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♢蘭晶♢
中庭でお茶をするのは随分久々かしら。もっと雑草とかが汚いと思っていたけど、完全な無法地帯というわけでもなかった。私たちの話を聞いて、誰かが掃除しておいたのかもしれない。そんな訳で白い猫足のテーブルに、お気に入りの薔薇が描かれたティーカップを乗せて談笑中。本当に笑っているのは何人かしらね。
「琥珀ちゃんも、意外と隅に置けないわね」
チョコチップクッキーに手を伸ばすと、隣にいた紅玉が柔らかく微笑んだ。
「蘭晶の選ぶ紅茶にはハズレがないね。それにしても彼らの間には何があったのかな」
ありがとうと返して、もう一口お茶を飲んだ。
「あんな顔ができるなんて知らなかったわ。もしかして今頃も……先生といるかも」
「……灰蓮と瑠璃は楽しそうだね」
柘榴の言葉でそちらに目を移す。目線の先ではお茶会に参加せず、二人で遊ぶ兄弟がいた。柔らかいボールを使っての遊びだ。瑠璃ちゃんがどんな投げ方をしても上手い上手いと褒めちぎる。あれでいいのかしらと思うけれど、微笑ましい光景なのは間違いない。
「瑠璃は上手いなー! ほら、もっと思いきり投げてもいいぞー」
「……うん」
ひょろひょろのボールを受け取って、当たっても痛くはないだろうに物凄く慎重にボールを返す。コロコロと転がったボールを小さい手が掴み、また力のないそれを灰蓮が受け取る。今、瑠璃ちゃんが怪我なんかしたら彼の方が倒れちゃうんじゃないかと思うほどの過保護ぶりだ。そういうところがちょっと歪んでるのよね、灰蓮は。
「蛇紋、君はいいのかい」
「あ、ああ! 問題ない。このまま任せてほしい」
蛇紋は誰も頼んでいないのに、私たちを警備するかのようにこちらに背を向けて立っている。紅玉はやれやれという目でこっちを見たけど、彼がそれに気づくことはない。話しかけられた、気にかけてもらえたことに喜びを感じて、このまま意気揚々と突っ立っているだろう。危険なものは別にないのに。
「み、翠もいない、ね……いつものこと、だけど」
そんな話題を変えるように、月長ちゃんが猫舌に気をつけながらカップに口をつける。だがまだ熱かったようで、ほんのちょっぴりしか飲まなかった。可哀想だからアイスティーにしてあげようかしら。
「案外翠ちゃん辺りも、アプローチしてたらどうしよう。先生だって誘ったのに来なかったわ。ま、翠ちゃんに限ってそんなこと……また本でも読んでるに違いないわよ」
「ただあの琥珀の変わり様を見るに、意外な人物の方が早く沼にハマっていくのかもしれないよ。今まで知らなかった分ね」
「それはあるかも、ふふ」
珍しく柘榴が紅玉の言葉に反応した。思わず二人を見てしまったけど、表情はいつも通り。それが逆に怖い。
「あら、ちょっと待って。あのクラスの先生がいなくなったってことは……もしかして先生あたし達だけの担任じゃなくなっちゃうんじゃ」
「うん、授業はしに行くかもね。まぁ彼らも赤子じゃないんだし、前の僕らのように自分たちで過ごすさ。それに先生は僕達と住んでる。平気だろう。まぁもし何か起こってしまったら……」
月長ちゃんが不安そうな顔をしてカップを置いた。紅玉の言わんとすることはもう分かる。小さく頷いた。
「その前に、そろそろ試してみようか。ボロが出るなら頃合いじゃないかな」
一瞬で紅茶が冷めたのか、冷めたことに気がつかなかったのか。舌の上を流れた液体は冷たく味を失った。
「……私は、信じたいと思うけど。でも一番大切なのは皆ですものね」
恐る恐る紅玉の方に顔を向けると、変わらない笑みを向けてくれていた。でも彼が本当は何を考えているのか、それは私なんかには分からない。
「じゃあ早速……今日は僕が行ってみようかな。何人かはもう入ったみたいだけど」
今度ははっきりと背筋が寒くなった。気づかれていたのか。いや別に隠すつもりなんてなくて、紅玉の邪魔をするつもりも微塵もなかったし。なんとか言い訳をしようとしても、それは口から出て行かなかった。どうすればいいのか、考えるほど何も浮かばない。口の中が乾いて、無意味にまばたきを繰り返す。ああ、どうしよう。もしかしていつの間にか紅玉を怒らせてしまっていた? 次に切られるのは私?
「……っ、どうしたの」
「えっ」
不意に触れた暖かい体温。指先に傷だらけの手が乗っていた。また包帯が増えただろうか、ぐちゃぐちゃだから後で巻き直してあげないと。
「だい、じょうぶ?」
「あ、ああ。うん。大丈夫よ、ありがとう。ところでそれ……熱くないかしら。今度はアイスの方がいいかもしれないわね。これから暑くなりそうだし」
「……? うん。でも、みんなはあったかい方が好きなんじゃ」
「そんなことないわよ。アイスだってきちんと淹れればとっても美味しくなるわ」
「そうだね、たまにはいつもと違うのもいいかもしれない」
空気が戻った。それまで息を止めてしまっていたことに気づいて、バレないように深呼吸をした。彼のおかげで助かった。気をつけないと……お茶会が終わらないように。でないとこの子が悲しむから。
♢翠♢
ただでさえ息が詰まるのに、よく彼らはずっとぴったりくっついていられる。別に嫌いじゃないけど……まぁそうか、僕はみんなと違うもんな。かといって蛇紋のように媚びることもしなければ、黒曜のように完全に避けることもできない。琥珀ほど変人にもなれないし。平凡なただの人間、本来なら僕だってクラスが違っただろう。ただ紅玉の家系に近かっただけ。それも僕は仲間はずれだけど。厄介払い、いらない子。でも世間に出て問題になっても面倒だから、仕方なく引き取ってあげた。そんな風に言われたのをなんとなく覚えている。
僕は紅玉やその家の人たちにとって、凄く邪魔な存在なんだ。紅玉のお父さんと、彼のお母さんではない別の人との間にできた子供だから。僕は本当のお母さんには会ったことがない。もうこの世にはいないから、これから会えることもない。一応紅玉の弟という位置になっているらしいが、全くそんな扱いは受けていないし、僕もなるつもりはない。そんな恐ろしいこと、嫌に決まっている。面倒なら捨ててくれれば良かったのに。一人でいた方があの家にいるよりずっとマシだ。蛇紋からも理不尽に恨まれるし、誰からも優しい目を向けられなかった。まぁ紅玉は、親は関係ないからと始めは優しく受け入れてくれていたけど。あの笑顔は仮面なんだ。紅玉は嘘も本当にできてしまう。未だにどう話しかければいいのか分からない。
横になって本を読んでいたら扉が叩かれた。何回か無視したけど、結構しつこかったのでため息を吐いて立ち上がる。
「……何、ですか」
そこにいたのは先生だった。少し気が抜ける。
「ああ、ごめんね休んでいたかな。他の扉も叩いてみたんだけど、翠以外誰もいないみたいだったから」
先生という立場はもっと偉そうでも良いのではないか。僕の頭の中で先生といえば、威張り倒しているイメージがある。だからこの弱々しい彼を見ていると、よく分からなくなってしまった。どうしてこんな僕にまで気を使っているんだろうこの人は。
申し訳なさそうに眉を下げながら、また謝った。
「えっと、この間使い方を教えてもらったんだけど……今やってみたら、なんだか上手くいかなくて。押すボタンを間違えたかな。良かったらまた教えてくれると嬉しいんだけど」
何だそんなことか。たまたま僕が残っていなかったら、後で他の人に聞きにいっていたのだろう。そんな、誰でも替えが利く事。
「……いいですよ」
ぶっきらぼうに答えて部屋を出る。確かにここの家電類はちょっと特殊かもしれない。古い機種で、聞いたこともない会社のものだし。僕も正しい使い方は未だによく知らない。
二人で歩いて隣の寮に向かう。今の時間なら誰もいないだろう。いても僕には話しかけてこないし、もちろんこっちも気にしない。部屋に着いて現状を確認する。その時手元を思っていたよりも近い位置で見られていたので、少し身を引いた。
「これは関係ないので、というか何の為についているか僕も知りません。これとここだけ覚えていれば大丈夫です」
「そうなんだね。反応しないから焦ったよ。壊しちゃったのかなって……よし、これで終わらせられるね。ありがとう、助かったよ」
「……そんな、大したことじゃありません」
真っ直ぐな感情。感謝の言葉。僕に? 違う。ここにいたのが誰でも、先生は変わらない。特別じゃない。僕だけじゃない。
「翠が残っていてくれて良かった。きちんと教えてくれそうだったからね。わざわざここまで来てくれてありがとう。何かお礼がしたいな」
「いいです、そんな」
「大したものはあげられないけど……そうだ。例えばいつも食べているお菓子なんかも、一工夫すれば違った印象になるかな。私の部屋だったらチョコレートを温めたり、マシュマロを炙ったりできる。……どうかな、何か試したいものはある?」
これが別の人間に言われた言葉だったら、話を聞く前に断っていたかもしれない。威圧されているわけでもないのに、なぜか僕はこの人から目を逸らせなかった。紅玉達がどう思うか、そんなことも頭に浮かばなくて。
「これじゃあ私の方が楽しみにしてしまっているみたいだね。気が向いたら、いつでもいいからおいで」
はいと小さく声が出た。僕の意思に反して。それに気がついてから、どくどくと心臓が鳴り出す。誰に許可を得て? 誰に報告すべき? いや、行ってはならないのか、行くべきではないのか。えっと、えっと……。
気がついたら部屋の前にいた。ありがとうと言う声と、その表情が頭からこびりついて離れない。知らない感情が生まれそうで恐ろしかった。紅玉達の知らない事。あの人と二人だけの時間。それは数分だったのに、凄く長いことのように思えた。
頭の中でマシュマロを炙るところを想像してみる。じわじわとほんのり、白いところが茶色に染まっていく。暖かい火を求めて近づけた。溶けてドロドロになる前にやり過ぎたと手を引くも、もう遅かった。一瞬のうちに黒焦げになり、柔らかい部分は消えた。これは食べられない。あんなに柔らかで甘くてふわふわの物が、こんな風になってしまうのなら、初めからガチガチの僕の心を炙ったらどうなるのだろう。少しは溶けるだろうか。でもきっと……油断したところで真っ黒な灰になる。後は捨てるしかない。拾ってくれるだろうか……あの人なら。そんな期待をしてみても辛いだけなのに、どこかでまだ火を求めていた。じっくりと表面が溶けていく。何時間、何日、何年かかるかは分からない。それまで火が残っているかも分からない。もっとシンプルに寒いから温めてと言えばいい。だけどそれができない。僕にそんな資格はない。暖炉の一番近くじゃなくても、部屋の中ならまだ暖かい。だから……。
本を読む気にならなくて、シーツを頭から被る。今の自分は誰にも見られたくなかった。僕はうまく繕える人間じゃないから。
……少し。少しだけお腹が空いたかもしれない。ちょうどお菓子ひとつぐらいで、満たされる気がするんだ。
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