの両端を次兵衛の両鼻に捩じ込んだのである。


次兵衛は、最高の笑顔で昇天した。(死んではいない)






希美はケンさんから手拭いを借りて顔の血飛沫を拭きながら、男の娘と手を取り合う女装家に話しかけた。




「ええと、てる?熊退治に着いてきてくれるってことだけど、危ないぞ?それに不眠不休で各地を駆け回るつもりだから、年齢的に辛くないっすか?お前、私より年う」


「あ"あ"ん?!誰が婆アだって!?」


「ごめんなさい。爺イですよね」


「もっと違うわあ!!」




バッサアッッ!!


希美は、今度は、女性用カツラのアタックを顔面に受けた。




立ち上がって近寄り、(いや、性別的にも年齢的にもお前は爺だろ)とてるを見つつ、女性用アデラネイチャーをそっとてるの頭部にパイルダーオンさせながら問う。


「それにしても、何故付いてくるのだ。お前は今は女なのだから、守られて力仕事は男に任せてしまえばよいではないか」


てるは、首を横に振る。


「いいえ。私は元々一向宗の坊官。門徒達を説得したいの。私はここに来て、えろと門徒が共存できる事を知ったし、一揆なんて起こしてもうまくいかないばかりか、門徒の立場が悪くなって首を締める事になるわ。私は、親和派門徒として、彼らを説得したいの」


「それはいい考えじゃな。門徒の考えを理解できるのは、門徒だけ。連れていけばよいではないか」


輝虎が、てるの援護をする。


希美は、ため息を吐いて聞いた。


「本当に不眠不休の強行軍だぞ?いいのか?」


「私も、軍の総大将まで務めたおと……女よ!それくらい、戦で経験済みよ!腕にも自信があるわ」


「今、男って」


「空耳よ」




希美は一つ息を吐き、てるに言った。


「……わかった。連れていく。無茶はするなよ。逃げろって言ったら、絶対逃げろよ」


「わかったわ」


希美は頷いた。後は待たせていた神保家の使者に手紙の返事をするだけだ。




「そういえば、神保氏の治める越中にも当然門徒達がいるよな」


「そうじゃの。ゴンさんが加賀や越前を織田領にしてしもうたがために、えろの勢力が大きくなって、えろを毛嫌いする坊主や門徒は越中に移動したと聞いたが」


「あー、それは悪い事をしたな……。別にえろにならなくても、他の宗派と仲良くしてくれれば、普通に暮らしてくれてよかったのだが」


「まあ、えろ大明神は悪魔だと思っておるから、悪魔の治める地や悪魔の息がかかった地には住みなくなかったんじゃろ?」




「ふがが、すうーっはあー、ふごっががが、すうーっはあー、ふががごご」




いつの間にか復活した次兵衛が、なんか発言している。


「手拭い当てながら喋るから、何言ってんのか全然わからん!てか、なんか嗅いでない?手拭いの匂いを嗅いでない!?」


次兵衛が口から手拭いを離して答える。


「この手拭いに殿の匂いが染み付いております故」


「おっさんがおっさんの体臭嗅いで、何が嬉しいの!?もう、その手拭い返さないで!」


「有り難き幸せぇっ!……それより、越中や能登の坊主や門徒達が加賀に攻め入る可能性があるのでは?加賀内の門徒共は、殿の支配を受け入れておりますから、ほとんどが親和派でそれほど大きな混乱は無いと思いまするが、それを見越して越中の一揆勢を加賀に差し向ける、という事も考えられまする」




希美はそれを聞き、腕組みしながら少し思案して返した。




「ならば、神保氏への条件を増やそう」








「すまん、待たせてしまったな。私が柴田権六だ」


「いえ。突然にも関わらず、お目通り頂き恐悦至極に御座る。其、神保家家老小島職鎮こじまもとしげと申しまする。主の神保宗右衛門尉より、何卒柴田様にはよしなに、と申しつかって参り申した」




希美は小島と名乗る神保家の老臣に、笑顔で応対する。


「いや、神保殿のお気持ち、ようわかり申した。私としては、神保氏を柴田家に迎えるのはやぶさかではないのだが、そちらを狙う武田殿は我が同盟相手。どうしたものかと思うておってなあ」


なんともいえぬ相手の反応に、小島職鎮は頭を下げる。


「それは重々承知しておりまする。我等とて、こちらの事情で御身を煩わせるのは本意では御座らぬ。しかし、能登畠山殿が頼られず、このままでは我等は早晩武田に喰われまする。そうなれば、武田の次の狙いは能登か加賀。神保家が倒れれば、御身にとっても不利益を生ずるはず」


「で、あるよな。私も、神保氏に倒れて欲しくはない。正直同盟相手ではあるが、武田を隣人にはしたくないという気持ちもある」


「なれば!」


「だが、神保殿は当初、上杉に対抗するため武田と懇意にし、武田と争えば次に能登畠山殿に助けを求め、能登畠山が頼られぬと見るや、今我らに助力を求めておる」




希美は、ふう、と息を吐いた。


「それ故に、柴田家が困った時、神保殿はどうされるのかと不安でな。私が武田との仲を犠牲にしてそなた等を傘の下に入れても、もしもの時はまた他家に乗り換えられるのではないかと、考えてしまうのよ」




小島職鎮は勢いで体を浮かせた。


「そ、そんな事はありませぬ!我等は柴田家に尽くす所存!」


希美はそんな職鎮の眼を見据えた。


「それは有り難い。実は私、信玄に尻を狙われていて、あまり奴を近付けたくないのだ。そこで、今後私の傘下に入る事で武田との和平が成立しようとも、信玄や武田の者が私の許可なく加賀に入らぬように、追い返す役を担っていただけるかな?」


「もちろんに御座る!」


「ああ、それと柴田家の家臣として、越中神保領内での反柴田派など、柴田家の敵となる者を加賀に入れぬように、守ってくれるか?」


「当然に御座る!!」


「ならば、私は神保氏を受け入れよう。武田には、『神保氏の領は柴田領だから、手出し無用』と書状を送ろう」


「有り難き幸せ!!」




(よし、武田信玄と一向一揆追い返しマシーン、ゲットだぜ!!)


希美はほくそ笑んだ。




「じゃあ、小島殿、この仮契約書に花押サインを。……おい、牛一、筆を貸せ!あ、こちらとこちらにお願いしまーす。はい、控えはこちら。持ち帰って神保さんに見せてね」


希美は、テキパキと太田牛一に持たせていた書類を差し出し、サインをさせた。


職鎮は、目を白黒させながら、言われるままに花押をしたためる。


(おいおい、よく読まずにサインしちゃダメでしょ)


希美がニヤニヤしながら、控えを渡す。




「あの、これは……、仮契約書、とは??」


職鎮が、仮契約書(控)を手に、希美に尋ねる。


希美は、説明する。


「これは、今、私達が取り決めた主従契約の仮契約書さ。主従契約の成立条件が載っている。まず【柴田家は、神保氏一族を家臣とし、その所領を守るために、名と兵を貸す】と書いてある」


「ふむふむ」




希美は、次の一文の上に微妙に指を置いて、説明を続けた。


「【但し、それに関わる判断と内容は柴田家によるものとする】(超早口小声)」




「ん?何か言いましたかな?」


「いや、気にするな。それよりお主達がよく確認すべきは、ここからの部分だ。ここに神保家の果たさねばならぬ条件が書かれてあるぞ?先ほど話し合った内容を、右筆が書面に起こしてある」




本当は、この条件を飲ませると決めていたので事前に用意していたのだが、その辺りは、まあ、知らぬが仏である。




「確かに、【神保氏の一族は、主従契約を締結し継続させる条件として、武田信玄や武田の者が許可なく加賀に入らぬように追い返すものとする】とありますな。……ん?【神保氏の一族は、主従契約を締結し継続させる条件として、柴田家の敵対する者が越中神保領内に現れた場合、加賀に入れぬようすみやかに殲滅し、これを柴田家に報告しなければならない】。ここまで詳しく決めましたかな??」


「ん?まあ、報告はいるだろ、普通。そこら辺は、うちの右筆が文豪だから、肉付けしてドラマチック仕立てにしてんだよ」


「ど、『怒魔羅畜(ドマーラチク)仕立て』?わし等にどんな条件が追加されてるの!?え、ええと、【この条件を満たさぬ場合、柴田家に神保氏一族を守る義務は発生しない】。あれ?なんじゃ、普通……」


小島職鎮は、何故か少し寂しそうな、期待外れな顔をしている。




「ちなみに、これは仮の契約書だ。三月みつき後に、この条件が継続して満たされれば、その時は神保殿の花押サインで本契約を交わそう。ほら、ここに【三月以内に本条件を満たさぬ場合、契約は破棄されるものとする】とあるだろ?」


「なるほど、それはわかり申したが、どうやって条件を満たし続けている事を知るので?」


「うちの忍びは、変態だけど優秀なんだ。おお、もうこんな時間じゃないか。じゃ、私今めっちゃ忙しいから、これで会見終わりな!後は、行動で示してくれ!今日は会えてよかった。神保殿によろしく伝えてくれ。じゃあ、またな!」


「え!あ、はい。ありがとうございました……」




バタバタと部屋を出ていく希美を見送り、小島職鎮はなんとなく狐につままれたような気持ちで、春日山城を後にし、越中に帰っていった。






「殿、何故あのように忙しい風を装おったのですか?」


トボトボと山城を下りていく小島職鎮を、狭間から覗き見た後に、牛一は希美に尋ねた。


希美はしれっと言い放った。


「大抵の日本人ってのは、相手に合わせて動こうとするからな。こっちが忙しいと、向こうも空気を読んで帰るだろ。あの契約書、ちょっと突っ込まれたくない部分とかあったし、そこに気付く前に話を終わらせて越中に帰ってほしかったんだよねー」


「条件内容の見直しを要求されましょうや?」


「さあ?でも、越中に帰ってから気付いても、越後は遠い。そのうち一向一揆が起きて、それどころじゃなくなるさ。もし一揆勢が加賀に来るなら、神保さんは必死こいて止めないといけないだろ?契約書にあるんだからさあ。『柴田家の敵の加賀入りを阻止しないといけない』って」




ニヤリと悪い顔で笑う希美を見て、牛一は神保氏に心から同情した。








さて、神保長織は越中に戻った小島職鎮から、柴田家入りが首尾よくいったと聞いて大いに喜んだ。


「よおしっ!糞坊主の信玄は鬱陶しいし、能登畠山のど変態は糞の役にも立たぬし、神保も終わりかと思うたが、あの成り上がりのエセ大明神が守ってくれるなら安泰じゃ!あれでも、次々に敵を平らげ領土を広げた男。これで武田もわしに手は出せまい」


「よう御座いましたな、殿!」


「ふははっ!兵を損なう事なく領を守る。これが知恵者の仕事というものよ」




上機嫌の長織に、小島職鎮が口を挟んだ。


「しかし、殿。この仮契約書とやらには、守ってもらう代わりに、武田信玄と柴田家に敵対する者を加賀入りさせぬように、我等が尽力せねばならんと書いてあるようですぞ?」


長織は、ふん、と鼻を鳴らした。


「なに、武田は柴田の同盟相手。わし等が柴田家に入れば、わしも同盟相手じゃ。手は出せまいよ。それに今の柴田家に対抗する者など、この越中にはおらんわ。もしそんな事をすれば、えろの民が一揆を起こすぞ」


「それもそうですな」


「いやー、これで枕を高くして眠れるな!」


「左様ですな!」


ハッハッハッ、と増山城に、主従の笑い声が響く。






その十日後に、越中神保領内で大規模な一向一揆軍が発生、加賀を目指して進軍を始めたという連絡を、長織は受け取る事になる。

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