僕達は黄昏と瑠璃色の間で

桜井 莉子

第1話 少女は黄昏と深淵の縁で


 あの街の夕日が沈む頃、ママは黄昏と瑠璃色の間を目指してお空に旅立ってしまった。たった一人、地上の一番高いところにベティを置き去りにして。

 そんな流れ星のように一人ぼっちになってしまったベティの向こう側の丘には、同じように空を見上げて今にも雨に打たれそうな顔で佇むパパの姿があった。ベティは寂しくて悲しくて、そんなパパが可愛そうで必死に手を振って大声を出したけれど、パパはこれっぽっちもベティに目もくれずあっさりと丘を降りて行った。

 ねえママ、パパが居なくなっちゃった、どうしたんだろう。口にしてふと、いなくなってしまったのはママの方だったと思い出した。もういくら呼んだとしても、たとえ道端に転がって赤ん坊のようにぐずり泣いたとしても、もうママが優しい声であやしてくれることはないのだ。晩御飯が出来たわよとベティとパパを呼ぶ声も、一緒にケーキを作ろうとゆっくり教えてくれる手も、寒い冬にはベッドの中で抱きしめてくれる身体も、ベティには届かないほど遠いお空の向こうへ消えてしまった。ベティに残されたのは、ママに比べてだいぶ頼りないパパだけだったのだ。

 ―――ぱぱぁ、ぱぱぁ。どんなに声を枯らして叫べどパパは気付かないふりをする。背中を向けたその顔が、寂しくて悲しくて、泣き出しそうなのはもうベティの方だ。でもパパはきっと泣いている。大人で、どんなことがあっても泣き顔を誰にも見せないパパが泣いている。だから子供で、びっくりしたとか痛かったとかで簡単に泣いてしまうようなベティは泣いちゃいけないんだ。

 夕日が落ちて星が浮かんで、太陽が目覚めて、何度も何度もこの星はぐるぐるとまわり続けていたはずなのに、ベティのお空には未だに隙間だらけのラピスラズリが果てしなく無慈悲に広がっていた。


 

 ベティのおうちはステーションを挟んだ南側に広がる新興住宅地の真ん中にぽつりと存在していた。そこでは実態がどこにも存在しないようなママの弟と、すごく意地悪でヒステリックなお嫁さんと一緒に窮屈な生活をしている。

 かつてはママとパパと三人で暮らした夢のようなおうちがあったけれど、そこはあのステーションから一番早い列車に乗って、車窓を流れる風景に飽きてもまだ南へ進み続けなければ見えて来ないので、ベティが一人で帰るには少々難有な物件となってしまった。

 パパは仕事があって、ベティを迎えに来るにはとても夜が遅くなってしまうから一緒には行けないし、一応駅員さんに聞いてはみたのだけれど、ママを迎えに行くためのステーション発黄昏と瑠璃色の間行なる列車は最近じゃ運行していないらしい。

 遠い昔、ベティが生まれるよりもずっと前、おじいちゃんがベティくらいだった頃はそんな列車がこっそり運行していたらしいけれど、ある時突然お客様を一人も乗せないまま発車して、そのままお空の隙間へ飛び立ったまま帰って来なくなってしまったんだそうだ。

 せめてベティが乗るまで待っていてくれたらよかったのに。けれどベティは列車に乗るための切符の買い方を知らなかった。もし分かったとしても、一体ママのいる場所までどのくらいかかるものなのか想像もつかなかった。お手伝いをして貯めていた天使の貯金箱の中身で果たして足りるのだろうか、晩御飯までには帰って来れるのだろうか。

 改札前でがっかりと肩を落としていると、その駅員さんはしゃがみこんでベティの頭を撫でてくれた。何だか照れくさくなったベティは身をよじって大きな手のひらから逃げ出した。駅員さんはそれでもベティに穏やかな笑みを向ける。

「誰か逢いたい人がいたの?」

「ママに、あいたいの」

「―――そう」

 おじいちゃんじゃない方の駅員さん(週に何日かはおじいちゃんがいる)はほんの少し寂しそうに俯いて、綺麗な顔を隠すように帽子のつばを引っ張った。やがて思い出したと言わんばかりに上着のポケットからこの街の地図を取り出して、ベティに見えるように広げてくれた。

「工房って聞いたことある?」

「こうぼう?」

 どこかで聞いたことのある響きだった。駅員さんは地図の真ん中、ステーションの上側を指さした。

「今僕達がいるのはここ。旧通りは分かる?」

「うん」

 彼の言う旧通りというのが、駅の北側に広がる昔の市街地のメインストリートだということを賢いベティは知っている。駅員さんはその旧通りをゆっくりと指で辿っていって、やがて突き当たりで小さく丸を描いた。

「ここ。ここが工房。君の乗りたい列車を作ったのはここの人だったらしいよ。もしかしたらまだ乗り方を知っているかもしれない」

 これをあげるから、行ってごらん。そう言って駅員さんはベティに地図をくれた。駅員さんが持つと小さかったその地図は、ベティが持つととても大きくて酷く不格好に見えた。ベティが小さくお礼を言うと、駅員さんは少しはにかんだようにどういたしまして、と帽子のつばを引っ張った。つんつんとはみ出た茶色の髪が陽の光に揺られて、まるで童話に出てくる金髪の王子様みたいだな、とベティは嬉しくなった。

 こうぼう。そうだ、こうぼうには金髪で青い目をした王子様と、外国からやって来た黒い髪のお姫様がいるんだって、リジーおばさんが教えてくれたのだ。ベティはまだ会ったことがないのだけれど、それはそれは美しい、物語の主人公にぴったりの二人なんだそうだ。こうぼうというのが一体何をする場所なのかは知らないけれど、きっとそんな二人がいるのだからお城みたいな素敵な場所に違いない。

 ベティの心はどこかでわくわくしていた。物語の主人公はベティだったのかもしれない。綺麗なドレスもガラスの靴もカボチャの馬車もベティには用意されていないけれど、はやる心はこうぼうの舞踏会へ向かっている。

駅の北口を飛び出して、歩道の脇を赤い煉瓦で縁取られた石畳の通りに出る。旧通りだ。かつての賑わいには及ばないらしいが、それでも店の並びは決して少なくはなかった。

 きらきらと宝石のように輝くガラスが並ぶ老舗のランプ屋さん、その隣はジョージおじさんの昔の店で、放置されてずいぶんと経つのか看板が錆び付いていた。

駅の北には行っちゃダメよ、危ないんだから―――いつだったかヒステリックなお嫁さんがわめき散らしながらベティにそう言い聞かせたけれど、今のベティにそんなことは関係なかった。

 ママにあえる。ママにあえるのなら、もう一度あの優しい腕がベティを抱き上げてくれるのなら、いくら甲高い声で怒られたってへっちゃらだ。だってベティにはママがいる。ママはきっとあの理不尽な怒鳴り声からベティを守ってくれる。

 旧通りをいくらか進んだところで、どんどんお店の灯りが消えていくことに気が付いた。お店はあっても、お客さんがいない。商品がない。店員さんもいない。ふと目をやった石畳の向こう側のショーケースが派手に割れていて、裸に剥かれて飾られたままのマネキンは右肩から先が足下に転がっていた。崩れ落ちた屋根の赤い煉瓦が割れてそこら中に転がり、ぼろぼろと古びた粘土細工のように解けている。

 それまで軽快に石畳を蹴っていたベティの足が止まった。無表情のマネキンが何かを訴えようとしてこちらを見つめているのだけれど、何事だろう。薄いベージュの彼女はまるで泣いているように目元がひび割れている。暗く光の灯らない店内は高級そうな内装で、割れたガラスの隙間から舞い込んだ雨風に曝されて朽ち果てていた。

 かつては綺麗なお洋服を着せてもらって道行く人の羨望を集めた美しいマネキンも、今や店と共に朽ち果てて命尽きるのを待つばかりの人形と成り果てた。ベティはそれでも街角に凜と立つマネキンにぞわぞわとしたものを感じて、ほんの僅か後退る。足下を乾いた風がベティをからかうように吹き抜けて、街路樹から落ちた枯れ葉が立てるかさかさという音がまるで笑い声のように聞こえて酷く不気味だ。

 危ないから、行っちゃダメよ。ほんの少し泣きそうになりながら、ベティは旧通りを振り返る。通りは緩やかに曲がっていて、いつの間にかステーションは見えなくなっていた。ベティは唇をぐっと噛みしめて、工房を目指して走り出した。赤いダッフルコートの裾が跳ねる。白いマフラーの飾りが揺れる。マフラーはママが幼いベティに買ってくれたものだ。きゅっと飾りを捕まえると、まるでママと手を繋いでいるような気がして心がじわじわと温かくなっていく。

 無我夢中で走っていると、やがて突き当たりに小さなお店が見えてきた。煉瓦造りのこぢんまりとしたお店。ガラスのショーケースの向こう側でくるくるとオルゴールが回っていた。ガラスの体をしたバレリーナが永遠のループを繰り返している。目が回ったりしないのかな。木枠のドアの頭上には赤い屋根が迫り出していて、吊された木の看板には『パラケルススの子供達』と記されていた。

 ベティは歩行者も車も見当たらない突き当たりの通りを渡って、店の外観を見上げた。

 誰もが羨む豪華なお城とはほど遠い、どちらかというと赤ずきんちゃんがひっそりと暮らしていそうな素朴なつくりのお店だった。なあんだ、と内心がっかりしながら飾りの彫られた木枠のドアを押した。

 からんころん、と乾いた鐘の音が鳴り響くと、ストーブの暖かな空気がふわりと頬を撫でる。カウンターの手前、ストーブの隣に置かれた椅子に座っていた赤い少女がこちらに気付いたようで、立ち上がりにっこりと微笑むと、

「いらっしゃいませ」

 とどこか片言で出迎えをしてくれた。

「……赤ずきんちゃんだ」

 肩にかけられた赤いストール。裾の広がったひらひらとした白地のワンピース。パンと葡萄酒の入った籠がよく似合いそうな出で立ちだ。ベティのママが読んでくれた絵本に出てくる赤ずきんちゃんにそっくりだった。違うのは髪と目の色が黒いことと、肌の色がほんの少し濃いことだけだ。絵本の赤ずきんちゃんはベティみたいな深い緑の瞳と、薄い茶色の髪をした女の子だった。

「赤ずきん? 違うよ」

 微笑んでいるのにどこか素っ気なく聞こえるのは、きっと少女が外国からきたお姫様とかいう人だからなのだろうとベティは思い至った。外国は喋っている言葉が違うのだといつかママが言っていた。

 確かに綺麗な人だとは思うけど、お姫様とは違うなあ。赤ずきんちゃんの黒く波打つ長い髪が小さく揺れる。なあんだ、とベティはこっそり溜息を吐くと、赤ずきんちゃんの黒い瞳をじっと見つめた。

「ママにあいたいの」

「ママ?」

 赤ずきんちゃんはベティを椅子に座らせようとしてくれたけれど、先程まで彼女の座っていた椅子はベティには少しばかり高くて一人じゃ座れなかった。見かねた赤ずきんちゃんが両脇から抱えて乗せてくれる。足が床に届かずにぶらぶらとさせながら、ママにあいたい、とベティは繰り返す。

「ママはどこにいるの?」

 赤ずきんちゃんは屈んでベティと視線を合わせてくれた。黒い髪がきらきらと白く輝いてまるでお星様のようだった。

「おそら」

「そら?」

 ベティはこっくりと頷く。

「……おかあさんは、お星様になったの?」

 またこっくりと頷いた。赤ずきんちゃんは一瞬間を置いて困ったように笑うと、どうしてここへ来たのかと言った。

「駅員さんに聞いたの。ここに来たら列車の乗り方が分かるかもしれないって」

「列車?」

「あいたい人にあえる列車のおはなし、赤ずきんちゃんは知らないの?」

 赤ずきんちゃんは、私は赤ずきんちゃんじゃないよと苦笑いして首を横に振る。

「初めて聞いたよ。有名な話?」

「たぶん」

「そうなの。私はまだここに来たばかりだから知らないなあ」

「赤ずきんちゃんは、」

「違うよ。私は」

 赤ずきんちゃんが何かを言いかけた瞬間、カウンターの奥からがさりと何かが動く音がした。ベティはぎくりとして振り返ると、猟師のように大きな身体をした男の人がのっそりと現れてこちらを見遣っていた。

 黒くて長い髪を後ろで結ったその人はどこか不機嫌そうな表情を浮かべてベティを見たあと、赤ずきんちゃんの顔を見て、

「マリア」

 とこれまた無愛想に呼びかけた。

「お客様です」

 赤ずきんちゃんは微笑んだまま答える。この少女は赤ずきんちゃんじゃなくてマリア様だったんだ! ベティは驚いて椅子から転げ落ちそうになったけど、しっかりと背もたれを掴んでどうにか留まった。

「そんなガキがか」

「はい。エディにここのことを教えてもらったみたいです」

「何でだ」

「私には良く分からないんですけど、死んだおかあさんに会うために列車に乗りたいって言ってます」

「列車?」

 男の人は怒ったように眉間に皺を寄せた。よくママの弟のお嫁さんがベティの顔を見るなりする表情にそっくりだった。もしかしたらこの人もベティを怒鳴り付けるかもしれない。ベティはバツが悪そうに身をすくめると、マリア様が大丈夫よ、とそっと肩に手をやってくれた。

「先生。顔が怖いです」

 その言葉に神経を逆撫でされたのか、彼は眉間の皺を一層深めた。カウンターの隙間からこちらに出てきて、ベティの正面に立った。顔はまた怖いままだ。猟師さんは助けてくれる人だからきっと優しいはずで、ならばこの人はオオカミさんの方だったんだ。

 オオカミさんはベティの顔を覗き込むようにしてじっと見つめた。威嚇するようなその行動に、ベティは怯えてマリア様の赤いストールをきゅっと握る。オオカミさんの目が(正確には顔そのものが)怖くて視線をそらすと、彼のかけている木屑で汚れた黒いエプロンが目に飛び込んできた。食べられちゃう!

「いいか、お前」

「先生」

 諫めるような口調でマリア様がオオカミさんを呼ぶ。オオカミさんはどこか苦々しげに頭を振ると、しゃがみ込んでベティと目線を合わせた。

「……名前は」

「……ベティ」

「いいか、ベティ。お前の乗りたいとかいう列車なんてな、そんなものないんだ」

 先程よりも幾分か和らいだ雰囲気で、ゆっくりとベティに言い聞かせるようにしてオオカミさんは言った。

「ない、の……?」

「ああ、そんな都合のいいものはない。生きている人間は、死んだ人間には二度と会えない。だから生きているベティはもう二度とママには会えない」

 ステーション発黄昏と瑠璃色の間行。ママにあいに行くための、夕暮れと星空の隙間を走る列車。ベティはその列車に乗ることは出来ない。いつかその列車に乗って、ラピスラズリの向こう側へママを迎えに行こうと思っていた。そして薄い朝の色を走って、オパール色をした美しい昼の空へ、ママの手を取って帰ってくるのだと思っていた。

「……うそだ」

「嘘じゃない。誰もお前に教えてくれなかっただろうが、ママには二度と会えないんだ」

 意地悪でヒステリックなお嫁さんはいつかガラスのコップを投げつけながらベティに言っていた。ベティのママは死んだのだと。二度とお前を迎えに来てはくれないのだと。だからベティは迎えに行こうと思ったのだ。瑠璃色の向こう側へ、ママを迎えに行こうと思ったのに―――

「お空の向こうには、行けないの?」

「ああ。死んでしまった人間しか行けないな。だからお前はママを迎えに行けない。諦めろ」

「列車は? 本当にないの?」

「……お前のように死んだ誰かに会いたい、と願った馬鹿の妄想だ。ママにもう一度会いたいのはお前だけじゃないんだ、ベティ」

 オオカミさんはそれだけ言うと、立ち上がってカウンターの奥へと戻った。奥には簡単なスイングドアが一枚あって、不機嫌そうなオオカミさんがそれを潜ると、入れ替わりで赤毛の男の人がひょっこり顔を出した。

「マリア、何かあったの?」

「カミーユ?」

 赤毛のお兄さんは扉を潜ると、カウンターに乗り出してベティの顔を覗き込んだ。一瞬この人が王子様だろうか、と思ったけれど、リジーおばさんは『金髪で青い目をした』王子様だと言っていたからきっと違うのだろう。

「おっ、小さなお客様だ。いらっしゃい」

 にやりと人のよさそうな笑みを浮かべると、腕を伸ばしてベティの頭を撫でてくれた。指先からふわりと花のような優しい匂いがした。どちらかというとこの人が赤ずきんちゃんを助けてくれる猟師さんかもしれない、と思いながら、くるくると指先で髪を遊ばれるのがくすぐったくて身を捩った。

「ちょっと先生がはっきり言いすぎただけ。ねえベティ、あなたはどこから来たの?」

「ステーションの向こう」

「そう。私ベティをステーションまで送るね。子供だけで歩くのは少し危ないでしょう」

「一人で大丈夫か?」

「うん、大丈夫。ステーションに着く頃、セシルさんの乗った電車が到着すると思うの」

「ああ、そんな時間か。出来るだけ一緒に帰って来いよ。あいつが先に戻ってきたら迎えに行かせるから、エディに待たせて貰っとけ」

「はあい。さ、ベティ、行こう」

 マリア様はベティを抱きかかえて床に降ろしてくれた。ちょっと待っててね、とカウンターの奥から赤毛のお兄さんに出して貰った白いコートを受け取って急いで羽織ると、ベティの手を取って扉を開けた。ストールは首元に巻き直している。からんころん、と鐘の音の後ろでお兄さんがまた来てね、と手を振ってくれたので、足をとめて手を振り返した。

 お兄さんは笑ってくれていたけれど、ベティはどうしても笑う気になれなくて、不服そうに口を尖らせたまま店を出た。

 日暮れの近い旧通りは一層寒さを増して、つい先日まで生い茂っていた葉を突然むしり取られたような痩せた木の枝が、冬の突き刺さるほど冷たい風に揺られていた。

 ベティは俯いたまま石畳をぼんやりと見つめて歩いていた。マリア様はベティに合わせるようにゆっくりと歩を進めて、時折考え込むように立ち止まるベティに何も声をかけることはなかった。

 繋いだ掌が温かい。いつかママと暮らしていた街で、こんな風に手を繋がれて歩いたことを覚えている。右手はママで、左手はパパだった。

 あの頃のパパはベティが呼べばちゃんとこちらを見てくれた。ママはベティの手を離すことなどないと信じていた。最後に手を繋いで貰ったのはいつだろう。ママがお空の向こうで暮らし始めてから、こんな風に手が温かくなったのは初めてな気がした。

「……マリア様」

「私はマリア様じゃないよ? 名前がマリアなの。よかったらマリーって呼んでね」

 マリーはそう言いながら笑った。マリーの言葉はほんの少し発音が拙くて聞き取りづらい。その分ゆっくりと喋ってくれる。ママもベティと喋る時はゆっくり喋っていたことを思い出した。

 ベティは足を止めてマリーを見上げた。

「マリー。ベティはママを迎えに行っちゃダメなの?」

 繋いだ手に僅かに力が込められる。マリーは悲しげに目を細めてベティを見つめていた。どこかオオカミさんの表情が被って、もしかしたらあの人も悲しかったのかもしれない、とベティは思った。

 一体どうしてそんなにも悲しむのだろう。ベティはママを瑠璃色の向こうに迎えに行って、前のようにママとパパと三人、遠い南の街にある大好きなおうちで暮らしたいだけなのに。そこには幽霊みたいなママの弟も、ベティを見るたび怒鳴り散らすお嫁さんもいなくて、きっとベティは幸せに暮らせるのに、どうしてみんなそれをいけないことのように言うのだろう。

 マリーは悲しそうな表情のまま、さっきみたいに目線の高さも合わせてくれなくて、

「ダメだよ」

 と、ぶっきらぼうに言った。

「どうして?」

「どうしても」

「……マリーは迎えに行きたい人、いないの? だからベティにダメって言うの?」

「違う!」

 叫び声と紛うほどの音を立てて、風が吹き抜けた。コートの端からはみ出たマリーのワンピースの裾がはためいてバタバタと音を立てる。

 マリーは唇を真一文字に結んでベティを見つめていた。ベティは黙ってマリーを見つめ返す。黒真珠のように光る瞳がゆらりと一度大きく揺れて、大粒のダイヤみたいな涙が一筋、音もなくこぼれ落ちた。

「マリー……?」

 風が止んだ。ベティは黒真珠の瞳を覗き込む。きらきらしてとても綺麗だ。こんなにも綺麗な人が、どうして泣いているのだろう。もしかしたら自分のせいかもしれない。もしかしたらマリーも、ベティと同じようにママを迎えに行きたくても行けない人なのかもしれない。それはどんなに辛いことだろう。悲しいことだろう。

 まばたきの一瞬に、ママとあえなくなってから寂しくて、悲しくて、辛くて、痛かったことの全部を思い出した気がした。ママがいた頃、どんなに楽しくて、嬉しくて、優しくて、温かかったのかも、全部。

『違う、違うの、ベティ、ごめんね、ごめんなさい……』

 堰を切ったようにぽろぽろと涙を零しだしたマリーは、異国の言葉でベティに呼びかける。『ごめんなさい』の間にベティの名を呼んでいる。そんなマリーの様子を見ているとベティまで悲しくなってきて、いつの間にかしゃくり上げながら泣いてしまっていた。

 ベティもマリーも、どうして大切な人から突然に切り離されなければならなかったのだろう。どうしてもう一度あいに行くことさえ否定されなければならないのだろう。ベティは子供だから、まだ分からないことがたくさんあるのだといつかママが言っていた。それでもこの答えだけは、大人になっても分かる気がしなかった。だってマリーは泣いている。マリーはまだ大人には見えないけれど、ベティよりも背が高くて、綺麗で、落ち着いている。ベティの目にはそれは立派な大人に映った。

 それでもママにあいに行けなくて、こんな風に泣くことしか出来ないのだ。

 やがて木枯らしが再び辺りを切り裂くように吹き抜けて、涙で濡れた頬の冷たさにベティはようやく泣き止んだ。マリーは聖母様のように微笑みながら、ポケットから出した薄いハンカチでベティの涙を優しく拭ってくれた。

「ベティ、ごめんなさい。これはね、誰にも、何も出来ないことなの」

 マリーは自らの目元をそっと拭いながら言った。美しい黒真珠は未だ揺らいでいる。ベティは黙ってかぶりを振ると、マリーはベティの頬を両手で包み込んで、いい子ね、と呟いた。冬の外気に曝された指先は冷えて氷のようだ。氷の向こう側からじんわりと染み出す暖かさが、ほんの少しだけママに似てるな、とベティはこっそり思った。

 気付けば緩やかなカーブの向こうに線路が見えている。あの優しげな駅員さんのいる改札まで行けば、自分の足で今のおうちまで帰れるはずだ。本当ならこのまま電車に乗って、ママと暮らしていたおうちに帰りたいのだけれど、そんなことをしたらお嫁さんに怒鳴り付けられるどころではなくなってしまう。

「ベティ、あと少しよ。行こう」

「うん。ありがと、マリー」

「どういたしまして」

 いつの間にか離していた手を繋ぎ直して、ステーションに向けて再び石畳を歩き始める。こつこつとマリーのブーツの踵が優しく音を鳴らして、お嫁さんの怒ったような足音とは全然違う心地のよい音だ。

 不思議とベティの心は穏やかで、行きに感じたような不安とか恐怖とか、そう言うものはどこかへ行ってしまったようだ。この手があればきっと大丈夫。ベティの小さなブーツも、石畳を微かに鳴らしている。

 やがてステーションが見えた。北口の正面から見ると左右の口から線路が伸びて、それがこの街を南北に分断している。旧通りからは、封鎖されて久しい五番ホームとその手前の短い線路が見える。一番から四番のホームは駅舎の中だ。ステーションの中にある長い階段を登って向こう側の階段を降りるか、緩やかな坂道の地下道を潜るかすれば、ベティの今のおうちまですぐだった。

 何となく、手を離すのが惜しい気がした。けれどこの手はマリーの手で、ママの手じゃないなんてことはベティにも分かっている。ママの大きな手よりも一回り小さくて柔らかい、母親よりももっと幼い庇護されるべき少女の手だった。

「ここで大丈夫だよ。マリー、ありがと」

「いいよ。もし何か困ったことがあったらまたおいでね。街の北側は危ないから気を付けて」

「うん」

 それじゃあ、と言いかけた瞬間、鈍い衝突音と共に遠くで誰かの悲鳴が響いた。女性のようだった。ベティとマリーが反射的にそちらに振り返ると同時に、荒っぽいエンジン音が辺りに木霊する。

 黒のワゴンが歩道に乗り上げながら猛スピードでこちらに向かって来る。街灯の脇にいた男性がひとり巻き込まれて吹き飛ばされた。悲鳴を上げた女性らしき影は街路樹の麓で地に塗れて倒れている。

 逃げないと―――頭では分かっているというのに、足が動かない。ワゴンが目の前に迫っていた。運転手のカッと見開かれた目がベティを捉える。ベティは咄嗟に頭を庇って座り込み、力一杯の悲鳴を上げた。

 瞬間、ふわりと誰かの腕に優しく包み込まれた。その腕は身体全体でベティを庇うように抱きしめて、ベティの視界は一面の白色で染まった。

 ―――ママ? 違う、ママじゃない。

「マリー!」

 悲鳴にも似たベティの声。歩道に乗り上げたワゴンがマリーの背中を跳ね上げた瞬間、ベティの目の前が穏やかな青い光で包み込まれた。何だろう? 僅かに背伸びをしてマリーの肩越しにワゴンを見遣る。ワゴンはマリーの背中に乗り上げて前輪が浮いたかと思うと、次の瞬間、青の光が強く爆ぜてワゴンが跳ね返された。

 がしゃり、と金属の潰れる音が辺りに響く。ワゴンが石畳に何度か跳ねて、ようやくエンジン音が止まった。ぐしゃぐしゃになったワゴンからは煙が上っていて、辺りの大人達が大慌てで運転手の救助に向かう。ベティは何が起きたのか分からないまま、マリーの肩をぎゅっと強く掴んでいた。

 そうだ、マリーは? 背中を跳ねられたマリーは大丈夫だろうか。

「マリー? マリー、痛いの? 大丈夫?」

 抱きしめられたままの腕を振り払ってマリーの顔を覗き込んだ。きゅっと強く目を瞑っていたマリーはやがてゆっくりと瞼を開いて、平気だよ、と小さく呟いてベティの頭をそっと撫でてくれた。

 大丈夫か、と近くにいたおじさんが声をかけてくれたけれど、マリーがお守りのおかげで無事でしたと答えるとほっとした様子で他の救助に向かった。

 ワゴン車に再び目をやると、割られた窓から運転手が引きずり出されていた。意識はしっかりしているようで、周囲の呼びかけには答えている。どこからともなく救急車のサイレンが鳴り響く。きっとここへ向かっているのだろう。

 辺り一帯は凄惨と呼べる光景だった。初めに突っ込んだらしいバス停は酷く歪んでいて、たまたま待合に居合わせた数名が直撃を受けて辺り一帯に倒れ込んでいた。みんな血塗れで小さく呻き声を上げて、痛い痛いと泣いている。

 初めて見る他人の血にベティが泣きそうになっていると、マリーが視界を隠すように抱きしめてくれた。何故だか怖くなって手が震えてしまう。目の前のマリーの胸元を掴んで顔を埋めた。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 マリーは呪文のようにそう繰り返していた。本当なら守られていたベティよりも跳ねられそうになったマリーの方がよっぽど怖かったはずで、そう言えばあの青い光は何だったのだろうと思い返してマリーを見上げたとほぼ同時に、

「マリア!!」

 ステーションの向こうから男性が叫んだ。マリーはぎくりとした様子で慌ててそちらを振り向く。ベティもつられるように声の主を見遣ると、陽の光に輝く金髪に青い目をした綺麗な男の人が、怒ったような、それでいて心配したような複雑そうな顔をしてこちらに走って来た。

『しまった』

 マリーが何事かを呟いた。ベティがいたずらをしてバレた時の反応に似ている気がする。きっとやばい、とかしまった、とかそんな感じの。

 その男の人は血相を変えてマリーに駆け寄ると、彼女の両肩を掴んで何をしているんだ、と悲鳴にも似た声で叫んだ。

「えっと、その女の子。ベティっていうの。轢かれそうだったから」

「だからと言って身代わりになるのか!? 自分が死ぬところだったんだぞ」

「お守りがあるから大丈夫だと思った……」

「お守りだって万能じゃないんだ。何で君はそんな無茶ばかり」

『うるさいなあいいじゃない助かったんだし。心配してくれてありがたいけどそこまで怒らなくったって』

「……そこまで怒らなくったって? いや怒るだろう普通」

「どうして日本語が分かったの!?」

「これでも勉強してるんだよ君の言葉! やっと帰って来れて? そしたら目の前で恋人が轢き殺されました? どんな悪夢だよそんなことあってみろ、その場で僕も後を追って死ぬからな」

 心配しているようだがなかなか物騒なことを言う男だ。ベティはまじまじと男の顔を見つめた。金髪碧眼。細いメタルフレームの眼鏡が理知的な印象を演出している。昔ママと観た映画の主人公に似た綺麗な顔だ。

 もしかして、この人がこうぼうの王子様だろうか。この一歩間違えれば暴言を吐きそうな人が? ベティは呆気に取られながらマリーのコートを引っ張る。マリーはようやくベティの存在を思い出したらしく、はっとした様子でベティの手を取った。

「その子は?」

 王子様が青い目を細めてベティの顔を覗き込んだ。

「工房のお客様。ここまで送ってきたところ。ベティ、あなたは大丈夫?」

「うん」

「よかった……」

 マリーは胸をなで下ろして、ほっと溜息を吐いた。

「マリア、僕は怪我人の救助に向かう。君はエディに電話を借りて、親御さんに電話してあげて。僕も落ち着いたらそっちへ行くから」

「うん、分かった。石を持ってるの?」

「翡翠と真珠がある。応急処置程度でもないよりいいさ」

「気を付けて」

「ありがとう」

 そう言って王子様はマリーの額にキスを落として、辺りに倒れ込んだ怪我人の元へ走って行った。マリーは穏やかに微笑んでその後ろ姿を見送ると、私の手を引いてステーションへと促した。

「ねえ、マリー、あの人がマリーの王子様なの?」

「えっ!? 王子様!?」

 マリーは慌てふためいて言葉を濁す。どうしてそんなに照れているのだろう。王子様と結ばれたお姫様だなんて、みんなが憧れる素敵なことなのに。

「ちょっと煩そうだけど、とっても素敵ね。マリーの王子様」

 私はもうちょっと静かな方がいいけど。ベティが呟くと何がおかしいのかマリーは大笑いして、私もそう思うわ! と嬉しそうに言った。何でこんなにも幸せそうにそんなことを言うのかベティにはどうしても理解出来なくて、頭上に疑問符をたくさん浮かべたままステーションへと向かう羽目になったのだ。

 これもいつか、大人になったらわかるのだろうか。





 ステーションの詰め所にはベティに地図をくれた駅員さんが詰めていて、二人がドアをノックするとちょうど電話を切ったところで、手招きして中に呼び入れてくれた。

 エディと呼ばれた彼はマリーから事情を聞くなりベティからおうちの電話番号を聞き出して、すぐに連絡を取ってくれた。二言三言電話口で会話を交わすと、すぐに受話器を置いてこちらを振り返った。

「すぐに来てくれるって」

「そう、よかった。ありがとうエディ。忙しいのにごめんなさい」

「いいよいいよ、これもお仕事。ベティ、オレンジジュースとブドウジュース、どっちが好き?」

「オレンジ」

「よしきた」

 エディは冷蔵庫からオレンジジュースを出すと、戸棚に置いてあったグラスを取り出して綺麗なオレンジ色のそれを注いでくれた。甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。

「はい、どうぞ」

「ありがと」

 グラスを受け取ったベティの頭をエディが一撫でして、隣に座るマリーを見遣った。

「マリア、工房の仕事はどう? 最近楽しそうだけど」

「やっと慣れてきたよ。まだまだ見習いだけどね」

「職人になるには道が長いよねえ。僕はそもそも才能がなくて諦めたクチだからさ、マリアを応援したいんだ」

「ありがとう、エディ。私、早く一人前になる」

「その意気だ。あ、マリアも飲む?」

「ブドウがいいな」

「オッケー」

 エディはオレンジジュースを冷蔵庫にしまうと、今度は深い紫をしたジュースを取り出した。

 そういえば、さっきの光は一体何だったのだろうか。どうしてワゴンが跳ね返ったのだろうか。そもそもこうぼうとは一体何なのだろうか。オレンジジュースを口にした途端頭がすっきりして、置き去りになっていた疑問が次々と後を追うように浮かんできた。

「マリー」

「何?」

「こうぼうって、何? マリアはどんなお仕事をしてるの?」

「この街の子で知らないなんて珍しいね。もしかして、最近引っ越して来たの?」

 エディがマリーにブドウジュースを手渡しながらベティに問うと、ベティはこっくりと頷いて見せた。

「精霊工芸、って聞いたことある?」

 ブドウジュースに口を付けながらマリーが言う。ベティがふるふると首を横に振ってみせると、マリーは微笑みながら首元に下げたネックレスのトップを引っ張り出して、ベティの目の前にかざして見せた。

「これはね、ガーネット。この裏を見て。台座に何か彫ってあるでしょう?」

 ベティはいわれて台座をじっと見つめる。糸のように細い線で模様が彫り込まれていた。

「宝石には特別な力を持つ精霊が宿っているの。その力を借りるために紋章を彫って細工して、お守りにしたものが精霊工芸。私や、工房にいた二人と、さっきの……金髪のお兄さん」

 どこか照れくさそうにして言い淀む。はっきり王子様って言えばいいのに。マリーってばとっても恥ずかしがり屋さんなのね!

「みんな工房で精霊工芸を作る人なの。さっき私達が無事だったのも、このお守りが守ってくれたからなんだよ」

「ふうん……」

 そんな不思議なものがあるのか。ベティがママとパパと暮らしていた南の街ではそんなもの聞いたことがなかった。とても便利なのに、どうして有名ではないのだろう。ベティは首を傾げながらペンダントのトップを指で転がしていた。

 不意にノック音が室内に響く。どうぞ、とエディが声をかけると、マリーの王子様が扉を開けた。血の気の引いた真っ青な顔は酷く気分が悪そうに見える。

「セシルさん」

 マリーが王子様に駆け寄る。王子様は疲れ切った表情でマリーを抱きしめると、細い首元に顔を埋めた。

「……思ったよりも悲惨だった」

 二人ダメだった、と首を振ると、マリーは酷く悲しそうな顔をして彼を抱きしめ返した。どうしたのだろうと訝しげに二人を見つめていたら、エディが何でもないよと頭をポンポンと撫でてくれた。ベティにはその光景に見覚えがある。あれは確か、ママとお別れした日のこと。ママがお空に登って言ってしまった時のこと。

 きっと血塗れで倒れていた人たちは、ママと同じお空に旅立ってしまったのだ。そしてベティと同じように、寂しくて、悲しむ人がいるということだ。ステーション発黄昏と瑠璃色の間行きの列車がまだあったなら、一緒に迎えに行こうと誘ってあげることが出来るのにそれも叶わない。

「ところでマリア、その子は」

 王子様は埋めたままだった首をもたげてこちらに向けた。マリーが王子様から腕を解いて私の元に歩み寄りながら、

「この子はね」

 と言いかけたところで扉が派手な音を立てて開いた。ベティは驚いて手にしていたグラスを膝の上に落っことして、せっかくのコートがびちゃびちゃになってしまった。

「ベティ!!」

 開いた扉の向こう側に、悪魔のような顔をしたお嫁さんが佇んでいた。きっとこちらを睨み付けると一目散にベティへと歩み寄ってどいて、とマリーを突き飛ばした。ヒステリックに打ち付けるヒールの音が辺りに響いて耳が痛い。

 お嫁さんはベティを上から下まで一瞥すると、右手を振り上げてベティの頬を激しく打ち付けた。衝撃で椅子から転げ落ちたベティの身体を咄嗟にエディが庇って床に倒れ込んだ。

「ベティ!?」

 泣きそうな声で叫んだのはマリーだった。お嫁さんはエディの胸に倒れ込んだベティの髪を引っ張り上げてこちらを向かせると、脅すような勢いで首元を掴んで怒鳴り始めた。

「アンタは!! 駅の北には行くなっていったでしょ!? それで事故に巻き込まれそうになった? いい加減にしなさいよ! それに何よこのコート!! 何でこんなに濡れてるの!? 答えなさい、ベティ!」

 オレンジジュースでべとべとになったコートを引っ張って、ベティを床に叩き付けた。エディは慌ててお嫁さんを押さえ込むと、床に打ち付けられたベティはしばらくきょとんとしたあと、突然堤防が決壊したかのように大声で泣き始めた。

 硬い床にぶつけた肩が酷く痛んで、お嫁さんに怒鳴られるよりも辛かった。お嫁さんに怒鳴られるのは最近ようやく慣れたのだ。でも突然の痛みはどうしても我慢出来ない。

 再び腕を振りかぶったお嫁さんを宥めながら、エディが慌ててマリーの名を呼んだ。

「落ち着いてください、とにかく無事だったんですから」

「無事? 無事で良かったとでも言いたいの? 人の気も知らないで偉そうねアンタ。こんな子いっそ巻き込まれて死んでしまえばよかったのに。そしたらママにいくらでも会いに行けるわよ!」

 そうか、生きているうちにあえないのなら、ベティも死んでママと同じお空に登ってしまえばいいんだ。列車がなくてママにあえないのなら、ママみたいに身体を捨てればいいんだ。どうしてそんな簡単なことに気付けなかったのだろう。

 お空の下に残したパパのことが少しだけ気になったけれど、ママと一緒に暮らしていた頃のパパは、あのラピスラズリの空の下、ベティの知らないところで彷徨っている。ベティを置いて遠い街へ逃げたパパは、ベティの大好きなパパではなかった。

 ふと泣き止んだベティを、お嫁さんは急に泣き止んで気持ちが悪い、と言葉汚く罵った。もう何とでも言えばいい。ベティはあの家を捨ててママと一緒に暮らす。そもそもベティのおうちは遠い南の街にあるのだ。こんな街よりもずっと暖かい、穏やかな街がベティの帰る場所なのだ。

 突然目の前が暗く陰った。どうしたのだろう。影の主を見上げようとした瞬間、お嫁さんの身体がよろけて勢いよく尻餅をついた。

「何すんのよ!?」

 お嫁さんの見上げた、影の主はマリーだった。慌てて後ろから王子様が止めようとマリーの肩に手をかけたけどマリーはそれを勢いよく振り払って、

「人の気も知らないで偉そうね、アンタ」

 と、お嫁さんと同じ台詞を吐き捨てた。お嫁さんは悪魔みたいな顔をしていたけれど、マリーはとても冷たい、いつか本で読んだ東洋の「鬼」みたいな視線でお嫁さんを睨み付けている。どうしてマリーはこんなにも怒っているのだろう。

「アンタみたいなガキに何がわかるの? 口を開けばママに会いたい、パパはどこって、会えないって言い聞かせても一向に聞きやしない。いつまでも泣いてふてくされて可愛くもないこんな子供の面倒みたいわけないでしょ!? 人の事情に口を出さないでよ!!」

「だから?」

「……は?」

「だから何、って聞いているの。今のどこにあなたがベティに暴力を与えていい理由があるの? つまりはあなたがこの子の態度に納得出来ないから殴っているということ?」

「だったら、だったら何だって言うのよ!? 親になったこともないような子供のくせに! アンタこそ人の気も知らないで」

 お嫁さんはのっそりと立ち上がってマリーに掴みかかろうとする。指先が襟元に触れた瞬間、王子様がマリーを庇うように二人の間に割って入った。お嫁さんは行き場の無くなった手をぐっと握りしめて、王子様の胸元をめちゃくちゃに叩いたと思うと、やがて崩れ落ちるように膝をついてボロボロと泣き始めた。

 ベティよりも酷い嗚咽が、静まり返った室内に響き渡る。お嫁さんも痛くて泣いているのだろうか、とベティはぼんやりと考えていた。でもマリーはどこもぶつけてないのに泣いていた。だからきっと、お嫁さんもどこかが痛いわけでなく泣いているのかもしれない。

 やがて王子様が絵本のワンシーンのように片膝をついて、お嫁さんの肩に手をかけた。

「事情を知らないから、傍目からどう見えるかが言えるんです。暴力の上に正論ですから、こちらの暴挙だとは認めます。申し訳ありません。ほら、マリア。どんな理由であったとはいえ、良くないことだよ」

「……ごめんなさい。痛かったですよね。本当にごめんなさい」

 マリーも王子様の横にしゃがみ込んで、伏せたままのお嫁さんの顔を覗き込んだ。お嫁さんは必死に首を振りながら泣き続ける。

 マリーがチラリとベティを見遣った。きょとんとした表情のままだったベティは、マリーが優しくこちらに微笑みかけてくれたのが何だかとても嬉しくなって、旧通りで繋いでいた手がほんのりとまだ暖かい気がしてきた。

「あの、私達、旧市街の工房の者です。これも何かの縁ですし、もしあなたに考える時間が必要で、今の状態を悩んでいるのなら、ベティをこちらでお預かりすることが出来ます」

「マリア」

 王子様はどこか咎めるような口調でマリーを呼んだ。マリーは二人にだけ聞こえるくらい細やかなトーンで何かを呟いて、縋り付くように王子様の胸元に手を置いた。

「だって、見てられない。わかるの。わかってしまうの、あなたもでしょう、セシル」

 旧市街で見た黒真珠が、蛍光灯の光を浴びて再びきらきらと揺らめき始めた。お嫁さんは私が嫌いだから、怒鳴り付けて殴るのだと思っていた。そんな簡単なことなのに、わざわざ何をわかったというのだろう。

 ほろほろとダイヤの涙を落とすマリーの肩を王子様が抱いていた。お嫁さんはその様子を見て、一層悲しそうに眉をひそめて嗚咽を漏らす。その光景を眺めることしか出来ないベティの肩をエディがそっと抱いてくれて、大丈夫、と手を握ってくれた。

「僕の名刺をお渡しします。出来れば何かが起こってしまう前に、ご連絡を」

 王子様はポケットから取り出したケースの中からカードを一枚引き抜くと、お嫁さんの震える手に無理矢理握らせた。お嫁さんは一瞬拒んだようだったが、受け取ったカードに記された名前をぼんやりと眺めている。

「僕は、セシル・ウェブスター。もしもこの名が分からなければ、この街に長く住む方にお尋ねください。きっとお力になれると思います」

「ウェブスター……」

 お嫁さんは力なく呟いて、しばらく嗚咽を漏らしていた。マリーも静かに泣いていた。やがてお嫁さんが黙り込んで、しばらく俯いていたと思ったら突然ベティの手を取って、逃げ出すようにステーションを後にした。

繋いだ手はママともパパともマリーとも違う、温度のない冷たい手だった。

 その日はもうお嫁さんがベティを殴ることはなかった。ベティはお部屋に閉じこもって、死ぬというのはどうすればいいのだろう、と考えあぐねていた。途中窓の外を流れたお星様に死にたいです、と伝えたのだけれど、きっとこんなことでは死ねないだなんてベティはとっくに知っている。

 死んでお空の向こうへ登ったママと、生きて石畳を歩くベティの間に広がる空間は、ベティが容易く越えることなど出来ないのだ。

 ――――いっそ巻き込まれて死んでしまえば。悪魔の形相で叫んだお嫁さんの言葉を脳内で反芻する。本当に、いっそあの時巻き込まれてしまえば。必死で庇ってくれたマリーには申し訳ないのだけれど、あの優しく包んでくれた腕が少しだけ恨めしかった。





 泣き腫らして工房に戻ったマリアを見るなり、先生は反射的にセシルを怒鳴り付けた。こうなると思ったと頭を抱えるセシルの様子を、カウンターの向こうからニヤニヤと嫌な笑いを浮かべた赤毛が窺っている。いつか殴り飛ばしてやろうと心に決めてから数年が経つが、未だその機会は訪れていない。

 いや、今のうちに殴ってもいいのではないだろうか。セシルが睨み付けると小さく舌を出して仕事に戻る振りをする。あの野郎!

「違います、違う、ツルギ先生! 話を聞いてください!」

 マリアは今にもセシルに掴みかかって来そうなツルギの身体を必死で押し返しながら、事の成り行きについて説明しようとしていた。が、大切な娘が泣いて帰って来た、しかも心許す恋人の横で―――とあっては落ち着いてもいられないのだろう。

「セシルさんのせいじゃありません―――!」

「じゃあ誰のせいだ? あ? こいつが一緒にいて何で泣くことがあるんだ? 納得いく説明をして貰うぞ」

「殴られてから納得されても僕の方が納得行きませんよ」

「俺は納得する」

「馬鹿なんですか?」

 カウンターの向こうで赤毛がひひっ、と引きつったように笑った。モノクルで原石を覗き込みながら、これは屑だったな、と呟いて白い箱に投げ入れた。

「先生、先生!」

 赤毛の彼はモノクルを外して机の隅に投げ置くと、カウンターから楽しそうに身を乗り出してツルギを呼ぶ。まるで観覧席にでもいるかのようだ。高みの見物といったつもりか。

「正直俺もセシルが殴られるところを見たいですけど、理不尽だとさすがに怒られますって。前は一週間マリアに無視られて落ち込んだんですから、先に理由を聞きましょうよ」

「カミーユぅ……」

 マリアが今にも泣き出しそうな顔で振り返る。カミーユに気を取られて勢いを止めたツルギから引ったくるようにマリアを取り返すと、ストーブ傍の椅子に座らせた。

 前は確かマリアが一人暮らしするとか言い出したのを酷く心配して、心配しすぎてそれならセシルと暮らすと言い出した時、理不尽にセシルを怒鳴り付けたために一週間無視されたのではなかっただろうか。その時は殴られやしなかったものの、掴みかかられたことをセシルはよく覚えている。というか、意地でも忘れやしない。

「なあセシル、もしかしてあの赤いダッフルの子?」

 カミーユがコートをこちらに寄越せと言わんばかりに手を伸ばした。セシルはマリアのコートを脱がせると、自分のものとまとめて彼に手渡す。

「会ったのか、ベティに」

「ここに来たんだ。何の話をしたのか俺は聞いてなかったけど」

 コートを受け取りながら、チラリと横目でツルギを見遣る。ツルギはどこか不愉快そうに顔をしかめて長髪を掻き上げた。大きく溜息を吐いて、店の端に無造作に置かれていた椅子をストーブ横に引きずり出して腰掛け、ぼんやりと床を見つめたまま呟いた。

「ステーション発黄昏と瑠璃色の間行」

「……それは」

「ママに会うために乗りたいんだと。馬鹿なことを……」

 誰を責めるわけでもない言葉を一人呟くと、項垂れるように肩を落として黙り込んだ。ストーブが熱を放つじわじわという低い音だけが辺りに響く。

 やがて沈黙を破ったのは、カミーユだった。

「先生、そのステーション発、黄昏の間行、って一体……」

「ステーション発、黄昏と瑠璃色の間行、な。遠い昔にあった列車の名前だ。月に一回、夕暮れ時に五番ホームから発車していた」

「五番ホームって、あのどこにも繋がってない……?」

 ステーションの一番北。西の端っこ。五番ホームの線路からはどの街へも辿り着けないし、どの街からも辿り着けない。ホームの両端には車止めが置かれていて、完全に封鎖されている。きっと昔はどこかに繋がっていたがそのうちに廃線になっていたのだろうと、いつかマリアとカミーユがそんな会話をしていた。

「それは、どこに行く列車なんですか」

 たどたどしくマリアが問う。

「……どこでもない。ちょっとした細工がしてあって、死者との思い出をリアルに見せるってだけのものでな。昔、精霊工芸の最盛期に作られて、すぐに壊された。俺が生まれるより前の話だ。今じゃ昔からここに住んでる家族が何となく伝え聞いてる程度だから、まあ近所の誰かに聞いたんだろう。乗ったからといって、死んだ誰かと本当に会えるわけじゃない。実際記憶に依存して廃人になるやつもいたらしい。だから、すぐ壊された。生きるために」

 ツルギは決して顔を上げようとしなかった。再び工房には静寂が訪れて、時折通りを走る車のエンジン音が近くなり、すぐに遠離っていく。

 死んだ誰かと本当にまみえることがあるのなら、きっとそれは生者の死を持って与えられる。命ある以上両の足で大地に立って、ラピスラズリの空に昇った誰かに思いを馳せることしか出来ないのだ。

 生者はいつだって、死者の空に憧れる。

「あの子はまだ幼いから、時間が解決する部分もあるだろう。ほんの少し手助けする大人が近くにいればいいんだが」

「あ……ちょっと事情があるみたいです。親戚と暮らしてて、上手くはいってない、多分……」

 自分の行いを思い出したのか、マリアの言葉はどんどん尻すぼみになって気まずそうにツルギから視線を逸らす。その様子に僅かに眉を上げたツルギは訝しげにセシルを見遣った。

「おい、こいつ何した」

 マリアの背中がぎくりと跳ねる。まるで悪戯のバレた子供みたいだ。セシルは苦笑を浮かべ、マリアの肩を宥めるように叩いた。

「ちょっと親戚の方と揉めたんです。あの子虐待されていたみたいで」

「揉めた……」

 呆れたように溜息を吐きながらマリアを見遣った。彼女はどこか拗ねたような表情を浮かべて未だにツルギから目線を逸らし続けている。

「まあ、そこは解ってやりましょうよ。それこそ事情ってやつです」

 ツルギは不満そうにマリアを見つめていたが、やがて耐えかねたマリアが小さく『ごめんなさい』と母国の言葉で謝罪を呟くと、やれやれといった様子で苦笑した。

「ま、俺も人のことは怒れないか……マリア、首を突っ込むのはいいが戻れるとこまでしとけ。最後はベティ自身が納得するしかないんだからな」

「……はい」

 ベティ自身が納得するしかない。真理だ。真理であるからこそ、無情だとも思う。ツルギやセシルのようにそれなりに成熟した大人ならば、現実との整合性を取るために理不尽を噛み砕いて飲み込むことも厭わない。けれどあの幼いベティがそんな悲しい生きる術を身につけるまで、どれほどの時間がかかるのだろう。

 もしかしたらベティも一度はママのことを忘れて、どこか遠い未来で再び苦しむ日が来ることになるかもしれない。

死別というのは人の奥深くに永遠の傷を残す。それが望まないものであればあるほどに痛みを伴って。

 生者はいつだって、死者に囚われて生きていく。

 秋の早い夕暮れが遠くの空を染めていた。ショーケース越しに差し込む光は暖かみを帯びて、工房の壁に薄い黄昏を映し出す。穏やかな空の色が深いラピスラズリに引き込まれようとしている。

 生きる者のための、夜が訪れようとしている。






 ベティは今日こそママのところへ行こうと思った。今日はラピスラズリのお空がとっても綺麗だ。でもお空の上はとても寒いらしいので、ママに買って貰ったマフラーと手袋を忘れないように身に付けた。手袋はベティの手には少し小さくなってしまっていたけれど、無理矢理指を詰め込んだ。お気に入りの赤いダッフルコートはクリーニングに出されてまだ戻ってきていないので、仕方なくベージュの重くて分厚いコートを羽織る。お嫁さんが勝手に買ってきたそれをベティは気に入っていない。ベティはもっと明るい色が好きなのに。明るい色が似合うってママが言ってくれたのに。

 枕元の時計はもうすぐ日付が変わりそうで、普段のベティならこんな夜中はとてもじゃないけど起きていられない。夕暮れ時にお嫁さんと喧嘩になって、ふて寝して気付けばこんな時間だった。どうやらしっかりと眠っていたようで、ベティの目は冴え渡って、今なら空の向こうのママだってはっきり見えそうな気がした。

 だから今日、ママのところに行くのだ。ママを見失ってしまわないうちに。

 玄関のドアは開閉する度酷く軋む。ベティが煩いとお嫁さんは怒るくせに、ドアには何も言わないのはとっても理不尽だ。夜はお外に出てはいけないときつく言われているから、ベティはこっそりお部屋の窓から外へ飛び出した。お部屋が一階でよかった。窓から出るなんてすごくお行儀が悪いのだけれど、いつか絵本に出てきた泥棒さんのようで少しだけわくわくした。最近のベティはいつだって物語の主人公だ。泥棒さんは主人公だっけ?

 どうやったら死ぬことが出来るかという問題は、一向に解決していなかった。ただこうぼうでオオカミさんがそんなものはないと言っていた「ステーション発黄昏と瑠璃色の間行」なる列車はかつて本当にこの街に存在して、ステーションの「五番ホーム」から発車していたということを近所のおじいさんに教えて貰った。

 だからきっと、五番ホームに行けばいいのではないかとぼんやり考えていた。でもベティは五番ホームが判らなかった。そんなの、ステーションに着いてから探せばいいのだ。

 石畳を跳ねる靴は黒地に銀の刺繍がしてあって、これもお嫁さんが買ってきたものでベティのお気に召さない。本当はママが買ってくれた白いブーツを履きたかったのだけれど、それはとっくの昔にベティの足より小さくなってしまって、お嫁さんが勝手に捨ててしまっていた。

 ママといた頃のベティとは違うけれど、ママはちゃんとベティだってわかってくれるだろうか。もしも「あなたはだれ?」なんていつものママと同じ顔をして聞かれたらどうすればいいのだろう。せめてこのマフラーを覚えていてくれたらいいのだけれど。

 そんな不安とは裏腹に、ママがベティを忘れるわけなんてないという自信もあった。だってベティはママを忘れてなんていない。誰もがママがいないことを悲しまなくなって、いつしかママの話をしなくなって、ママがいたということすら誰も思い出せなくなったとしても、ベティだけは忘れない。

 だってベティはママが大好きだもの。マフラーの飾りをきゅっと握りしめながら、ママの大きな手の温もりを必死に思い出そうとしていた。





 ベティがどこにもいないの―――

 あの女性からセシルの元へそんな電話があったのは、あの一件から三日ほど経った夜半だった。

 日付も変わって久しい時間、母国では丑三つ時とも呼べる真夜中にセシルからの電話を受けたマリアは、最低限の身支度を整えて部屋を飛び出した。

 昼に比べて酷く冷え込んだ空気がマリアの指先に絡みつく。雪でも降るのかと思わず空を見上げたが、ダイヤを散りばめたような屑星の瞬きが一面に広がっていた。

「マリア!」

 通りに出たと同時に遠くから誰かに呼び止められる。街灯に照らされた見慣れた赤毛はカミーユだった。

「馬鹿、こんな夜中に一人で行くな」

「カミーユ、どうして」

「絶対飛び出すから行ってくれってセシルに頼まれたんだよ」

 マリアの元へと駆け寄ったカミーユは酷く息を切らせて、青い顔のまま街路樹にもたれかかった。セシルから電話を受けてすぐ、ここまで走ってくれたらしい。

 カミーユとマリアの部屋は南住宅街の最中に位置する。対してセシルとツルギは未だ旧市街地に居を構えていて、全力で駆けつけたとしても10分以上はかかってしまう。二人は北から捜すと言っていた。

「とにかく心当たりを聞きに行くぞ」

「行くって、どこに?」

「ベティの家」

「ベティの家、知ってるの?」

「あれから気になって、リジーおばさんに色々聞いてみたんだよ。とにかく急がないと」

 カミーユの息は整わないままだったが、マリアの肩を押して再び走り出す。平たいブーツの底が石畳にぶつかって、夜の静寂に乾いた音を響かせる。遠くに繋がれた飼い犬の、仲間を探す遠吠えが轟く。マリアはステーションを挟んだ北の空を見遣った。日の出の遠い秋の夜空はサファイアよりも深く昏い青色を帯びて、生者の世界を包み込んでいる。

 ベティの家はマリアの部屋から三つ南の通りの真ん中にあった。この辺りでは珍しくない、石造りの小さな家だった。モスグリーンの屋根の下、窓に引かれたカーテンの隙間から薄明かりがぼんやりと染み出している。

 カミーユは躊躇うことなく玄関のドアを数度叩くと、ばたばたと慌てた音と共にあの女性が血相を変えて飛び出してきた。

「……あなたたち」

「ウェブスターから連絡を受けた工房の者です。僕はカミーユ。彼女はマリア。ステーションで彼女とはお会いしてますよね」

「……こんばんは」

 カミーユの影に隠れていたマリアは、ほんの少し顔を出して彼女に頭を下げた。しばらく呆然とマリアを見つめていた彼女はやがてほろほろと泣き出すと、ステーションでの一件の時のように、ゆっくりと崩れ落ちて嗚咽を漏らし始めた。

「あの子、どこにもいないの……ずいぶん探したのだけれど、どこにも……だから、もしかして工房にいるんじゃないかと思って」

「北側はウェブスター達が探しています。連絡はありましたか」

「いいえ、何も。今は主人と父がこの辺りを探しに行ってるけれど、まだ誰からも連絡がないわ」

 顔を押さえながら激しく首を振る。マリアは彼女の前にしゃがみ込むと、肩にかけた鞄から小さなネックレスを取り出して、彼女の首にかけた。ベティの瞳と同じ、深い緑の宝石が遠くの街灯の光を受けてきらりと瞬いた。

「アベンチュリンです。細工したので心が少し落ち着きます」

 彼女はしゃくり上げながらマリアを見遣る。マリアが穏やかに微笑みながら頷いてみせると、恐る恐るといった様子でネックレスのトップを両手で包み込んだ。

 瞬間、手の内でアベンチュリンが薄緑の輝きをぼんやりと放ち始めた。夏の小川に舞う蛍のような優しい光はランタンの奥ゆかしさに似ていて、それに触れているうち彼女の涙はいつしか止まっていた。僅かに荒い息が辺りに擦れる音だけが微かに耳に届いて、彼女は縋るように宝石を握りしめた。

「大丈夫ですか」

 マリアが抱きしめるように彼女の背に手を回し、問う。まるで母親が怯えて泣いた子供を宥めるような仕草だった。

「ええ、ありがとう、大丈夫」

 立ち上がろうとする彼女の手をマリアが取る。たたらを踏みそうな二人を慌ててカミーユが支えて、暖炉の灯った室内へと促した。

「ベティの行き先に心当たりは?」

 カミーユが後ろ手にドアを閉めながら言った。悲鳴と紛うほど酷く軋む音が部屋に響く。

「友達もいなかったし、学校も行っていなかったから工房くらいしか……だからウェブスターの家に電話を」

 言いかけて、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。彼女は飛びつくように受話器を引ったくると、電話口で叫び始める。

 電話の主はセシルのようだった。工房にはいない、わからない、お願いします、ごめんなさい。彼女はそのような言葉を呟いて、やがて意気消沈したかのように静かに受話器を置いた。

「工房には行ってないみたい」

「じゃあ、どこに……」

「―――死んでしまえって言ったから」

 ぽつりと呟いた彼女の言葉が、暖炉で爆ぜる薪の音に吸い込まれて消えた。ぱちり、ともう一度爆ぜて、赤い蛍のような火花が白い灰の上を舞う。

「そんなにママに会いたいなら死んでしまえって、言ったから……きっとあの子どこかで死のうとしてる。けどあんな小さい子、死ぬ方法なんて分からないでしょう? だからきっとどこかで迷ってるのよ」

 些細なことで喧嘩をしたのだと彼女は言う。喧嘩と言ってもそれは一方的に彼女がベティを怒鳴り付けるだけのもので、やはりベティはきょとんとした顔で彼女を見つめていた。怒鳴っても怒鳴っても一向に反応は見られない。やりきれなくなった彼女がお前なんて死んでしまえ、と言い放った途端、ベティは突然踵を返して自分の部屋に閉じこもってしまったらしい。

 彼女曰くこんなことは日常茶飯事で、食事時になっても部屋から出てこないベティを特別気にすることもなかったとのことだ。どうせお腹が空けば部屋から出てくる。明日の朝になればけろっとした顔で朝食を囲んでいる。いつもそうなのだから、きっと今回もそうなのだと信じ切っていた。

 悪いのは彼女だ。どんな理由であれ、成熟した大人が怒りを理不尽な形で未熟な子供にぶつけてはならない。けれどマリアもカミーユも、これ以上子供のように泣きじゃくる彼女を責めたくはなかった。

 誰かの死によって傷を負った人間が、その傷の深さに泣いているのだから。

 不意に暖炉の炎が大きく揺らいだ。壁際に並んだ写真立てをゆらりと赤い光が撫で上げる。闇の中に暖かく浮かび上がった写真には、見違えるほど幸せな笑顔を浮かべて幼い少女を抱きしめる彼女の姿があった。

 はにかんだ笑顔の少女は、ベティではない。

「会いに行けるのなら」

 炎が再び揺らぐ。ばちりと薪が一度爆ぜて、辺りを照らす光がすっと小さく縮んだ。壁際の写真立ては再び暗い影を落として、かつての幸せはもうこちらに届かない。

「今すぐ会いたいなんて、そんなこと……」

 そうして彼女は少女の名を呟く。永遠に答えの返らない、悲しい名前だった。

 マリアはカーテンの隙間から覗く、深いサファイアの空を見遣った。夜明けはまだ遠く、人々は長い夜の中に取り残されている。夜を彷徨う死人に足がないというのはこの国でも通用するのだろうか。マリアはふと足下に目をやる。ブーツに包まれた二本の足があった。

 草木も眠る丑三つ時。人ではないものが跋扈するという。その中で目を覚ました自分は本当に生きた人間なのだろうか。早く陽が昇って、生と死の曖昧な境目を照らし出してくれたらいいのに。その時自分は一体どちら側に立つのだろう―――

『―――黄昏と瑠璃色の間』

「マリア?」

「ステーション、五番ホーム……黄昏と瑠璃色の間行!」

 マリアは軋むドアを乱暴に開けて、石畳に飛び出した。後ろでカミーユが何事かを叫んだけれど気にしていられなかった。街灯の並ぶ歩道を駆け抜ける。頬を切り裂く風が冷たさを増して酷く痛い。大通りにぶつかる角を北側に曲がったところでカミーユに追いつかれた。

「ベティがこだわってた場所はそこしかない!」

「でも列車はないって説明したんだろ」

「子供がすぐに納得するの?」

 そんなものはないから諦めろ、というのはあくまでも大人の理屈だ。工房の人間はみんな大人だから、子供の理屈を見落としていた。ママを迎えに行きたい。行けない。死んだら会えるけど死に方が分からない。ならばベティの知っている範囲の希望に縋るだろう。

 工房にいないのなら、残りは駅だけだ。

 南口のコンコースが視界に飛び込んできた。明かりの消えたそこに、始発になるだろうバスが放置されている。赤く点滅する信号を無視して道路を横切り、コンコースの真ん中を抜けて階段脇の改札へと滑り込んだ。

 駅舎に人の気配はない。詰め所の明かりも消えている。まずカミーユが封鎖された改札を乗り越え、彼の手を借りたマリアが続く。南北を突き抜ける階段の真下を潜るように線路が横切っている。南口から入って一番手前が一番ホームで、五番ホームだけは西側の外に位置していた。

 ホームを駆け抜けてステーションの西へ出る。朽ちたランプのぶら下がる、小さな五番ホーム。一両分のスペースに設けられたささくれだらけの木のベンチに、ベティの姿があった。

「ベティ!」

 マリアが叫ぶと、ベティははっとしたような表情で顔を上げ、こちらを振り返った。重いベージュのコートの上で白いマフラーが光っている。ほっと息を吐くマリアの横で、カミーユが辺りをきょろきょろと見回す。

「マリア、あっち」

 カミーユに手を引かれてステーションの中へと戻る。ホーム間にかけられた階段を駆け上って、四番ホームへと降りた。西側へ出るとすぐに五番ホームだ。冷たい外気が二人を包んで、昏く透き通ったサファイアの空の下、ベンチに座ったままこちらを見上げるベティの緑の瞳がマリアを確かに射貫いていた。





 五番ホーム。ステーション発黄昏と瑠璃色の間行。あの日ママが登ったお空と同じ色の行き先の列車は、いくら待っても到着する気配がなかった。

 ベティは切符の買い方を知らなかった。だから今日も閉じられた改札に誰もいないのを確認して、こっそり潜って入り込んだ。南の街で暮らしていた頃は、電車もバスもママかパパと一緒じゃないと乗ることが出来なかった。今日は一人だから、きっと乗せてもらえないのだ。

 あのおじいさんは確かに五番ホームから乗るのだと言っていた。駅のどこにも五番ホームの時刻表がなかったのだけれど、きっと気まぐれに来る列車なのだろうとベティは理解した。

 だからあの時オオカミさんはそんなものない、と言ったのだ。いつ来るのかオオカミさんは知らなかったから。

 秋の夜は寒さを増して、ベティの小さな身体から熱を奪おうとする。冷たくて冷たくて身体が震える。それでもせめて朝までは待とうと思った。朝になってラピスラズリの空をオパールの光が埋め尽くしたら、帰ろうと思った。

 でも、どこに?

 ベティが帰る場所というのはママの弟とそのお嫁さんの暮らすおうちではなくて、暖かな南の街にあるママとパパと三人で暮らしたおうちだ。もしステーション発黄昏と瑠璃色の間行の列車がベティを乗せてくれないのなら、朝になってこのまま南の街へ向かう電車に乗ってしまおうか。初めてこの街に連れて来られた時、乗り慣れた南の街の駅からまっすぐ電車に乗ってやって来たのを覚えている。

 だからきっと、まっすぐ電車に乗れば帰れるはずなのだ。パパとママと、ベティが暮らした優しいあのおうちに。

 北の空でオオカミの遠吠えが響く。驚いてびくりと身を竦めたが、しばらくして近くにいるわけではないのだと気が付いた。

 不思議と怖くはなかった。夜というのは歩くだけで恐怖にぶつかるのだと思っていたベティにとって、誰もいない閑散としただけの通りは肩透かしを食らった気分だ。ママもパパもお嫁さんも、みんな夜は危ないだなんてベティに嘘を吐いていたのだ。

 何度目かの遠吠えが響いた頃、世にしたステーションの中からばたばたと物音が聞こえた気がした。それでもぼんやりと足下を眺めていると、

「ベティ!!」

 と、突然名前を呼ばれた。

 驚いて振り返ると、一番ホームの外側に大小二つの人影があった。

 夜闇にさらわれてしまいそうな黒い髪。お姫様みたいな白いコート。白くつららのように細い指が本当はとても温かいことをベティは知っていた。

 二人は慌てた様子でステーションの中へと戻ると、ホーム間の連絡橋を渡って四番ホームに降り立った。駆け寄ってくる少女の顔は酷く泣きそうに歪んでいて、何か辛いことでもあったのだろうかとベティは心配になった。

「マリー……?」

「ベティ」

 ベティはいつものきょとんとした表情でマリアを見つめる。後ろにいる赤毛のお兄さんは工房にいた人だ、と思った。お兄さんは泣くでも笑うでもないベティの様子に戸惑ったようで、二人の顔を交互に見遣っていた。

「……ベティ」

 堪えきれなくなったようにマリーがこちらに駆け出した。

「マリー」

 マリーの足が止まる。ベティの瞳は強さを増して、降り注ぐダイヤモンドの輝きを跳ね返す。まっすぐにマリーへ突き刺された視線は、およそ夢見がちな少女のものとは思えないほど激情に駆られていた。

「どうすればベティは死ぬことが出来るの」

 はっと息を飲んだ。黒真珠の瞳はベティに絡め取られて、逸らすことが出来なかった。

「マリーくらい大きくなったら、わかるんでしょ? 教えて」

 ベティの表情には悲しみとか絶望とか、そういった類いの負の感情はまったく感じられない。ただ純粋に、ベティはママにあいたいのだ。ママにあうために死にたい。死というものが持つ本来の意味も知らず、ひたすらに願っている。

 むしろベティは、何故マリアはこんなにも泣きそうな顔で自分を見つめているのだろうと不思議でならなかった。ママにあう方法を教えてほしいだけなのだ。子供にはわからないことがたくさんあって、それは大人になればわかるのだという。ベティはどうしても大人になるまで待てないから、教えてほしいだけなのだ―――

「―――いつか」

 黒真珠の瞳が大きく揺れる。ほんの少し迷いの色でその美しさを濁らせて、やはりたどたどしいゆっくりとした言葉で語りかけてくる。

「いつかベティがママよりも大人になって、おばあさんになって、そうしたら死ぬことが出来るの」

「……嘘だ、だって」

 あの日南口で跳ねられた人はママやパパよりまだ幼い顔立ちをしていたのに、死んでしまったのだと聞いた。

「マギーはベティよりちっちゃかったのに死んだよ。ベティの方がお姉さんなのに、どうしてベティはダメなの」

 暖炉の前で泣いていた彼女が脳裏を過ぎった。

「ねえ、どうして? ベティが子供だからみんな意地悪するの? 切符が一人じゃ買えないから、列車に乗れないの? 切符が買えるようになったら、ママのところに行ける?」

 一人でステーションから旅立てるくらい、大人になったのなら。

 やがてベティの緑の瞳がぐらりと揺れて、大粒の真珠のような涙がぼろぼろと流れ出した。

 どうしてこんなに願って、ママにはあえないのだろう。あいたいと口にする度に、みんな悲しい顔でベティを怒るのだろう。ラピスラズリに散りばめられダイヤモンドの屑星の、一体どれがママなのかベティにはわからない。だから黄昏と瑠璃色の間へ行けば、星々の瞬きを近くで見つめればママがわかるのではないかと思った。

 ベティはママにあいたくて泣いた。お嫁さんはマギーにあいたいと泣いていた。マリーは一体、誰にあいたくて泣いているのだろう。彼女の後ろで涙を堪えて唇を固く結んだ赤毛のお兄さんは、視線を空に向けて誰かの名前を呟いた。お兄さんも誰かにあうために、瑠璃色の空に旅立つことを願ったことがあるのかもしれない。

 大人になれば、ベティのわからないことは一通りわかるようになるのだと思っていたけれど、きっと大人になってもわからないことはあって、みんなお空の間に向かう列車に乗れないでいるのだ。

 だからきっと、駅の時刻表には五番ホームの文字がない。

「ベティ、戻ろう」

 未だに泣き止まないマリーは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしてベティの顔を覗き込んだ。ベティはその様子がとても痛ましくて、自分が泣くのも忘れてマリーの頬を伝う輝きを指で拭う。

「泣かないで、マリー」

 あなたの黒真珠はとても綺麗なのに、もったいないわ。ベティが言うと、マリーは微かに微笑んで頷いて、あなたのエメラルドもとっても素敵よ、と言った。ベティはそんな褒められ方をしたのは初めてだったから何だか照れくさくなってもじもじと身を捩っていると、マリーの後ろに立ち尽くしたままだった赤毛のお兄さんがマリーの名を呼んだ。

「そろそろ行こう。セシルも先生もきっと心配してる」

 マリーは両手の甲で涙を拭うと、こくりこくりと何度か頷いて、ごめんねベティ、とベティの顔を見ないまま呟いた。ベティはそれに答えられないまま、目の前に差し出されたマリーの左手を取った。

 ママよりも小さくて華奢な手から伝わる温もりが、ベティの冷え切った小さな手をじんわりと温めてくれる。空いていた左手が手持ち無沙汰だったのでマフラーの飾りを握ろうとしたら、お兄さんの大きな右手がふわりと重なって、ゆっくりと包み込んでくれた。

 右手がママで、左手はパパだった。

 だけど二人はもういない。ベティを丘のてっぺんに置き去りにしてママはお空に旅立ってしまったし、パパは一人で勝手に丘を降りてしまった。当たり前のことだけどマリーはママじゃないし、お兄さんもパパじゃない。無条件に愛されて、尽きない温もりを与えてくれた二人はベティの前から突然いなくなって、それはとてもむごいことなのだといつか誰かが教えてくれた。

 本当を言うと、ベティは二人の手の温もりをとっくに思い出せなくなっていた。砂場に積まれた小さな山が風に撫でられて崩れていくように、ベティが黄昏と瑠璃色の間を大地と一緒に回転する度少しずつ二人の思い出が削り取られていく。

「マリー」

「なに?」

「マリーはマリーのママとパパのこと、覚えてる?」

 見上げたマリーはどこかうつろな様子で遠くを見遣るようにして、少しだけ、と答えた。マリーのママとパパもバティと同じようにいなくなってしまったのかなと思い付いたけれど、それは聞いてはいけないような気がして、聞いてしまったらマリーの黒真珠がまたぐらぐらと揺れてしまうような気がして、それ以上は口に出来なかった。

 お兄さんにも聞いてみようかと思ったけれど、もしも覚えていないと言われたらそれはそれでとても悲しいことのような気がした。

 どうしたらママとパパのことを、大人になるまで覚えていることが出来るのだろう。ふと見上げた昏い空を一筋の流れ星が過ぎって、「ママとパパを忘れないでください」とベティは心の中で何度も唱えた。





 結論を言うと、ベティは南の街へ戻ることになった。

 けれどママとパパと三人で暮らした小さなおうちには帰れないらしい。何でもしせつとかいうところで、ベティみたいなママもパパもいなくなってしまった子供達と一緒に暮らすのだそうだ。

 あの日マリーと赤毛のお兄さんに手を引かれてお嫁さんのおうちに戻ったベティを待っていたのは、暖炉の前で小さな写真立てを抱えて泣きじゃくるお嫁さんの姿だった。

 お嫁さんはベティの冷え切った身体を爪先から頭のてっぺんまで眺めると、何も言わずに大声を上げて泣き続けた。写真立ての中ではお嫁さんと、ベティよりもずっと小さなマギーが笑っている。

 しばらくしてママの弟が戻って来て、お嫁さんの方をそっと抱いて二人でしばらく泣いていた。取り残されたベティはマリーに連れられて自室へと戻る。

 ベッドの温もりはとても心地よくて、微睡んでいる間マリーがずっと手を握ってくれていたことを覚えている。マリーはママとちっとも似てやしないのに、ママみたいだ。一度まばたきをして再び目を開けるとラピスラズリの空はオパールで上書きされていて、マリーの姿もどこにもなかった。

 まるで全てが夢のことだったみたい。なんだかお腹が空いたなあ。呆けながら瞼をこすってリビングに出ると、いつもベティが座っているダイニングの机にこうぼうの王子様が腰を下ろして、ママの弟とお嫁さんと何やら話し込んでいた。

 ベティに気付いた王子様がおはよう、と微笑んでくれたのでおはよう、と返す。マリーもいるのだろうかとリビングをぐるりと見回したが、黒い髪をしたお姫様の姿はどこにも見当たらなかった。

 お嫁さんから南の街へ戻りなさい、と言われたのはその日の夜のことだった。

 それから何度か眠って起きて、知らないおじさんがベティを迎えに来たのが今日の朝のことだ。その人はこれからベティの行く、しせつという場所について説明してくれた。そこで暮らすことを望んだわけではないけれど、南の街には帰りたかったし、何よりこれ以上ベティを見て泣き続けるお嫁さんを見ていたくはなかった。この人は、ベティと一緒に暮らすことを望んでいない。

 お嫁さんと一緒に準備した荷物の大きい方はおじさんが持ってくれて、ベティは小さなリュックを背負った。鮮やかな赤色のダッフルコートは昨日クリーニングから戻って来て、ママから貰った大切な白いマフラーも忘れずに首に巻いた。どういった風の吹き回しなのか、お嫁さんは白くて羽の生えたようなブーツをベティに買って来てくれた。いつかママがベティにくれたブーツにそっくりだ。ベティは嬉しくなって、それまで履いていた黒のブーツを適当に脱ぎ捨てた。

 ベティがこの家を出る時、ママの弟はリビングに座り込んで顔を見せなかった。お嫁さんはドアまで見送ってくれて、どこか怒ったような顔のまま、

「さよなら、ベティ」

 と最後の挨拶をしてくれた。さよなら、とベティが返すとほろりと一筋の涙を流して、逃げるようにドアを閉めた。悲鳴にも似た木枠の軋みが辺りに響いて、それからお嫁さんが遠くで泣き叫ぶ声。

 あの日深夜のステーションからマリーとお兄さんと手を繋いで来た道を、今度は知らないおじさんに手を引かれてステーションへと戻って行く。おじさんの手は固くて冷たくて、ちょっとごわごわしている。誰も乗っていなかったバスが放置されていただけだったコンコースには人が溢れ、数台のバスがひっきりなしに入っては人を吐き出して、手当たり次第に吸い込んでステーションを後にする。

 改札口でおじさんに、切符を自分で買ってみたいとお願いしたら笑顔で了承してくれた。券売機に手が届かないのでおじさんがベティを抱えようとしたら、詰め所からエディが顔を出して、小さな脚立を持って来てくれた。

 おじさんとエディに教えて貰いながら、南の街までの切符を買う。手渡されたお金はベティの貯金箱の中身よりもいっぱいで、やっぱり一人じゃあの街に帰ることは出来なかったんだなあ、とぼんやり考えていた。

 券売機から吐き出された小さな切符を手に取ると、エディが脚立から降ろしてくれた。ありがとうとさよならとエディに言うと、初めて会った時のように帽子のつばを引っ張って顔を隠して、元気でね、と答えてくれた。

 エディが切ってくれた切符を握りしめて改札を抜けると、がらんどうだったはずのホームにはたくさんの電車と人が詰め込まれていた。南の街へ行くには四番ホームから電車に乗るらしい。ホームの間に架けられた連絡橋を渡って、四番ホームへと降り立つ。

「ベティ!」

 遠くから大好きなお姫様の声がホームに響いた。振り返ると、白いコートを着たマリーがこちらに大きく手を振っている。首に巻いた赤いストールを揺らしながらベティへと駆け寄ると、ふわりと両手でベティのほっぺたを包み込んだ。

「よかった、間に合わないかと思った」

「マリー」

 マリーの後ろからのんびりと歩いてくるのは王子様と赤毛のお兄さんで、お兄さんはベティに小さく手を振ってくれた。

「あなたがキャメロンさんですか?」

 王子様はおじさんに呼びかける。

「ああ、あなたがウェブスターの」

「はい、セシルと申します。以前父がお世話になったと伺いました」

 キャメロンと呼ばれたおじさんは帽子を外して右手を差し出した。王子様は自分の右手でそれを握り返す。

「いえ、お世話になったのはこちらです。先代であるお父様には一番苦しい時期にご支援いただきまして。何年か前にお亡くなりになって、セシルさんが後を継がれたと噂は耳にしておりました」

「ご挨拶が遅れたうえにお願いごとなんて、厚かましくて申し訳ございません。ベティのこと、どうかよろしくお願いします」

「ええ、ええ、もちろんです。そういえばお兄さんがいらっしゃったと思いますが、お元気ですか」

 王子様とおじさんはすっかり話し込んでしまってこちらを見向きもしない。マリーとお兄さんはベティに目線の高さを合わせてくれて、別れを惜しむようにベティを抱きしめたり、頭を撫でたりした。

「ベティ、これをプレゼントするね」

「プレゼント?」

 マリーは鞄から何やら細いチェーンを取り出して、ベティの首にかけた。銀色に輝くチェーンの先に、白い縞模様の入った赤い石が取り付けられていた。チェーンと同じ色をした台座をひっくり返してみると、薄く模様が彫られている。

「ベティがこれから先、幸せでありますように。お守りだよ。私が作ったの」

「マリーが?」

 マリーは頷く。マリーと同じ、精霊工芸のペンダントだ。嬉しくなってトップを握りしめると、ほのかに手が温かさを帯びてきた。

「さよならだね、ベティ」

「うん、さよならマリー。元気でね」

「うん。ベティも元気でね」

 そう言ってマリーはベティの頬にキスを落とした。赤毛のお兄さんも同じようにキスをしてくれて、いつの間にかおじさんと話し終わった王子様もベティにキスをくれた。冷たい眼鏡の縁が髪に触れてくすぐったい。

「ねえ、こうぼうの王子様」

 呼びかけると王子様は照れくさそうに笑った。

「王子様って訳じゃないんだけどな」

「ねえ、耳を貸して」

 みんなには、特にマリーには聞こえないように、声を潜めて王子様の耳元で囁く。

「王子様、あなた、とっても素敵よ。いつまでもマリーの王子様でいてあげてね」

 マリーはもう少し静かな方が好きって言ってたけど。そう付け加えると王子様は幸せそうに笑って、マリアは大切な僕のお姫様だからね。いつまでも大切にするさと耳打ちしてくれた。くすくすと笑い合う二人の姿を見てどうしたのとマリーは首を傾げていたけど、秘密、と答えて悪戯っぽく笑っておいた。

「さあ、ベティ。そろそろ行こうか」

 街の東から線路を滑り込んできた電車が止まって、ぷしゅーと溜めた息を吐き出すような音を立てて扉が開く。同時にホームへと大勢の人が降り立った。やがて人並みが止んだ頃、ベティはおじさんに手を引かれて扉を潜る。促されるまま一番手前のボックス席に腰を下ろした。ホームに面した車窓の外側からマリー達がこちらを覗き込んでいる。おじさんが窓を上げてくれて、マリーの腕がするりと車内に滑り込んでベティの右手を取った。

「ベティ、元気で。どうかあなたが幸せでありますように」

 マリーの黒真珠は揺れていた。マリーってば本当に泣き虫なんだから。でも大丈夫よね。マリーには王子様がいるもの。金髪碧眼の、素敵な王子様が。

 王子様はマリーの肩をそっと抱いて俯いた。少し離れて赤毛のお兄さんが二人を優しげな瞳で見守っている。さよならお兄さん。さよなら王子様。さよならマリー。

 この電車が出たら、きっとみんなには会えなくなるのだろうとベティはわかっていた。けれどマリーに会いに行くための電車は、南の街からこの四番ホームに繋がっている。ホームにはちゃんと時刻表もあった。もうベティは一人で切符だって買える。だからいつだって会いに来ることが出来るのだ。

 けたたましいベルの音がホームに鳴り響いた。甲高い笛の音を駅員さんが鳴らして、ゆっくりと、本当にゆっくりと電車は西へと滑り出す。マリーの手はまだベティの右手を握っていた。窓の向こうを必死で走って追いかけて来るマリーをホームに残して、電車はみるみるうちに加速していく。

 絡めていた指先が少しずつ解けて、ふっと離れた瞬間、マリーの小さな手は窓の向こうへ消えた。

 ベティは窓から身を乗り出した。ホームの途中でマリーが泣きながら手を振っていた。ベティも必死で体を乗り出して手を振り返す。落ちてしまわないようにおじさんがベティの体を支えていてくれた。

 電車はステーションの西に抜けて、大きく弧を描いて南へと向かう。途中、あの日の真夜中に列車を待った五番ホームの脇をすり抜けた。

 もしもあの日、ステーション発黄昏と瑠璃色の間行なる列車がベティを迎えに来てくれていたら、お嫁さんも一緒に連れて行ってあげるつもりだった。ベティのママは死んでしまった。マギーも同じように死んでしまったのだから、二人はきっと黄昏と瑠璃色の間でベティ達を待ちながら暮らしている。

 遠いなあ、とベティは呟いた。どんなに願っても列車はベティを乗せてくれなかった。それはきっとお嫁さんも同じで、もしも列車がまだあったのなら、ベティとお嫁さんは仲良く手を取って、ホームに群がる人の波をかき分けてでも一番乗りで乗り込んだだろう。ママの弟も近所に住むお嫁さんのパパも三人で暮らしたあのおうちも、全てを捨てて、昼と夜の狭間を目指して旅に出ただろう。

 でもいつかベティがママよりも大きくなって、おばあちゃんになったら死ぬ時が来るのだとマリーが教えてくれた。今のベティが死ぬ方法を探しても簡単には見付けられないようだし、ママが死んだ時ベティが泣いたように、ベティが死んでしまったらやっぱりマリーは泣くんじゃないかなあ。あの黒真珠が揺れて悲しいダイヤモンドを生み出す姿を見ると、何だかとっても悪いことをしている気分になるのだ。それならもう少しだけ、生きてもいいかもしれない。

 線路が大きく弧を描き始めた。赤錆のレールに擦り付けられた車輪が高く悲鳴を上げる。遠くに残されたステーションが少しずつ電車の影に入って姿を消す。マリーの姿はとっくに見えなくなってしまっていた。

 今なら不思議とママとパパの温もりを思い出せる。そしてその上に重ねられたマリーの小さな手の温もりも。風に削り取られて辺りに散りばめられた思い出は、ベティの小さな両手でかき集められて再び小高い山となる。これからしせつで暮らしても、この街のことやマリーのこと、あのこうぼうの優しいみんなのことは忘れたくないな、とベティは思った。

 ステーションの西端が車体に削り取られるように飲み込まれて消えた。やがて人のいない封鎖されたままの五番ホームも車体の影に消えて、電車はまっすぐ南へ向かう。ガタンと一度大きく揺れたのを最後に、車輪の悲鳴が止んで車体は滑らかに加速を始めた。

ベティは今日、南の街へと帰る。ママもパパもいない、いつか三人で幸せに暮らした街へ。

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僕達は黄昏と瑠璃色の間で 桜井 莉子 @tukinowaguma331

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