10

彼があの後どうなったのか、詳しいことは聞けなかった。とりあえずもうここには絶対に帰って来られない、それだけは確からしい。

校長はショックで寝込んでしまった(といっても食事はきっちり取っていたようだが)。皆に伝えた時の反応も思ったより薄く、何があったのかは大体分かっているようだった。それと彼がどういう人間であったかも。明日からは深緑のクラスの子達、彼らのことも気にかけてあげよう。

そういえば翠は……今晩は訪れそうにない。彼の性格的にも、素直に来るのは難しいとは思っていたが。このままだと彼の中で無かったことになってしまいそうだ。一度全員と面談までいかなくても、対面で話し合いをしてみたい。

カーテンを閉めてベッドに近づいたときだった。コンコンと心地良い音が二回鳴る。今度は誰だろう。

「先生、ごめんなさい。お休みするところでしたか?」

「ああ紅玉……ううん本でも読もうかと思っていたんだ。だから大丈夫だよ、どうかした?」

まるで蝋燭の明かりを消した時のように、ふっと笑みを消した。少し話したいことがあるというので、部屋の中に招き入れる。椅子を用意したが、素直に座ろうとはしなかった。思ったよりも深い事情なのかもしれない。

「……紅玉?」

呼びかけには答えず、私の手をそっと持ち上げた。指先に暖かい体温が移る。しばらくその状態で、何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。紅玉は完全に笑みを消し、目を閉じる。彼が私の手を動かし、頰に当てているという構図だが、私が力を抜けばきっと手は簡単に落ちてしまう。暖かく柔らかな感触がダイレクトに触れていた。何か話すべきなのか、何もしない方がいいのか。私以外の時が止まってしまったみたいだった。

「……っ」

目がゆっくり開かれる。微笑を浮かべたその表情は、半分明かりを消したこの部屋では、ぞっとするほど美しく見える。

「先生……っここからはあと何人がいなくなるんでしょうか……もう沢山……沢山いなくなった。僕たちは……怖いんです。これ以上失いたくない。ここしか、居場所はないのに……っ」

目線を合わせてそっと頭に触れる。微かに手は震えていた。柔らかな髪を数度撫でて手を外す。が、その前に腕を掴まれてしまった。

「先生はいなくなりませんか……? 僕たちはちゃんと良い子、ですか」

「……先生がいなくなってしまったから不安なの? 大丈夫だよ。私は君たちが必要としてくれるなら、その日まで一緒にいるから。約束するよ。それに……私にも帰る場所はない。全部捨てたんだ。私の持ち物はここにしかない。ここから出たら生きられない。だから……出られない」

一瞬だけ彼の発する空気が変わった気がした。数秒黙ってからまた腕を掴まれる。今度は縋りつくように力が込められていた。

「先生、僕は……特別?」

「えっ……」

身長差が無かったら触れていたかもしれない。顔が近づいてきたことに驚いて、後ろに尻餅をついてしまった。先ほどまでの空気は壊れる。居た堪れなくなって頰を掻いた。

「ああ、ええと。ごめんね、びっくりしちゃって」

「……っ、ふふ」

目を丸くしていたけれど、その次には小さな笑い声が零れた。

「すみません。少し不安になってしまったんです。あんなことがあったから、先生が嫌になってしまったんじゃないかと……」

「そういえば私の前にいた先生も、すぐに辞めてしまったと聞いたよ」

「そうです……だから結構警戒していたのですけど。先生は僕たちが今まで関わってきた大人の、どれとも違いました。先生だけは……いなくならないで」

「……ああ、絶対にいなくならないよ。君たちが望む限りはね」

紅玉の纏う空気が普段通りに戻った。琥珀や皆のことを心配していたら、不安になってしまったのだろうか。大人びていると思ったけれど、案外子供の面もあるようだ。

「さて、そろそろ寝たほうがいいかな。眠れそう?」

「……はい。ありがとうございました。おやすみなさい先生」

「うん。おやすみ」

出て行ってから少しの間があって、それから足音がした。何か言いそびれたのだろうか。ここ数日は、特に皆の様子を気にしておこう。



♢紅玉♢

扉の木の感触が遅れて伝わってきた。知らずのうちに歯を食いしばっていたようだ。

今の感情は不快だけど面白い、だ。

ああ、貴方が少年に向けて異常な愛情を持っている人間でなくて良かった。もしそうなら、もう貴方は暖かい部屋で眠ることなどできなかったのだから。しかし……これはこれで何だか、苛つく。僕に魅力がないというのか? それは柘榴や蘭晶よりもか? もしかしたらもっと下なのかもしれない。瑠璃に行かせてみるか? 先生を誑かせて来いって?

「……ッチ、成る程ね」

まぁいいや、僕は追われるより追う方が好きなんだ。簡単に終わってしまったらつまらないじゃないか。お望みとあらばやってやろう。新しい玩具は壊さないように遊んであげなくちゃ。……でも、なんて説明しようかな。何を言ったってあいつは心の中で見下す筈だ。ああ見てみたいな、その顔が歪む様子を。きっと、醜い筈だよ。美しさに拘る君には一番の不名誉だろ。いつか言ってあげるよ。鏡を見て確認しなよってね、僕は笑みを浮かべながら。

そんなことを考えていたら、いくらか気分が愉快になってきた。さて、そろそろ夢を見に行こうか。これからの作戦を立てなくちゃ。

「……先生、良い夢を」

あと何回見られるかは分かりませんけどね。



朝の挨拶を終えて、一時間目は別のクラスを見に行くと伝えると、あまりいい顔はしなかった。

「先生、やっぱりあっちの子を優先するのね。せっかく先生ができたのに、またあたし達だけでお勉強なんて」

若干からかうような口調だった。本気で怒っているわけではないらしい。

「えっと、ごめんね。すぐに戻ってくるから。あ、解答欲しかったらここに置いていくので、必要な人は取っていってください。じゃあそろそろ……」

何人かの視線を感じながら廊下に出る。ちらりと振り返ったが、ここで言えることもないと足を進めた。

下に降りると、雰囲気が違うように感じられた。もしかしたら私は恨まれているかもしれない。気を引き締めて教室に入った。

そこには初日の彼らとそっくりな目が並んでいた。あの日に比べたら私は随分ここに慣れたと思う。それも彼らのお陰だ。

「こんにちは。ちゃんと挨拶できたのはこれが初めてですね」

軽く紹介を終えて、意を固めた。あれはスルーできる問題ではない。

「ええと……私が先生を追い出してしまったように見えている人もいると思います。彼は許されないことをした、それは確かですが……皆さんにとっては先生が必要だったかもしれないと……」

そこまで言うと、厳しい顔をしていた一人が堪え切れないと言うように吹き出した。それにつられて何人かが笑い出す。

「先生、僕らが本気で彼の授業を楽しみにしていたとお思いですか?」

一番近くの生徒が頰をつきながら笑った。他の生徒もきちんとしていた姿勢を崩し始める。

「教えてもらったのはせいぜいつまらない授業のやり方、人を不快にする話し方や立ち方、何を喋っているのか分からせない方法。いやぁ役に立ちますねぇ」

「それから気持ち悪い友人との付き合い方もね」

教室内がわっと盛り上がった。今までの愚痴やらが飛び出し始めて、どうしたらいいか分からず苦笑を浮かべる。

「あー本当に助かりましたよ。僕らがボイコットしても構わず何か始めているもんですから。それで互いに裏で悪口を言い合ってる。先生にはあの人が良い教師に見えました? そんなこと言う奴はこの世にいませんよ。だってあれはもう人というより豚だ。家畜ですよ」

「僕たちは結構先生に期待していたんですよ。でも……黒に取られちゃったから。羨ましかったなぁ……まともな先生が来てくれて」

「まぁ今は白に取られなくて良かったかな。あれー? あの人って何の教科だったんだっけー」

「忘れるなよ美術だろ。少年のヌード専門のさ! この中にも狙われてた奴はいるんじゃないか? はは、どうせなら黒から欲しかったのかなぁ。こういう時、上の立場じゃなくて良かったって思うよ」

「はーこれでやっと自由の身かぁ。これは白の奴らも羨ましいだろうなぁ。あ、そういえばあの人も辞めちゃうんじゃない? 二人で過ごすことしか楽しみがなさそうだったし」

「うっげ。想像したら吐きそう。最高に最低なラブシーンだ。でもあの骸骨までいなくなっちゃったら、先生三クラスだね。そうしたら僕らに構ってる暇は無くなっちゃいそうだな」

彼らの中で下の立場だということを散々言われてきたせいか、性格は歪んでいるようだ。まぁそうなっても仕方ないだろう。紅玉達はおろか、もう一つのクラスにも下に見られている。私には彼らの大きな違いは分からないが、この場所ではそのヒエラルキーが重要みたいだ。彼らに嫌われていなくて安心したが、ここで舐められては昔と同じだ。でも、私も彼らと同じような扱いを受けてきた同士だ。どうせなら優しくしてあげたい。

「……やっぱり皆を一つのクラスにするっていうのは難しい……かな」

一瞬ぴたりと会話が止まった。その後に困ったような声が続く。

「あー難しいと思いますよ。僕らじゃなくて、紅玉やリシアが。まずあの二人が会話するとか不可能だろうし」

「リシア?」

「ん? 白のリーダーですよ。このクラスの代表はこいつ」

肩を組まれた少年がこちらに目を向ける。他の生徒と比べてあまり特徴はないが、上げるとしたら皺一つない制服をしっかりと着ている点だろうか。

「初めまして皇華と申します。と言っても、大した事はしてません。僕らは周りがあんなだから、できるだけ平等を心掛けています。白のクラスは基本的に僕たちを好意的には見ていますが、それはあくまで僕たちが下にいるからです。二つのクラスで手を組めばいつか黒を倒せるなんて言っていますが、無理でしょうね。白のリーダー、リシアのせいであのクラスの全員が黒に強い敵対心を持っている。一番面倒なんで気をつけてくださいね。自分達ではそれが誇り、とか高貴だと言っていますが」

「紅玉達が天にいるんだとしたら、白はせいぜいそこを飛んでるヘリコプターですよ。俺たちは何だろう。さらにその周りをブンブン飛んでる虫かな」

「……でも、僕たちもそれよりはマシですから」

教室の奥の方で、小さいけれどはっきり聞こえる声が上がった。

「……その下を歩くことしかできない人たちよりは、飛べる僕たちの方がまだマシ……」

他の者もなんと言っていいのか分からないようで、教室内が静かになった。このタイミングだと、紙を取り出す。

「さて……そろそろ始めようか。テストを用意しました」

彼らにやったのと同じようなテストを作った。こちらはあまり年の差がないので、これなら普通に授業を行うこともできそうだ。

プリントを手渡し、来られる時には来ると伝えた。二つのクラスぐらいならどうにかなるだろう。教室から出る時に、彼らは暖かく見送ってくれた。全員が好意的なのは少し演技めいたものを感じたが、あの授業を二度と受けなくて良くなったのは、思っていたよりも嬉しいことなのかもしれない。開放感を堪能する彼らに手を振られ、ぎこちなく返しながらその場を後にした。

教室に戻ると、どことなくほっと落ち着いた。彼らの顔を見ると安心する。しかしそれをしみじみと感じていた私に、不満そうな顔を向けられる。

「ぜーったいあの子達先生のこと気に入ったわぁ。今までが今までだったんですもの。泥を啜ってたらいきなり生クリームが与えられたようなものだわ」

「その例えはよく分からないな……」

思わず脳内でそれを一緒にしてしまったことを後悔した。一度口を洗ってから、クリームを与えられたに変換しておこうかな。

「そんな良いものじゃないよ……まぁ泥ではないと思いたいけどね」

「……お帰り、なさい」

上目遣い気味でふわりと告げられる。柘榴は座席的に一番目が合いやすいので、その視線に耐えられずそっと逸らしてしまった。

「ただいま。でも下の階ってだけだからね。そんな大げさなものじゃ……」

「あら、先生。あたし達みーんな寂しかったわよ! やっぱりここが良いでしょ?」

生徒を選ぶ事はしたくないが、確かに生活を共にしている彼らは特別な位置に当たる。

「まぁ……そう、だね」

クスクスと柔らかい笑い声が響く。あの翠や蛇紋、黒曜までも笑ってくれているようだった。目の前が絵のように映る。どこか幻想的で、私はそれを眺めているのか、本当にそこにいたのか分からなくなった。ただ心地よい空間に包まれている。それだけで良かった。それが居場所を与えられたという安堵感なのかもしれない。夢でさえ見られないような幸せな光景だった。

しかし私が彼らの本当の美しさに気がつくのはまだ先のこと。彼らのことを理解するにはまだ遠い。

私は与えられたばかりの砂糖に縋りついていたんだ。その先に、もっと甘いお菓子が存在することを知らぬまま。

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