外に出ると、辺りは真っ暗になっていた。先頭は紅玉任せることにして、私はそれについていく。

息を吐くと、やはりここは森の中なのだと実感した。高い位置で我々を照らす月。音はほとんどしない、静寂に近い空間。たまに甲高い鳥の声が響くだけだ。

紅玉は慣れた様子でこちらの寮よりも大きな扉を開ける。玄関の灯りは点いていたが、薄暗かった。右側の扉から光が漏れている。そこからざわざわと数人の話し声が聞こえた。

中は結構広く、三クラス分の生徒の倍は入れそうだ。端から端まで届きそうな長い机が二つ並べられている。入り口から見て左側の机、その一番奥に白い制服の生徒が固まっていた。それと離れるようにして、手前側に座っていた深緑の制服の彼らと目が合う。会釈でも返そうと思ったがやはり仲が悪いのか、紅玉達の方を見ると途端に目を逸らした。そんなのも互いに慣れっこという態度で、こちらは右側の真ん中辺りへと腰を下ろした。三クラス見事に別れている。これでは仲直りさせるなんていう生ぬるいことは出来そうにない。ただ私というイレギュラーな存在は気になるのか、時折視線を感じた。本来なら彼ら全員集めて一つのクラスでもいいぐらいの人数だ。紅玉達とは関係なく彼らと仲良くすることもできそうだが、それでは解決しないだろう。

食事は彼が用意してくれたものを、ビュッフェのように自分で取っていくスタイルだった。瑠璃の分まで取ってあげる灰蓮や、月長が零したものを拭いてあげる蘭晶など、微笑ましい光景も見られた。が、やはり互いに見えていないような態度を取る彼らに囲まれているのは、どこか落ち着かなかった。

そろそろいい時間だろうか。彼らの声も聞こえなくなった。若干湿っ気が残っているシャワールームに、何着か用意されていた寝巻きを運ぶ。大人が数名でも充分に過ごせるだけの生活用品は揃っていた。さっと済ませて部屋に戻る。インスタントのコーヒーやココアなんかもあったので運んでおいた。早速お湯を沸かして、キッチンの観察をする。冷蔵庫の中に何か貰っておいてもいいかもしれない。彼に頼んでみようか。二階の物置部屋にはお菓子の類も充実していたので、彼らが空腹に困ることもなさそうだ。その分いくらでも食べることができてしまうが。

コーヒーを持って椅子に腰を下ろすと、自然にため息が出ていた。昨日もきちんと帰ればよかったのだが、今日のことを思うとあれで正解だったのだろう。今までのことを思えばあれぐらいの苦労は軽いものだった。でもそれを当たり前のことにしてはいけない。しかしそれを考える前に飲み込まれていた、何かに。

まだ熱い液体を流し込んでから窓の外を見上げる。世界から切り離された場所。あれほどあの場所から消えることが怖かったのに、いざ落ちて見た世界の外側は、思ったよりも心地良かった。彼らのことはまだ分からないが、こんなところに来るだけの理由はあったのかもしれない。

あの頃は薬を飲んだり、体の限界まで起きていたりと、何とか必要最低限の睡眠をとる生活をしていた。出来れば眠りたくなかった。眠ってそのまま意識を完全に落としてくれればいいのに、私の頭は嫌な幻想を作り出す。今日は不思議と眠るのが恐ろしくなかった。また悪夢が襲って来ても、目を開ければいいだけだ。大丈夫、あの場所は今此処には存在しない。明日も平穏が続くように、何かに祈ってみることにした。

悪夢ではなかったが夢を見た。どこの地下を歩いているのだろうか、ただただ真っ直ぐで先は見えない。歩みを止めず、壁の蝋燭だけを頼りにして進んでいた。戻っていたのかもしれないが。まぁそんな夢だったが、目覚めは悪くなかった。穏やかな朝だ。スーツに着替えてまた彼らと朝食に向かう。数名はまだパジャマのままだった。

彼らと別れて早めに職員室に向かうと、他のクラスの先生達がいた。こうしてきちんと対面するのは初めてだ。二人の視線は歓迎されているとは思えないが、それでも無視はできない。会釈をすると、あちらが淡々と喋りだした。白の担任は私より背が高く、舌打ちを癖でするような男だった。四角いフレームの眼鏡から覗く視線が鋭くて、目を背けたくなる。

一応全ての教科をやってはいるが、理系らしい。ぶつぶつと答えるとそれきり喋ることはなかった。同じような視線を向けてきたもう一人の男は、深緑の担任だ。校長の愛嬌のある顔とは真逆で、機嫌が悪いのを隠そうともしない。美術をやっているようだ。

私も軽く自己紹介をすると、素っ気なく二人でどこかへ行ってしまった。ここでは話さないが、二人の間では会話も結構あるらしい。浮いてしまったが、別に気にすることでもないだろう。私にはあの子達がいてくれればそれでいいからだ。校長もあまり彼らを好きではなさそうだったので、そちら側にそれとなくついていた方が、立ち回りは上手くいくように感じた。


教室に入ると窓の方で皆が固まっていた。どうやら琥珀を囲っているらしい。

「先生。琥珀は結構才能があるんですよ」

手渡されたのは、それほど大きくないキャンバスだ。くすんだ色の中に突然原色が混じる色使いで、何が描かれているのかはさっぱりなものだった。シュール、といえばいいのだろうか。芸術には詳しくないが。

「これは……えっと、何を描いたの?」

クスクスと数名が笑った。話題の中心にいる琥珀はいつも通り何かを捏ねながらも、少しこちらを気にしているように見える。

「……魚」

初めて彼の声を聞いたかもしれない。もじゃもじゃの髪の毛の中から篭った声が聞こえた。魚と反復してからまた絵を見る。ぐにゃぐにゃと曲がった線、中心は円が何重にも重なっている。背景は深い青で海と言われればそう見えないこともない。だが肝心の魚はどの部分がそうなるのか全く分からなかった。ただ何ともいえない迫力だけは感じる。

「琥珀は造形の方が好きだけど、たまに絵も描くんだよね」

「根っからの芸術家気質なのよ琥珀ちゃんは。あたしの自画像をお願いしたときも……」

その先は言わなくても予想できた。相変わらず粘土を捏ねている琥珀は、あまり変化はないがどことなく嬉しそうに見える。手の中の粘土は柔らかくなっていて、それを何かの形に整えようとはしていなかった。触っていると落ち着くのかもしれない。

琥珀の机は色々と材料が置いてあるので、もう一つ机を持って来た。今日もまた問題集を彼らに解いてもらう。彼らの未来がどうなるのかは分からないが、一応それぞれの同世代が習っている内容を理解できるぐらいに設定している。テストの結果は範囲の差が激しく、毎日勉強する癖もなかったようなので心配していたが、まだ苦にはなっていないらしい。このまま問題集を進めるのもいいが、たまには授業をやってあげたいと思う。せっかく彼らの担任になれたのだから。しかし何を教えるべきなのだろうか。

前向きな悩みが尽きないのは嬉しかった。私自身少し浮かれているようだ。彼らが演技をしていて、突然私を避け始めるなんてことも有り得るかもしれないが、そんな事を考えていても仕方ない。媚びるのではなく対等に、頼れる存在に。愛を持って接すればきっと想いは伝わると、かつての恩師が言っていた。彼と私の違いは何だったのだろうか。荒れた学校でも同じことが言えたのだろうか。ダメだ。あのことはもう忘れるんだ。あれはただの悪夢だったんだ。

考えを消すように立ち上がって教室内を見回る。そういえば柘榴や黒曜もあまり、というか声を聞いていない気がする。寡黙気味の子が多いが、そのうち心を開いてくれるだろうか。

私自身が他人をすぐ受け入れられるタイプではないから時間がかかるかもしれない。一人ずつじっくり向き合えるように対策を練っておこう。

今日も無事に終了した。授業が終わってからも彼らと過ごしていると、家族のような温かみを感じた。誰かとこんな風に過ごすのは久しくて、少しむずむずする。私まで同じような態度ではいけないと、他のクラスの生徒にも挨拶をしてみると、一応素っ気なく返してくれる子がいた。彼らは悪い子ではない。この子達のこともきっと上手くいくだろうと、私にしては珍しく前向きなことばかり浮かぶ。本来はこういう人間だったのか、それともこの場所で変わったのか。

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