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一番上の階まで登り、廊下を曲がると、一瞬壁から足が生えているのかと錯覚した。何だろうと更に近づくと、誰かが半分窓から身を乗り出し、危ういバランスで揺れているのだと気づいた。慌てて腕を掴み、こちら側に引き寄せる。私の慌てぶりと比べ、柘榴の顔は穏やかだった。
「……どうして」
息を整えて、やっと出た声は掠れていた。思っていた以上に、突然の事態に動転していたようだ。そんな私の顔を見て、ふふと柔らかくいつものように微笑んだ。
「こっちこそびっくりしちゃった。いきなり先生が現れるし、空を見ていたら天井になっていたし……今もまだ、閉じ込められてる」
言われて気がついた。倒れ込んだ柘榴の体を、そのまま抱きかかえるように力を込めていた。必死になっていたので痛かったかもしれない。謝って外そうとすると、白い腕が胸元に伸びた。
「……っ」
微かな吐息が耳に届く。何かに興味を持ったのか、くりくりとした目でネクタイの辺りを見つめている。
「何か、あった?」
「んー……先生って、煙草吸わないんだね」
「ああ、そうだけど……」
職員室ではあの人がヘビースモーカーだったが、それ以外でも何人か吸っていた。ずっと行動を共にしていれば移ったかもしれないが、会う頻度は少ない。それが珍しかったのか、くんくんと更に鼻を近づけた。
「……えっと」
力づくで離そうとするのもなんだか気が引けたので、そのままにしておいた。彼にもこのような、周りが見えないほど何かに熱中するような姿があると知れたのは、新しい発見かもしれない。
「お酒も、飲まないの? 部屋に運んでいなかったから」
「うん……そうだね」
「じゃあ何が趣味なの? ギャンブルって感じもしないし、女の人が好きなら、こんなところ来ないでしょ」
趣味と聞かれてパッと頭に浮かぶものはなかった。確かに彼らの周りの大人、一般的な人間はそういうものを好んでいるだろう。やはり自分はどこか外れているのか、つまらない人間に当たるのだろう。
「読書、とか」
使われてなさそうだったので、ここの図書室から何冊か自室に持っていった本もある。そこまで熱心なつもりはなかったが、一度読んだ本をもう一度読み直すことは、それなりの読書家でないとしないのかもしれない。
「ああ、確かに……先生らしい、かも。私はあんまり好きじゃないけど。だって……何だかどれを読んでも同じ話っていうか。だいたい悩みとかそういうのって決まってるでしょう?」
「まぁそう言われちゃうと……」
ハハと乾いた笑いを返してみたが、こちらを向く純粋な瞳は笑っていなかった。バツが悪い子供のように目を逸らし、話題を切り替える。
「……で、どうしてあんなことをしていたの?」
ゆらゆらと窓枠に腕を預けて、それ以外はほとんど外に出ていた。一歩間違えれば当然落ちてしまう。この高さなら死なないかもしれないが、危険なことに変わりはない。
「心配した?」
「当たり前だよ。本当に心臓が止まるかと思った。まさか……落ちるつもりだった?」
「んー……ふふっ、たまにしたくなるの。生きてるのと、死んでるのとその間をゆらゆら、どっちがいいんだろって……でも先生が言うならやめようかな」
「本当に、やめてくれる?」
肩を掴んできちんと顔を向き合わせた。人形のように光を無くしていた瞳に、動きが戻る。
「……うん、やめる。でも先生にこうして心配してもらえるのは悪くなかったかな。だから……」
今度は何も無くてもこうしてくれる? 耳元に囁かれた言葉は無垢な子供に見える。その一方で、男を手玉に取る蠱惑的な女性のようでもあった。これからもきっと惑わされる続けるのだろう。どこか安堵にも似たため息と共に、彼に頷きを返した。
数日経って段々と慣れてきた。まだまだ問題は山積みだが、今のところは安定をしている。そう思っていたのに、最近琥珀の様子がおかしい気がする。目を合わせてくれない、というよりは避けられてしまう。表情は良く見えないが、今まで通りでないことは分かった。二人きりで話せないかと声をかけても、美術室に行くからと断られてしまう。
琥珀は一人で帰ってきて、夕食も温め直したものを部屋に運んでいる。作品作りに没頭しているのか、上手くいかなくて詰まっているのか。私が気にかけることは、彼にとって邪魔になってしまうのかもしれない。彼の製作スタイルがどんなものか知らないが、このまま放っておくことはできなかった。
次の日、足音を殺して琥珀の後をつけた。確かに美術室にずっと篭っているようだ。しばらくそのまま待っていると、意外な人物が入って来た。いや意外ではないか、彼は美術教師なのだから。他のクラスの生徒を教えることもあるのか、琥珀が特別なのか。私は聞こえてきた驚くべき会話に、急いでそこを飛び出した。
懐中電灯を持って夜の校内を歩く。
「見回りがしたいって、先生も働き者さんだねぇ。不審者どころか虫一匹ですら入るのは難しいのに。ま、俺の場合は異常がないかの点検だけどね。変な薬品の蓋が開いてたりしねーかなとか。寮に帰ってない奴がいるんじゃないかとか」
私は確実に仕留められる方法を選んだ。大人二人の方が良いだろう。それからもう一つの理由。
「……何か聞こえませんか」
わざとらしかったかなと横を見たけれど、彼が怪しむ様子はなかった。
「ん? 確かに……上だな」
がたがたと何かが動く音。暴れる動物を押さえているような。教室の前まで走って、耳をすます。目で合図して、一気に戸を開けた。
そこには床に這いつくばる大きなもの。明かりをつけると、その下に琥珀がいるのが分かった。隣で驚いた声を上げた後、すぐに部屋の中へ飛び出した。私もそれに続く。首元を掴まれた人物は、これは違うんだと何度も叫ぶ。
「黙れっ……!」
隣で骨が歪むほどの大きな音がする。やはり彼を連れてきて良かった。その間に服が破れた琥珀を抱き寄せる。
「ごめんね。もっと早く気づいてあげられたら良かった」
私の腕の中に収まった彼は微かに震えていた。ぎゅっと服を掴んでいる。頭を撫でて眼鏡を探したが、それは床で割れていた。
華麗なる手捌きで深緑の制服のクラス、その担任はロープで縛り上げられていた。彼は相当怒っているらしく、校長を呼んでくるからと私に言った後、血で染まった腹にもう一発蹴りを入れた。
私は廊下に出て窓の下に座る。琥珀を抱きしめて、頭を撫でていた。詳しいことは後で聞けばいい。今はただ、震えを止めてあげたい。
これからは穏やかな日々が続くと思ったのに、こんなことが起こるなんて……。校長に聞いた話が過ぎる。さすがに死人まではこれ以上出ないだろうが、ここはそこまで安全でないのかもしれない。
「大丈夫……もうあの人には会わせない……怖かったね」
段々と落ち着いてきたのか、ゆっくりと顔を上げた。涙を拭こうと髪を避けると、想像していたより遥かに美しい顔が現れた。彼は大きな眼鏡と髪型で顔を隠していたのだろうか。単に自分自身の見た目に関心がなかっただけかもしれないが。勿体無いと感じる一方で、このまま誰にも知られずに閉じ込めておきたいとも思った。
「眼鏡は新しいの貰えるかな」
「……あれは、うそのやつ」
「嘘?」
小さな首がこくと頷いた。あれは親に付けるように言われた伊達眼鏡らしい。
「前が見え辛くない? ……きっと似合う、短い髪も」
頰に触れると再び目を閉じた。私は成功したのだろうか、琥珀の信頼を得ることに。決定的な瞬間まで待って、絶対に逃げられない状況にしてから彼を追い出す。まぁ自業自得か。偶然かは分からないが、琥珀が美しいことに気づいた。美術室という自分が管理できる場所に閉じ込めて、彼に無理やり迫ったのだろう。
この後は校長と彼がなんとかしてくれそうだったので、一足先に寮へと戻った。暖かいミルクを注ぎ、未だに不安そうな、可哀想な琥珀へと渡す。ベッドに座り肩を抱いた。
「砂糖を入れる? それとも蜂蜜?」
既に蜂蜜を入れて甘くしてあるのだが、もう一杯追加した。素直に飲んでいる彼の髪に触れる。琥珀からも切ってほしいとお願いされた。本格的な鋏はなかったが、丁寧にやれば大丈夫だろうと少しずつ刃を入れていく。彼の毛は犬のようだった。くるくるとしてふわふわの。
「……似合っているよ」
前髪は目の上で、短いのに慣れないのか何度も指で弄っていた。少し切りすぎたかと聞いてみると、目の前に髪がないのは新鮮だと笑った。この方が過ごしやすくて良いらしい。それはそうだと私も笑みを返す。お腹も暖かくなったことで安心したのか、二人で横になった。明かりを一つだけにして、手を繋ぐ。琥珀はぽつりぽつりと話し始めた。
「僕の材料を用意してくれるのはあの人しかいなくて……前から何回も美術室に来ないかって誘われてた。僕はみんなといたかったから、いつもはみんなのとこで作ってたんだ。でも……材料をお願いするときは、先生のところに行かなきゃいけなかった」
前からやけに体に触れることはあったらしい。やめてとはっきり言う前にそれを上手くかわして。他の先生とも仲良くはなかったから、相談に行くこともしなかった。
「皆は力になってくれたんじゃないか」
「……みんなにはみんなのことがあるの。それに、あの人は僕たちの先生じゃないから。あんな人でも……いなくなったらあのクラスの子達は困るから。ダメなんだ」
「琥珀……」
変わり者でも、孤高の芸術家でもない。みんなの為を考えられる優しい子だ。美しい……外見も、中身も。もう彼を傷つける存在はいないだろう。この顔が悲しみに歪むのは、今日で終わりだ。
「もっと変になったのは……最近なんだ。上にある荷物を取ってほしいって抱き上げられたり、後ろから一緒に筆を握ってきたり……。あの人体が大きいから苦しいんだ。モデルになってほしいって頼まれたけど断ったら……じゃあ写真を撮らせてくれって……上のシャツを脱いで撮影した。さっきも、やっぱりモデルになってくれって……言って」
「分かった。話してくれてありがとう。もういいよ忘れて……あれは悪い夢だった。これからはみんなと楽しい思い出だけ作っていこう。君を……琥珀を傷つけるものはもう無いよ。もし生まれてしまったら……私が壊してあげる」
髪を切って別人のように見た目は変わったが、嬉しそうにしている時の仕草は変わっていなかった。照れが混じっているのか、一度そっぽを向いた後に口元を緩ませる。
「もう大丈夫だ。大丈夫……」
そう繰り返して暖かな眠りにつく。これで彼の心を手に入れることは出来ただろうか。この調子で次も……一人ずつ私から離れられないように。みんなで暖かで幸せな世界を築くんだ。
朝になり皆の前に出ると、驚きの声が上がった。
「あらぁ本当に琥珀ちゃんなの?」
「別人、みたいだね」
彼らでも琥珀の顔をはっきり見たのは初めてらしい。興味深そうに覗き込まれるのをいつもの癖か、恥じらいつつ満更でもない笑みを浮かべる。それから私にアイコンタクトを送ってくれた。その視線に何人かは訝しむような目を向けていたが、その合図の理由を話すのはやめておいた。二人だけの秘密、という甘美な響きが心地良くなってしまったからだ。だがあの人が辞めた理由などは伝えなくてはならない。後で校長や彼にも詳しい事情を聞いておこう。
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