第96話 箕輪の風に吹かれて

希美は脳味噌に一撃を食らったような衝撃を受けた。




『越後一国を任せる』




信長の決めた異動通知だ。


体の力が抜けた瞬間、傍らの次兵衛が倒れたが、希美はそんな事にも気付かぬほどに、ただ呆然と座り込んでいた。




「おめでとう御座る!」


「おめでとう御座る!」


「おめでとう……」


「おめで……」




口々に皆が祝いの言葉を希美に投げかけた。


希美は定まらぬ頭で、考えた。




(私、笑って『ありがとう』と言うべきだろうな……)




だが、希美は言いたくなかった。


笑顔なんか出ない。


さっきから沸々と沸き上がるこの感情。




怒り、だ。




希美は信長にこの怒りをぶつけたかった。


だが、主だ。そんな事は出来ない。


やり所のない怒りを抱えた希美は、立ち上がると、傍に立つ長秀に思いきり平手打ちをかました。




ドゴオッ


長秀の体が浮いた。




そういえば以前、希美が柴田勝家御本人様にもらった平手もこんな音だった。


(あれ?やっぱり平手打ちの効果音はドゴオッだったのかな)


違う。それは、柴田勝家的な漢おとこらしさ満開な人限定だ。


希美は女子として、恥じるがよい。






一方、信長含め、周囲は唖然としていた。


希美は、気まずさともやもやした怒りの感情をもてあまし、信長が何か言う前にこの場から逃げ出す事にした。




「あー、今の平手打ちで手を痛め申したわー。折れておるやもしれぬなー。ちょっと向こうで冷やして参りまする。では御免っ」


「あ、おい!お前が手を痛められるわけなかろうが!おい、待て!」


信長が胡散臭そうな表情を隠さず希美を引き止めようとした。


しかし、希美は信長から距離をとった。


「そいつの顔の骨、暗黒物質ダークマターで出来てるみたいですわー。仏の加護が効かないとか、ダークマターさん、パネエっす。おや、どこからともなく某を呼ぶ声が聞こえる……」


希美はそのまま走り去った。


後ろから、「『だあくまたあ』とはなんじゃあ?!」という信長の叫びが聞こえる。


希美はその声を振り切った。








木俣広場の東の曲輪、その際にある切岸に希美は腰かけていた。


眼下は深い堀となっており、遠く城の外は沼地が広がっている。


希美はその景色を見ながら、はあ、と一つため息を吐いた。


「越後かあ、遠いな……」


希美は沼地のさらにその先を指差した。


「あっちが美濃かな?」


「阿呆。真逆じゃ」




突如背後から声をかけられ、希美は首を傾げながら振り向いた。


輝虎であった。


「……ごめんな」


希美の謝罪に輝虎は目を丸くした。


「何を謝っておる」


希美は苦笑いした。


「越後が嫌なわけじゃないんだ。ただ、殿の気持ちがわからなくなってさ」


倦怠期カップルの悩みのような事を言い出した希美の隣に座った輝虎は、希美の横顔を見つめた。


「何が不安なのじゃ」


「……不安じゃない。私は怒ってるんだ」


「何に。牢に入れられた事か?」


輝虎の推量に、希美は首を振った。


「殿はさ、私の事嫌になったのかな」


「はあ?」




輝虎には意味のわからぬ思考だった。


越後は尾張や美濃からすれば飛び地だ。


それも大国である。


その越後を任せるという事は、『こいつは絶対裏切らぬ』という信頼の証ではないか。


何故、『嫌われたから越後』なのか。


「意味がわからぬ」




希美は輝虎を睨んだ。


「私は石牢に入れられるのは構わない。嫌だけど、責任だから受け入れるさ。あの闇米といっしょなのも、まあ罰ならば呑み込む。だが、殿は私が衆道を避けてるのを知ってるくせに、丹羽長秀が私に手を出すのを望んでるようだった」


「嫌がらせ、というわけか」


希美は頷いた。


「殿は暴力的だし、苛めて楽しむ癖があるけど、相手の反応を楽しんでるんだ。でも今回は違う。私の反応を楽しむためじゃない。ただ、私がやられるのが目的だった」


希美は拳を地面に叩きつけた。


「私はさしずめ、丹羽長秀へのご褒美か何かか?その上、遠い越後に行けと。確かに迷惑はたくさんかけてきたけど、顔も見たくないって事?!」




いつの間にか、希美の頬が濡れていた。


輝虎が懐紙で拭ってやり、その紙を希美に渡した。


「男なら簡単に泣くな」


「くっそー!!(だから男じゃねえ!)」


TSとは、複雑だ。


そもそも希美が女子なのか疑わしい時もある。


柴田勝家になりきれる女子は、もう男と同義だと知るがいい。






「柴田殿は勘違いをしておりますな」




希美と輝虎は同時に振り返った。


そこには、諸肌脱いだ池田恒興が立っていた。


(ああ、お仕置き待機中に、信長に『行ってこい』されたんだな……)


恒興は希美の隣に並び、すっと四つん這いになった。


年期の入った流れるような動作だ。美しい。


希美は気付いた。


「あれ?背中、めちゃみみず腫れになってるぞ」


希美が指先で、背中に赤く走る痕に触れると、「あふんっ」と恒興が息を吐いた。


呻き声が気持ち悪い。


希美は反射的に手を引っ込めた。




恒興は照れ臭そうに笑んだ。


「殿の愛用の馬鞭が壊れましたからな。ここの所、振るいやすさを某で試してくださるのですよ。ただなかなか良いのが見つからず、しばらくは毎日楽しめそうです。柴田殿のお陰で御座る」


「そ、それはよかったな……」


思いもよらぬ所で善行を積んでいたようだ。


いや、善行なのか?


希美は、いくつも走る背中の赤い痕と恒興の顔を交互に見た。


うん、確かに善行だ。


善行の定義が崩壊しそうだ。


隣で輝虎が複雑な表情を浮かべている。


(本当にごめんな。お前も、これからはこの変態の仲間だぞ!)






恒興(四つん這い)は、首を『鞭振るわれ仲間』の希美の方に傾け、話しかけた。


「柴田殿は、殿の猜疑心がお強いのをご存じでしょう」


「ああ」


希美は頷いた。




輝虎が希美に訴えた。


「なあ、何故こいつは普通に座らんのだ?何故お前は相手が四つん這いなのに、普通に話を進められるんだ?」


「四つん這いといえば池田恒興だからに決まっているだろう。織田家は個性を大事にするんだ。慣れろ」


「織田家は変態と個性をはき違えておるぞ!」


輝虎は頭を抱えている。




希美はそんな輝虎を無視して恒興に向いた。


「ケンさんが煩くてすまんな。殿が疑り深いのは知っているよ。私もしょっちゅう謀反を疑われて鬱陶しい事この上ない」


「殿は不安なので御座る。あの方は人を信じたい、甘えたいのですよ。だが、母御前には疎まれ、周囲は殿を認めず……だから、信頼すればするほど確かな繋がりを求める」


「どういう事だ」


「ここだけの話ですが、殿の姪にあたる姫を殿の養女にして、丹羽殿に嫁がせる話が出ているので御座る」


「なんだと?!」


恒興の話に希美は驚いた。


「惨い事を……目の前で、あれとそれをかき回されながら、至近距離であの音を聞かされる生活が毎日とは……気が狂うぞ!」


「牢で何が起きたんですかねえ」




希美はぶるりと震えると恒興に聞いた。


「それはともかく、闇米の結婚と私に何の関係があるんだ」


恒興は真剣な表情(四つん這い)で言った。


「殿は丹羽殿を縁戚にして強固な繋がりを持つ気で御座る。本当は柴田殿もそうしたいのでしょうが、女犯の禁があるからできぬ」


(適当こいた過去の私、グッジョブーー!!)


「そこで、縁戚になる丹羽殿と柴田殿が恋人同士になれば、柴田殿も間接的に織田家と縁が出来ると……」


「なんつー事を考えるんだ!殿のアホ!!」




「殿は、柴田殿の事も身内にしたいのですよ」


恒興は微笑んで頷いた(四つん這い)。


「殿……」


希美は、ほっとした。


胸の内にあるもやもやとした憤りの塊が、ほぐれていく気がした。


輝虎は言った。


「越後行きの話とて、信頼の証ではないか」


「左遷じゃないの?」


希美の言葉に、輝虎と恒興が呆れた顔をする。


「織田家は主従揃ってアホなのか?越後は大国ぞ。それに織田にとって敵になりかねん大名共の背後をつける重要な地じゃ。それに、わしが言う事ではないが、元は敵国じゃ。よほど信頼していなければ、任されぬわ」


「た、確かに……」


「それにの、お主が牢にいた十日の内に、越後で織田支配を拒否した国衆の始末は、織田上総介が差配して、既に血生臭い事は片付いておる。牢に入れたのも、命を奪うのを厭うお主のためであろうよ」


「そうなのか?!池田殿!」


恒興は頷いた。


希美は泣いた。


「ああ、だから男が簡単に泣くな!」


そう言いながら、輝虎がまた懐紙で希美の顔を擦る。


「もう、男でいいよお。ありがとう、ケンさん、ありがとう、殿お~」


「何言っておるんじゃ。お主等は仲の良い主従よの……」


輝虎は呆れながらも笑って言った。




希美は思い返した。


こちらに来て、戸惑う希美に水をぶっかけてきた信長。


ぼこぼこに足蹴にしてきた信長。


飛び蹴りする信長。


ぽかぽかパンチャー信長。


火縄銃で撃ってきた事もあった……




「む、謀反してやるう!」


立ち上がりかけた希美を輝虎が引き止めた。


「落ち着け!ここは謀反の流れではなかろう!」


「ごめん……思い返したら、あいつパワハラ三昧だったわ」


希美は深呼吸してもう一度信長の優しさを思い返した。




『これはわしがいつも小姓に塗ってやっている軟膏じゃ。使うがよい』




(優しさが生々しい!!)




希美は笑った。


泣き笑いだ。


希美は、自分の思いを確かめるように言った。




「殿は、すぐに暴力振るうし苛めるし、我が儘で寂しがり屋で、母親からの愛情不足をパパ乳で補う変態野郎だけどさ」


希美は顔を上げて沼地の向こうを見た。


高い建物なんてない。見晴らしは良く、遠く山が見えた。


「時に手のかかる子どもみたいで、時に我が儘な弟みたいで、時に頼れる兄みたいで……。いつの間にか、殿は私の家族になってたんだなあ」






一陣の風が吹いた。


沼地に生えるガマの群生を揺らし、希美の頬を撫でた。


「はふう……!」


恒興は、背中を撫でられたようだ。




「私、殿に謝るよ」


希美の言葉に輝虎が頷いた。


「それがよいな。越後に来ればなかなか会えぬ。何か餞別を渡すか?」


「いいな!でも何がいいだろう」


悩む希美に四つん這いの恒興が助言する。


「ならば、竹の根は如何か?良き鞭にできるかもしれませぬ」


「なるほど、良い考えだ!」


希美は興奮のあまり、恒興の背中をバンと叩いた。


「アヒイイッッ!!!」


恒興の歓喜の悲鳴は、箕輪の風になった。










早速希美は、鎌を持って竹林に分け入り、根を刈った。


どれが良い鞭になるかわからなかったから、袋いっぱいにたくさん刈った。


土のまだついたとれたてほやほやの竹の根だ。




面と向かってプレゼントするのが気恥ずかしかった希美は、恒興に協力を仰ぎ、サンタクロースよろしく、そっと夜寝ている信長の枕元に、竹の根が詰まった袋をセットした。






次の日の朝、信長の悲鳴が箕輪城本丸館に響き渡った。




「く、曲者じゃあーーっ!!曲者が、わしの部屋に忍び込み、ゴミを置いて行きおったあ!!!」




ゴミだけ置いていく曲者とは。


この後全てを知った信長に、希美はめちゃめちゃしばかれた。


希美に協力した恒興は、その横で四つん這いを封じられ、す巻きにされて転がされたが、それはそれで幸せそうであったという。


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