第102話 ケンさんの恋バナ
「つまり、EDが治って大はしゃぎだった、と」
「いいでえかは知らぬが、なんせ若い頃より生ける屍であったからのう。まさかに、快復するとは思ってもみなかった故、興奮してしもうたわ」
多少落ち着いた輝虎が布団の上にあぐらをかいて、にまにましながら顎を撫でている。
希美は少し離れた場所に座り、呆れた目を輝虎に向けた。
「もしかして、生ける屍化したのは、酒の量が増えてからではなかったか?」
輝虎は、少し考えてから頷いた。
「確かに……。言われてみれば、そうじゃな」
「やっぱ酒のせいじゃねーか!!」
(こいつが子供作れず、最後養子同士が争う上杉のお家騒動『御館の乱』が起こったのは、これが原因か……?)
だとしたら、とんでもない事実が発覚である。
こんな疑惑は、重石をつけて記憶の闇の底にぶん投げておこう。
疑惑を無事記憶の闇に沈めた希美は、神妙な顔をして説教した。
「なんにせよ、これで分かったろう?酒(の飲み過ぎ)は家を潰す事にもなり得る。ここで安心してまた飲み始めると、お主の龍だけでなくお主自身も、本当の屍となる。肝に命じるのだな」
「うむ。酒は控える」
「阿呆!断酒だわ!」
希美は一喝し、輝虎は項垂れた。
だが、飲むとまた悲しい状態に逆戻りだ。輝虎はそれを理解しているので、渋々ながらも断酒を続けるようだ。
希美はついでに、アルコール依存治療の次のステップとなる、輝虎のカウンセリングもここで行ってしまう事にした。
「お主、若い頃から酒量が増えたようだが、何があったのだ」
輝虎は、少し苦しそうな様子で昔を思い出しているようだったが、長く息を吐くとほろ苦い表情で希美に語り始めた。
「わしは元は出家しておったのだが、兄に頼まれて還俗したのよ。兄の用を為せばまた出家するつもりでおったから、『生涯不犯』を公言して兄を脅かす意思はないと伝えたつもりだったのじゃ」
(『生涯不犯』にEDは関係無かったか……)
よかった。とりあえず、上杉謙信の意識高そうなイメージは守られた。
輝虎は、ほっとする希美の表情になど気付かず、意識を過去に飛ばしている。
「しかし気付けば、わしが寺に戻る事など周囲は許してくれなんだ。こうなれば、もう意地でも『生涯不犯』を貫くと心に誓った。……その意志をただ一度揺るがしたのが、伊勢姫であった」
「恋ばなですね。大得意です!」
「……」
「すみませんでした。続けてどうぞ」
「わしは二十二、三で、伊勢姫は十六。上野国平井城主である千葉釆女ちばうねめの娘でな、わしに降る千葉釆女が人質に送って寄越したのだ。わしは一目で恋に落ちた。美しく、菩薩の如く澄んだ笑みを浮かべる姫であったの……」
「アルカイックスマイルの女。十六才で達観し過ぎじゃないですかねごめんなさい続けて下さい!」
「……わしはその時初めて、出家ではない未来を見たのじゃ。どうしても、室にしたかった。向こうもわしを受け入れてくれた」
「えっ!という事は、最後まで……」
「わしも若かったのじゃ……」
輝虎は頬を染めて、そっぽを向いた。
(やだ、アルカイックな女子相手にCまでいっちゃったの?やるじゃーん!見直したよ!)
Cってなんだ。おばちゃんにしかわからない暗号である。
「それでそれで?そのアルカイックちゃんとは、どうなったの?」
ワクワクで聞く希美に、輝虎は先程の苦笑いをまた浮かべた。
「どうもこうもない。降将の娘を嫁にしてはならぬと柿崎弥次郎が断固として反対し、他の家臣等も同調した。わしは諦め、伊勢姫は出家に追い込まれ、気が付けば彼女は死んでいた」
「は?出家?死んだって、なんで?!」
「家臣等は、姫は寺で病を得たと言う。だが、本当は寺で自害したという噂がまことしやかに流れた。真偽はわからぬ。わしは、確かめる勇気が無かった」
輝虎は目線を落とした。
「わしは越後国主として、正しい決断をした。ただな、思うのじゃ。もしあれが、わしの子を宿しておったら、と。もしわしが、越後を捨ててあれと共に逃げていたら、と」
「ケンさん……」
輝虎は自嘲した。
「それ以降、わしは改めて女を禁じた。というより、抱けなくなった。目に浮かぶのじゃ。伊勢姫の姿が。酒の量は伊勢姫を諦めた時から増えたが、飲まぬと眠れぬようになり、いつの間にか生ける屍となり果てた……って、おい!そんな物騒な顔してどこに行く!?」
「あ?そりゃあ、柿崎弥二郎景家をぶん殴りによ」
「止めよ!あれはあれなりに、越後を考えての事じゃ。そもそも、女より越後を取ったのはわしだし、それが間違っていたと今でもわしは思っておらんのじゃ!」
立ち上がって部屋を出て行きかけた希美は、Uターンして戻ると輝虎の前にどかりと座った。
「何故、お主の龍が今さら快復したのだと思う?」
輝虎は、戸惑いながら答えた。
「それは、断酒で酒の毒が抜けたからでは……?」
「それも大いにある。だが、お主の場合、龍が死んだは酒だけが原因ではない。伊勢姫を失ったお主の心にも原因があると思う。だが、お主は快復した。それは何故だと思う」
希美の真剣な眼差しに、輝虎は同じように自分の心を見つめ、答えをみつけようとした。
輝虎は絞り出すように、声を出した。
「わからぬ……。わからぬが、何かが変わったのだと思う。わしの心の何かが」
「つまり、これまで伊勢姫に向き合いもせず、うじうじ悩んで自分を戒めてたお前が、殻を破る契機なんじゃないか?」
輝虎は顔を上げて、希美を見た。
希美は、にやりと笑うと、一気に輝虎を担ぎ上げた。
「ま、また、これかーーー!!」
「よし、行くぞ!」
「どこへ?!」
「知らん!お前しか知らんだろ、伊勢姫が死んだ寺は!」
「はあ?!」
「嫌か?嫌なら、代わりに柿崎のお邪魔虫野郎を私達二人と馬一頭でボッコボコに……」
「行く!青龍寺に行くから、柿崎を許してやって!馬に蹴られたら重臣が死んじゃう!」
「よし、青龍寺だな!ケンさんがナビってくれよ。土地勘無いから」
「わかった……何となくだが、わかった。案内する」
輝虎は、諦めて希美に体を任せた。
希美は、しっかりと輝虎を担ぎ直すと、馬屋に走ったのだった。
そうして、二人は青龍寺の門前に来ている。
馬番に馬を借りた希美達は、やたら馬番に尻を心配されたが、希美が「今さら馬に乗るのは慣れているから大丈夫だ」と言うと、「流石えろ大明神様だ!」と、意味のわからない賛辞を受け、生暖かく見守られながら、春日山城を後にした。
そうして、たどり着いた青龍寺の前で、輝虎はただ立ち尽くしているのである。
いつまでもそうやっていても埒が明かない。
希美は、輝虎に声をかけた。
「じゃあ、ケンさん、その場に土下座な!」
輝虎は、ギョッとした顔で傍らの希美を見た。
希美は、輝虎に言った。
「寺の中に入ろうが、外にいようが、どっちでもいいんだ。お主が真摯に祈りさえすればな」
「祈る……死者への祈りなら、『南無阿弥陀仏』か?お主流にいけば、『えろえろ』か?」
祈りの文句に迷う輝虎に希美は、首をすくめて言った。
「何でもいいさ。お主は死者への祈りと言うがな、祈りの本質は自分への『赦し』と『感謝』だと私は思う。誰かのために祈る事で、自分を救うんだ。どの宗教でも、どんな祈りの文句でもいい。宗教は神のためにあるんじゃない。生きてる人の心を救うためにあるのだから」
「わしが、わしを赦し、わしが、わしに感謝するのか?」
「結果的にだぞ。お主の信じる神を介してな。なんせ、死者はあの世だ。ここにはいない」
一度死んだ希美の言葉だ。説得力がある。
希美は、輝虎の足に膝かっくんしてひざまずかせると、祈りを促した。
「まず、お前が伊勢姫に言いたいのはなんだ?!」
「す、すまなかった」
「声が小さい!!」
「すみませんでしたあ!!」
希美は、さらに促した。
「伊勢姫との恋は、間違いだったのか?お主に何も与えなかったのか?」
「違うっ!幸せだった。確かに幸せだったんだ!」
「なら、幸せをくれた伊勢姫になんて言うんだ!」
「あ、ありがとうございましたあ!!!」
「繰り返せえ!」
「すみませんでした!ありがとう!!」
「まだまだあ!」
「すみませんでしたあ!ありがとうう!!」
「もいっちょ!」
「ずびばてんでしたあ!!ありがどおお!!」
輝虎は、滂沱の涙を流していた。
亡き伊勢姫に祈りを捧げる度に、涙といっしょに心に溜まった澱が消えていくような感覚に襲われるのだ。
これが、祈りかーー。
輝虎は、希美の唱えるえろ教の生き方を理解した。
何故、宗教の掛け持ちが許されるのか。
何故、宗派の違うえろ教徒がまとまり、互いに生き生きと輝いているのか。
彼らは知っているのだ。祈りは、宗派を越える、と。
輝虎の中で恨みがましげに佇んでいた伊勢姫は、『仕方のない人ね』と呆れた表情で笑っていた。
輝虎は、その変化を感じ取り、伊勢姫に届くように声を張り上げた。
「ありがどおおなあああ!!!!」
上杉家の家臣達は、城に戻って来た輝虎の目が腫れ上がっているのを見てざわめいた。
皆、考えた事はいっしょだった。
『こいつら、痴話喧嘩したな』である。
そこへ、柿崎景家が通りかかり、輝虎の顔を見るや希美に食って掛かった。
「何故、殿を泣かせるような真似を!!いくら大殿でも、許しませぬぞ!」
希美はキレた。
「ケンさんを泣かせたのも、越後の龍が屍になったのも、元凶はそもそもてめえだろうが!!」
「な、なんですとお!!?」
希美は景家をす巻きにして、馬小屋に放り込んでしまった。
輝虎の恋路を邪魔した景家は、馬に蹴られずに済んだものの、馬糞まみれにはなったのである。
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