16
起きるのが遅かったからか、母親のノックの音で目覚めた。
そういえば今日は始業式だったか。頭がぼうっとする。正直学校なんて行く気分じゃない。サボろうかと額に手を当てる。
ちらりと映った鏡には、腫らした目と赤みがかった頰……熱に見えるかもと体温計を手に取る。もちろん微熱程度だったけど怠さがあることを訴えてみると、意外とすんなり休みにしてもらえた。
春昭や高良さんは行ったのだろうか。そうだったら少し……改めて普通じゃないと思うけど。
相変わらず部屋でゴロゴロしていると、メールが来た。
「聖也くん……?」
そういえば彼の一件もあったんだ。くるりを通じて探したのか、サイトからのメッセージだ。
『今日休みか? もしかして始まる日勘違いしてた? w まぁ、その通り名塚も休みだし。集会だけで終わりそうだな。ところで高良も休みだけど、まさか二人でいるとかねえよな?』
名塚は僕のクラスの担任だ。高良さんも休んだのか。……そういえばあの後どうなったんだろう。騒ぎになってないようだから、僕の席の片付けは一応していったのだろうか。だからってあんまり座りたくないけど。
『そっか先生もまだ夏休みなのかな。あ、僕は少し熱っぽいだけで……高良さんのことは知らないよ。僕とはそんな関係じゃないし……』
つい、書いてしまった最後の文を消そうか迷ったけど、そのまま送ってしまっていた。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。僕は相変わらず甘え癖が抜けていないようだ。
『夏風邪って奴か。気をつけろよー。……でもやけに詳しかったっていうか、一緒にいただろ? そうじゃなかったらあんなこと知らなかっただろうし。あ、なんだっけ。あいつの妹と繋がってるんだっけ。それで仲良くなったのか。でもなんか訳ありっぽいな』
『聖也くん……良かったら明日、今までのこと相談してもいい? もう自分じゃどうしていいか分かんないんだ。少し迷惑かけちゃうかもしれないけど……』
『わかった。そっちには借りもあるしな。とりあえず話聞くから。でも無理はするなよ? 今日は寝とけよ、ちゃんと』
ありがとうと送って画面を閉じる。少しだけ気分が晴れた。
そのまま数時間寝た後、起きると四時になっていた。学校は午前で終わっただろうから、みんなはとっくに帰っているだろう。いやそのまま遊んで商店街とかにいるかもしれない。
起き上がると割と頭はスッキリしていて、試しに体温計を挟むと平熱に戻っていた。風邪ではなく泣いて体温が上がっていただけだろうから、当たり前なんだけど……。
休んでしまったことを反省しつつ、なんとなく外に出たくなって、コンビニに行こうとしていたときだった。遠くの方に見覚えがある二人が歩いていた。見間違えかもしれないと、距離を詰めたところで目を疑った。
どうして二人が一緒に歩いているんだ……?
制服のままの聖也といるのは、黒いワンピースを着た高良祥子に間違いなかった。
「なんで……」
昨日までのお前は別人かと言いたくなる。それから一番驚いたのが、高良さんの横顔がとても普通だったことだ。いつもは表情なんてほとんど変えない彼女の顔が、そこにいる普通の人たち、どこにでもいるような少女の顔になっていた。ただ素直に、ウィンドウショッピングを楽しむカップルにしか見えない。
どういうことだ。ますます意味が分からない。聖也くんの方も、満更でもなさそうに見える。
僕はどうしてもそれが昨日までの高良祥子に見えなくて、どちらが本物なのか、もしくはどちらもニセモノなのか、また頭を悩ますことになってしまった。とりあえず聖也くんに確認するのが一番手っ取り早いだろう。
そのままどこにも寄らずに家に帰った。気晴らしの為に出かけたのに、余計疲れることになってしまった。
今度は聖也くんまで騙すのか。そう考えたら途端に悪い予感が頭を過ぎった。昨日のこともあるし、早く連絡しよう。
急いで携帯を開くと、そのタイミングを見計らっていたかのようにメールが届いた。タイトルが無視できないものだったので本文を開く。
「なんだよこれ……」
『祥子のストーカーが見つかった。なんでか知らないけど原ってやつと歩いてたころを無理やり引っ張って、家に監禁してるらしい! そこに祥子もいる! お願い、今すぐ来て! 助けて……っ』
色々すっ飛んでいて訳が分からないけど、警察沙汰にすらなりそうなことだ。仕方なく走ってアパートまで向かう。
「はぁ……っ」
呼吸を整えながら様子を伺う。ドアの前に行っても、物音はしなかった。インターホンを押す前にドアノブに触れる。
「開いた……」
鍵はかかっていない。気をつけながら中に入ると、血に染まったトイレットペーパーがいくつも転がっていた。ただならぬ雰囲気に戸惑っていると、部屋のドアから雪乃が飛び出してきた。
「碧兄っ! あたし達じゃこいつなんとかできない!お願いっ」
必死に腕を引っ張って、無理やり部屋に押し込めた。
「……っ聖也くん!」
そこは黒で塗り固められた部屋だった。プロにしてはまばらなところもあるので、自分で塗ったのだろう。
部屋の中で一番奇妙なものは、端にある大きな鳥かごだ。中にもトイレットペーパーがたくさん入っている。まるで鳥の抜けた羽を表しているかのようだ。
真ん中には椅子に手足を繋がれた高良祥子がいた。床には倒れている聖也くん。その横で笑っている黒い服を着た男。
「これで最後か」
その男はあの店で聖也くんのお父さんと話していた……雪乃にアピールしていた男だった。
「……どうして、聖也くん! 大丈夫……っ」
駆け寄ると足から血が出ていたけど、平気だからという顔をした。
「祥子……ここでちゃんとお別れして」
男はやけに慣れている様子で彼女を呼んだ。背もたれに預けていた首を起こして、目線を真っ直ぐにした彼女は人形のようだ。
「みんなとは……もう会えない。さようなら」
「……貴方は誰なんですか」
「俺? ……あはは。あ、祥子よく言えたね。良い子だ」
さらりと彼女の髪を撫でてこちらを見た。
「俺は、高良学。祥子の兄でーす」
「兄……?」
その時初めて春昭がいるのに気がついた。二人は端でお互い守り合っているかのように固まっている。
「で、祥子。何の為にこいつと一緒にいたんだ?」
聖也くんの肩のところを踏みつけ、くるくるとナイフを回した。
「二人で一緒に祥子のこと見守ろうって言ったのに……もう会わせないってどういうこと!」
震えながらも、雪乃は男に向かって言い放った。
「……何お前らまだいたの。関係ないから帰れよ」
「なっ……!」
「…………たし……しっと、されたかったの」
「……祥子?」
「お兄ちゃんにほんとに、愛されているか……確かめたかった、の」
聖也を踏みつけるのをやめて、正面から祥子を見つめた。この部屋には二人しかいないかのような空気になっている。
「祥子……馬鹿だな。何度言えば分かるんだ。俺の世界にはお前しかいないって」
「……違う。世界には沢山人がいる。私もお兄ちゃんも一人じゃ生きられないの。食べ物だって洋服だって、ある程度自分たちで作れたって、その素材元々を作れるわけじゃない。でもその人たちは直接関係しないからいいの。……私はこの家から出て、新たな繋がりを持ってしまった。それが突然とても恐ろしく思えた。だから試すようなことをしてしまったの。人の繋がりなんてすぐにできてしまう。その中で淘汰された関係の私達を、もう一度確かめたかった」
淡々とした口調だけど兄には響いたらしく、二人は見つめ合った。
「祥子……分かった。これからは絶対に不安にさせない。ずっとずっとここにいよう。汚い繋がりは俺が受け持つから、祥子は美しいものだけを見ていよう。でも……だから言ったんだよ? 働くなんてやめようって。学校も必要ないって言ったのに」
「……ごめんなさい」
二人がこちらを見ていない間に、今は怪我をしている聖也くんをどうにかするべきだと抱き起こした。
「聖也くん……立てそう?」
「ああ、君ありがとう。彼を連れて行ってくれるかな」
「……っ」
「……悪い。利賀松」
「聖也くんは……悪くないよ」
ポケットからハンカチを取り出して傷口に巻く。その間にまた雪乃が呟いた。
「おかしい……おかしいってこんなの! 祥子も! 分かってるんでしょおかしいって。もう……もうやめようよ。もう……そんなフリやめてよぉっ!」
取り乱す雪乃に比べて、高良祥子は冷たい目をしていた。またいつもの無表情に戻る。
「フリってなに」
「そうだよね、祥子。アレが何言ってるか分からないよね。うん……そのまま俺の言葉だけ聞いていればいいから」
「お兄……ちゃん」
「あ、そっか。お前とは契約してたんだっけ。それで騒いでんのか。祥子が可哀想だから女同士のことはお前に任せてたけど、もう必要ないから。今月……はまだ一週目だけどまぁいいや。やるよ。今月分の給料」
「……お前の金なんかいらないっ」
「雪乃、行こう……」
二人は僕たちにも目を合わさずに、部屋を出て行った。
「君が碧くんだっけ」
「……何ですか」
「ありがとうね。祥子のこと一生懸命守ってくれて」
明らかな皮肉だ。元凶でもあるこの男になんて言い返せば分からなくて唇を噛んだ。
「……っ」
聖也くんを起こそうと立ち上がったとき、部屋の隅に落ちていた写真が見えた。半分破れているそれには少し見覚えがある。気になったけど今はそれどころじゃない。思っていたより重い体を引きずって、なんとか廊下に出る。
一瞬だったからよく見えなかったけど、扉が閉まる瞬間の高良祥子の顔は、泣くのを我慢する子供のように見えた気がした。
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