満足気に今日の一杯をのんびり味わう。立ち上がって窓を開けたら想像より外気が冷えていたので、すぐに閉めた。調味料やお菓子の類いが増えたキッチンで、もう一杯飲もうか迷っていると、扉が二回叩かれた。開けると同時に蘭晶が顔を出す。

「先生、こんばんわぁ」

首を傾げて上目遣いをしながら、勝手に室内に入ってくる。そろそろ就寝時間だと言おうとすると、まぁまぁと手を振った。他の子は普通の寝巻きなのだろうが、彼は薄ピンク色のネグリジェに似たものを纏っていた。

「ふふ、おやすみなさいって言いたくてね。でもまだ眠くないからお話聞いてくれないかしら?」

手元のマグカップを指差してホットミルクを催促しながら、机の上の蝋燭を見つめた。その瞳に影がかかる。いつもの表情とはどこか違っていた。こちらが見ていることに気がつくと、どこか企むような笑みを浮かべた。

「あたしの昔話してあげるわ」


昔ママと観に行ったミュージカル。話はあまり分からなかったけれど、とにかくキラキラの世界だったことはよく覚えてるわ。それはステージや衣装、お化粧も含めてだけど……それを纏うダンサー自身がとっても輝いていた。その舞台で踊りも歌もお芝居も、凄く素敵だった主演女優に心奪われたの。

すぐに影響を受けて、家に帰ったらママの化粧箱をひっくり返していたわ。あたしは別に体を変えてまで他の人になりたいわけじゃないの。この喋り方が美しいから、この布が綺麗だから、逞しい男性が素敵だから、好きなだけ。女性に近づきたいけど完全になりたいって訳ではないの。そんな訳で綺麗なもの、美しいものが好きになった私をママは喜んでくれたわ。パパは微妙な顔をしていたけどね。今でも女性の中ならママが一番の仲良しよ。

最初は逞しい男性が好きだったけど、紅玉とか身近にいた男の子たちはそういうタイプじゃなかったでしょ? 絵本の中の王子様も細いのよね。そこで男の子でも可愛くて綺麗な方がいいんじゃないかって気づいて……あ、女の子を好きになることはなかったわ。あくまでお友達……あら? あたしって思ってた以上に女に近くなってたのかもしれないわ。ふふふ、別にどこに行ったって、あたしはあたしだけどね。そんな私が失恋した話よ。可憐な乙女に悲恋はつきものじゃない。

あれは……そろそろ夏が終わりそうな頃だったわ。でもまだ半袖よ。偶然、普段は行かないような教室に呼び出されたのよねぇ。用件は覚えてないけど、くだらないことだったと思うわ。その帰りに近道だった裏の細い場所を通って行こうとしたの。そしたら凄い声が聞こえて。近づいてみたらわいわい騒いでる中で、くぐもった声が混じってるのに気づいたわ。こっそり様子を伺ったら五人ぐらいで一人の子を足蹴にしてたのよね。うちの学校ってほら、お坊ちゃんばっかりだからそういう野蛮なことって滅多にないのよ。びっくりしちゃってそのまま出ていったら、相手があたし以上に驚いててね。あたしが有名人だったから……紅玉達と普段一緒にいたからよ。

一瞬止まってたけどすぐ会議を始めてね。あたしは何も言ってないのに睨んできたわ。ちょっとムッとしたから「顔覚えたから、一人ずつ報告させてもらう」って言ったのよ。そうしたらそのまま散っていっちゃってね。

一息ついたところで思い出したの、道に寝転がってた子を。布が噛まされていて、外してあげたら涙声でお礼を言われちゃったの。あたしは別に何もしてないのに。なんかその時にね、思っちゃったのよ。この子が人に、そうね。下に見られやすい子なんだって。まぁその日はそこで別れたんだけど、次の日たまたまよ。その道の近くに図書室があったんだけどね、行ってみようかしらなんてふと思ったの。その日は紅玉達と集まる予定もなかったしね。

図書室は広いのに生徒が一人もいなかったの。穴場だわなんて考えてたらぽつんと、長い机の端の方にいたのよね、あの子が。昨日はよく見なかったし汚れていたけど、一日経ったらこんな子だったかしらって。気弱そうな雰囲気は残ってるんだけど、何かがあたしのレーダーに引っかかったの。最初は自己紹介から初めて、昨日のことも聞いてみたわ。やっぱり明確な理由なんかない悪意だったんだわって怒ろうとしたら、ちょっとヘラヘラとしてるのよ。悔しくないのかって聞いたら、僕で良かったって。他の人がそうされるのを見ている方が辛いって。……あたしハッとして何も言えなくなっちゃったわ。そんなこと言える人、いなかったの。良くも悪くも純粋過ぎたんだわあの子は……。

まぁここからの展開として、分かるわよね? あたしも守ってあげなきゃって気になって、通い詰めたの。クラスも学年も違かったから。放課後はいつも一緒にいたの。前ほど彼らに目をつけられることはなくなったんじゃないかしら。でもね、そうこれは失恋なのよ。仲良くなって物語が進むと思うじゃない? あたしも自分でびっくりするぐらい途中から入れ込んでたわ。初めの方はちょっと無理してたこの口調を抑えることも、自然になっていたぐらい。

……そう、あたしも楽しかったの。彼と過ごすのは。その代わり紅玉達といる時間が減っちゃったけど。それまでお茶会には必ず参加してたからどうにかして通ってたけど、彼と会うのを優先した日も増えていった。それがいけなかったのかしら。

ある日突然ね、図書室に行ったら彼は何故か部屋の真ん中で立ってたの。どうしたのって聞く前に、手をぎゅっと握りながら……最初に会った時みたいに涙を堪えながら叫んだのよ。近寄るな、だったかしら。正直あの時のことはあまり覚えてないのよね。でも表情だけはよく覚えてる。温厚な彼にあんな顔をもうさせないって誓ったのに、傷つけてしまった。僕は男なんか好きじゃないって、優しくするフリをしてそういう目で見ていたんだろうって。そんなこと言われたかしら。あの時はショックだったけど、その後走り去った彼と周りのことを冷静に考えたら、言わされたんじゃないかって思うの。そんなの都合の良い風に捉えすぎかしら?

結局ショックを受けた私は、気がついたら紅玉の腕の中にいたわ。凄く優しく慰めてくれた。やっぱり彼を裏切ることはできないなって改めて思ったわ。でもね私は紅玉が好きだけど、確かにカッコ良いとも思うけど、恋愛対象としては見たことがないのよね。お兄ちゃんみたいな、うーん。親友? は違うわよね。好きなのは確かなんだけど、未だにしっくりくる表現が見つからないわ。この事、紅玉には内緒よ?


片目を閉じて唇に指を立てた姿は、まるで女優のように決まっていた。飲み終えたマグカップをご馳走様と机に置いて、流れるような動作でこちらに近づく。

「この話はもう封印することにしたわ。良い女は過去を振り返らないんでしょ? 新しい恋で塗り替えた方が素敵だわ。ねぇ」

貴方にだから、話したのよ。吐息交じりに囁かれた言葉に、鼓動が加速し始めた。彼と言うより彼女といった方が正しいのだろうかなどと考えていると、腕が首に絡められる。

「その意味ぐらい分かるでしょう?」

胸に下りてきそうな手がふっと止まった。次には顔に触れていて、気づかぬうちに頬に小さなリップ音が響いた。驚きで目を見張る私をクスクス笑うと、おやすみのキスよと自分の唇に触れた。

「おやすみなさい先生。あんまり夜更かし、しちゃダメよ」

机の上の書類を見て言ったのだろう。ドアノブを捻って振り返った。

「じゃあこれから、よろしくね」

潜められた声は今までよりも低いトーンで、彼の姿が少しだけ透過して見えたが、すぐさまどれが本物なのか迷いが深くなる。

女優か、と呟いて扉を見つめた。これは確かに苦労しそうだ。



♢蘭晶♢

ふふ、あの時の顔ったら……。自然と笑みが零れる。

目を開いて薄っすら頰を染めながら何か言おうと口を動かすけど、結局言葉は出てこず。先生はきっと自分が思っているよりも、表情豊かな人よ。皆もすぐに気がつくわ。一番大切な顔は自分だけに見せてほしいけど……あんまり早くったって退屈しちゃう。純粋なそれをどう染めていこうかしら、じっくりとね。時間は有り余っているんだから。

満足して部屋に戻ると、横になっていたはずの柘榴が起きていたのでびっくりした。部屋の明かりも点いて、ベッドに座っている。振り向いたその顔は、何を考えているか分からない。

「起きてたの? もしかして起こしちゃったかしら……ごめんなさい」

言葉には反応をせず、じっとこちらを見ている。相変わらず美しいのに覇気がないその顔は人形のようで、柘榴の瞳はちょっぴり苦手。まるで呪いをかけられたみたいに動けなくなる。

「……先生のところ?」

張っている訳でもないのに聞こえる澄んだ声は、謝ったことなどどうでもいいようだった。

「うん……そうだけど」

「どこが好きなの」

それはどうして空は青いの、みたいなトーンでかけられた疑問だった。じっと見つめる目が無垢な子供のようで、何か答えなければいけない義務に駆られる。

「ええと……ほら、前の先生は本当に良くない人だったでしょう。とりあえず普通そうなだけで安心できるし、話してみるといい人よ。先生は自分を取り繕うのも上手くないから、嘘もついてないと思うわ……信じて、平気だと思う」

「……そう」

「一生懸命でしょ。手間だって分かってるのにそれをできる人間ってなかなかいないと思うわ。あっちだってあたし達のことは何も知らないのに応えてくれようとしている。先生がどんな人であろうと、先生がしてくれたことは忘れない……わ、あたし」

あまりにも柘榴が動かないままだったので、自信がなくなって語尾が弱まる。少し前までは楽しい気分だったのに、それはあっという間に萎んでしまった。一人で空回りしているみたい。

「そろそろ明かりを消しましょう。もう眠いでしょ」

返事はなかった。逃げるように明かりを消して、ベッドに潜り込む。早くなった鼓動を押さえて、夢の中へ入れるようにシーツを握りしめた。

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