28
教室につくと、部屋一面に紙が貼ってあった。塗る前だから真っ白だ。ダンボールに画用紙を貼って、補強しているらしい。風景作りと、舟作りの役割分担がなんとなくできているようだ。
私達が帰ってきて、真っ先に飛び出してきた瑠璃に持っていた刷毛を渡した。
天井部分は先に塗って、乾いてから台を使って貼り付けた方が良さそうだ。かなり量があるので、全員で塗っても結構かかるだろう。換気に気をつけて、みんなで刷毛を動かす。何度か重ねても、ムラや色の違いがあまり出ない色で良かった。
慎重になる必要はない。大雑把に進めても、この上から星を描くから更に紛らわせられる。瑠璃にもぴったりという訳だ。
適度に休憩を入れようと立ち上がると、いつの間にか柘榴がついてきていた。
「先生、ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
どこへ行くのかと思ったが、連れていかれたのは寮だった。
「こっちに忘れ物?」
「ううん。みんなにオヤツを作ってあげようと思って。差し入れ。先生は何か作れる?」
脳裏に一つのお菓子が浮かんだ。唯一レシピを見なくても作れるものがある。甘いお菓子のはずなのに、苦い味が舌に回った気がした。
「それは良いね。甘いものなら皆も好きだろうし」
ここで良い思い出に塗り替えてしまえばいい。頭を切り替えて、材料を探した。幸いにもあの人の趣味なのか、使い道のよく分からない調味料や器具は揃っている。
久しぶりだったが、やはりそれは完成してしまった。あの頃と寸分変わらない味だ。
「どうかな、美味しくできてる?」
「うん、美味しいよ。私も好きだな」
白い粉がついた指をぺろりと舐めた。最近の柘榴はどうも、私を試すような目を向けてくる。どういう意味で試すのかは、分からないが。彼のイメージなら兎や猫、羊、こんな雰囲気の動物が似合いそうだが、この時ばかりは蛇のようになる。
さしずめ私は蛇に睨まれた蛙という訳だ。しかしそれは視線を逸らすと共にふっと消えてしまう。いつもの柘榴にすぐ戻る。これのおかげで私はまだ彼と付き合えているのだろう。
沢山できたので他のクラスにも配ったが、まだ一緒にお茶をするのは難しそうだ。
ふと隣に座った灰蓮の顔に、ペンキがついているのを発見した。よく見ると服のあちこちについてしまっている。制服がいくつも用意されてはなさそうなので、私服で良かった。
「灰蓮、ここについているよ。拭こうか? タオルがあるからお湯で濡らして」
「いいよー。後で洗うから……落ちるよね?」
「大丈夫だと思うけど、あまり擦りすぎちゃダメだよ」
灰蓮に限らず、彼らは皮膚が薄そうだ。これからは手袋も用意するべきか。後で探してみようと頭にメモして、彼に振り返る。何か聞こえた気がした。
「今、何か言った?」
「う、ううん。なんでもないよー。これ美味しいね」
気になったが、会話は次へ流れていってしまった。仕方なく、お菓子に手を伸ばす。指先についた粉は甘い。何年も食べていなかったが、少し甘すぎるんじゃないかとお茶で流した。
♢蘭晶♢
柘榴はお気に入りの香水瓶に指先を滑らせた。今日の彼は機嫌が良さそうに見える。安堵のため息を漏らして、手元のクッションを引き寄せた。
「ふふ、ねぇ蘭晶。あの人の好きなものって知ってる?」
香水瓶から視線を外してこちらを見たその表情は、ここ数年で久々に見た笑顔だった。その顔を部屋の外で見たことはあったが、二人きりの部屋で見せることなどなかった。これを何も気にせず、手放しに喜べるほど鈍感ではない。違和感に押し潰されそうな中で、さぁ何かしらねと震えた声で答えた。
「知らないの? なんていうか、あまり面白みのない物が好きそうだよね。真面目に、窓から見える景色とか言いそう。……でもね、聞いたらちょっと予想外だった」
「柘榴にも想像がつかないものだったの?」
「……ブールドネージュ」
「えっ?」
知らない? お菓子の。と、戸棚から葡萄一粒ぐらいの大きさのパールを取り出した。
「ちょっと似てない? 白い粉で覆われた外見は可愛いよね。スノーボールとも言うらしいけど。あの人からお菓子の名前が出てくるなんて、びっくりした」
「ああ、だから……」
今日の一件は彼が絡んでいたのか。急にお菓子を作るなんて、珍しいと思ったけど。
ころころと指先で弄ぶその姿は、悔しいけれど美しかった。ふとした瞬間でも絵になる。どの表情にも価値がつく。そんな風に思ってしまう自分も嫌だけど。昔から叩き込まれた彼の悪意は、もう身体中を蝕んでいる。
「どうしてそんな可愛いお菓子を知ってるの、女の子にでももらったの? そう聞いたら……」
くすくすと笑ってから、ふとまつ毛を下げてパールを見つめた。その宝石には、愛おしいあの人のことが見えるのだろうか。
「好きな女の子が好きだったお菓子。しかも自分で聞いたわけじゃなくて、同じ教室だったから、たまたま聞こえたんだって。それで、そのお菓子は聞いたことがなかったから調べてみたら、自分でも作れるんじゃないかーって。ふふ、それから何回も作ったんだって。いつか彼女にあげるかもしれない、そんな風に思いながら。結局彼女が飽きてそんなお菓子を話題にしなくなっても、作り続けていた。……だからこれだけは唯一、今でもレシピを見ずに作れるお菓子らしいよ」
それは苦い思い出ではないのだろうか。自分だったら嫌になって一生見ることも、食べることもしないかもしれない。そんなところがあの人らしい。ちょっと心が温かくなった時に、視界の端で何かが落ちた。
「可愛いよねぇ……白くてコロコロしてて、甘くてさっくりとして……ふふ……また一緒に作ろうかなぁ」
転がったパールは家具の後ろに入ってしまった。それを目で追いかけていると、急に影がかかった。
「ねぇ、知らなかったでしょ? 私は知ってる。あの人の過去を……もっともっと教えてもらって。これからは私が一緒に創り上げていくの。……邪魔、しないで」
いつの間にか笑顔は消えていた。ぞくりとしたものが背筋を駆け上がる。
「あ、は……まぁいいや。別にあんたは邪魔にもならないからさ。でもあの人のことは、私だけが知ってればいいっていうのは本当。今は部屋の隅っこで丸まってるからいいけど、耳元でぶんぶん騒ぐ害虫になったら、潰してあげるから。ふふっ……あーあ、もう一回会いに行っちゃおーっと」
その頰には熱が灯っていた。こちらのことは目にも入っていないようだ。最近の彼はこういうことが多い。一方的に自慢を、しかもこちらが敵わないようなものを投げつけてきて、それを高い場所から優雅に、同情にも近い目で、羨ましいでしょう可哀想ねと笑う。
あの人は優しいからみんなのことを好いてくれる。ただそれは弱さでもあるから、こんな我の強い面々に押されて断ることができないだけでもある。自分なら、きちんと先生の為になることができるのに。こんな裏表が激しい柘榴なんか好きにならないで。そう願ったところで、叶うはずない。だって正義の味方も、魔法のランプも、神様だって存在しないのは知っているから。
自分にできることは、せいぜい感情を抑えて吹き出さないように気をつけながら、これ以上ひどいことにならないように祈るだけだ。
落ちたパールが割れるよりは、どこかへ隠れてしまった方がいい。でも宝石だったら傷ついても、見られていることの方が価値があるのかしら。いや、ないわよね。そうしたら意味無いもの。傷一つついていない宝石でないと、持ち主の価値を下げるだけだわ。じゃあ私はやっぱり、相応しくないのかしら。
悔しいけれど、あの人がブールドネージュを作っている姿を想像すると気分が和らいだ。愛らしい。その横にいるのが私ならいいのに。私もいつか一緒に作れるかしら、その可愛いお菓子を。
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