六文銭の十本刀/1
翌日の昼下がり。――上田城、本丸。
「才蔵、参りました」
ひざまずき、呼びかける。
「入れ」
障子の向こうから主の声が聞こえた。
「失礼します」
才蔵は主の前に座し、頭を下げる。
「楽にしてくれ」
そうもいかない。
相手は友人である前に、仕えるべき主君だ。礼節はわきまえなければならない。――体でそう語る才蔵に幸村は肩をすくめた。
「今日は家臣としてではなく、友として聞いてくれ」
才蔵は頭を上げた。眼前に座す十八歳の若き主君は、黒みがかった栗色の髪を持ち、目鼻立ちがよく、凛々しい若武者そのものだ。だが橙色の瞳は優しさを湛えており、柔和な印象さえ与える。
(……おや?)
ふと気づく。主君のそばにあるべきものがない。
「幸村さま。いつも、あなたの傍にいるあれはいずこに?」
「お前……。補佐すべき頭領に向かってあれはないだろう」
「失礼いたしました」
才蔵は詫びを入れ、切り出した。
「――して、私を呼び出したのは?」
「その頭領のことで相談したいことがあるんだ」
才蔵は肩をすくめる。その表情は「またか」と言わんばかりだ。
「――
「ちがう」
意外だ。他に考えつくのは海野の孫娘、
(もしや、これは本当にただならぬことなのでは……!)
才蔵の顔に緊張が走った。そんな矢先、幸村が言い放つ。
「――佐助がおかしいんだ」
才蔵は目を瞬かせた。
「……は?」
「だから、佐助がおかしいんだ」
幸村はもう一度言った。今度は力強く。
拍子抜けする才蔵。やがて、その肩が激しく震え始めた。
「……なにを言い出すかと思えば、ばかばかしい」
「さ、才蔵?」
恐怖する幸村を才蔵は鋭く
「おかしいだらけですよ! あの猫は!」
「ね、猫?」
「そうですよ! 頭領らしい仕事はしない! 飯を食ったらごろごろ! 起きている間は、あなたにべたべた! これを猫と言わずになんと申しますか! いっそのこと『
「お、お前の言い分はわかった。と、とりあえず落ち着け。な?」
もう、そのぐらいで……と
「だいたいですね! 海野翁がいくら注意しても態度は改めないどころか、今では右から左へ聞き流す始末! 豚に真珠! 猫に小判! 馬の耳に念仏ですよ! そもそも幸村さま! あなたがあいつに甘すぎるのも原因のひとつです!」
才蔵は怒りに身を任せ、すべてをぶちまけた。幸村は相槌を打つだけ。胸に針を刺されていくかのような痛みに、ただじっと耐える。
それから数分、ぜえぜえと才蔵の息が上がった。
さすがに怒りはおさまってきただろう。
おそるおそる、幸村は尋ねた。
「……気はすんだか?」
「は、はい。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
才蔵は息を整えようとする。茶が欲しいと思っていたら、
「はい。どうぞ」
明るい声とともに、頃合いよく茶が差し出された。
「あ、ありがとうございます」
才蔵は差し出された湯のみをかっさらい、一気に飲み干した。ひと息つく。
「すみません。もう一杯――」
途端、湯のみが手から離れた。それは瞬時に、茶を差し出した片手に受け止められた。
「あっぶないなぁ。さいちゃん」
「さ、佐助! お前、いつの間に……!」
才蔵だけでなく幸村も佐助の出現に驚く。
「ここを通りかかったら、さいちゃんがすんごく怒っているんだもん。怒った後は喉が渇くと思ってさ。お茶を淹れてきてあげたの。――おれ、えらいでしょ」
若さま褒めて褒めて、と言わんばかりの佐助に幸村は苦笑するしかない。対して、才蔵は佐助を冷静に観察していた。別段おかしいと感じることはない。普段どおりだ。主君の思い過ごしではないか、そう思っていた矢先のこと。
「ねえ~、さいちゃん」
佐助の上目遣いと猫なで声に、うすら寒いものを感じた才蔵は、つい身構える。
「な、なんですか?」
「おれがさいちゃんに押しつけた仕事ってどれくらいあるの~?」
「しょ、書面がざっと二百枚ほど……」
「そっか。それなら、おれがやるよ」
「えっ……?」
意外な申し出に面くらう才蔵。
本来なら「あなたの仕事ですよ!」と怒鳴るところであるが……できなかった。
「だって。それ、おれの仕事でしょ? だったら、おれがやらなきゃ」
ますます目を剥いた。
思わず「なにか悪いものでも食べたんですか?」、「頭でも打ちましたか?」と間抜けな質問を投げかけそうになったが、ぐっと呑み込んだ。そのかわり、こう返す。
「……い、いいんですか?」
「うん!」
「わ、わかりました。私の物書き机の上にありますから、持っていってください」
「おれ、がんばるよ。――じゃあね。若さま、さいちゃん」
思い立ったが吉日のごとく、鼻歌を歌いながら出て行く佐助。それを茫然と見送る才蔵。しばらくして、ようやく正気に返ったのか、幸村に真顔で言った。
「……幸村さま。たしかに佐助はおかしいです」
「なっ、おかしいだろ」
そらみろ、と言わんばかりの幸村。
佐助が自ら仕事を申し出ることもそうだが、幸村を二の次にするなどありえない! 才蔵の怒鳴り声を聞いて考えを改めたのかもしれないが、佐助に限ってそれはない。別人が佐助に化けたとも考えられるが、佐助はああ見えて、
「そもそも幸村さま。幸村さまは、なにゆえ佐助が『おかしい』とお思いに?」
「……うん」
幸村の表情が曇る。
「実は、気になることを耳にしてな」
「なんです?」
「
才蔵は目を見張った。
死人が出たことも大問題だが、問題はそれが見つかった場所だ。旧臣楼は上田城本丸から見て、北東方向――三の丸の一画にある。塀に囲まれた武家屋敷で、幸村の父――
「同行していた配下の話では、死体はあまり血も出ておらず、急所を一発なんだそうだ。そのことから、下手人は人斬りではなく暗殺に長けた人間だろうと」
望月が言うならそうなのだろう。彼の見立てだ。間違いはない。だが――、
「そもそも、佐助がそれに関係しているかどうかはわかりませんよ?」
それで佐助が『おかしい』と判断するのは、あまりにも早急すぎるのではないか。
「……わかってる」
「でしたら――」
「だが万にひとつ、可能性がないわけじゃないだろう」
これがもし、
だが断言できる。残念ながら、それはない。
この東方四神国において忍は〝四神〟と〝黄帝〟を冠す領主または武家に属することが義務づけられ、完全に組織化している。島の中央に位置する
「――
「才蔵」
主君がちょっと困ったような笑みを浮かべる。
「……失礼しました」
主君の心を少しでも軽くしようと思ってのことだったが、余計なお世話であった。自分ならばともかく、彼のような陽気な気性の持ち主が、このような暗い考えに至れば世も末だ。ともあれ、佐助に対する疑いが晴れたわけではない。
「幸村さま。ひとまず佐助のことは後回しにして、旧臣楼周辺で起きた浪人殺しの件に着手いたしましょう」
いずれにせよ、この本丸に旧臣楼の者が訪ねてくるのは時間の問題であり、放っておけば、やがて城下町にも被害が及ぶかもしれない。起こった事柄を解決することが最優先だ。
うん、と幸村がうなずく。
「そうだな、そうしよう。
「御意」
幸村の決定を才蔵は了解する。
「もう戻っていいぞ。……すまなかったな、面倒をかけて」
「いいえ。では失礼いたします」
才蔵は頭を下げ、退室した。
(まったく、あの人は……しょうがないですね)
才蔵はひと息つき、頭を切り替える。
とにかく今は、主君の心を少しでも軽くするのが先決だ。
さっさと、浪人殺しの件を片づけよう。
佐助と浪人殺しが無関係であるとわかれば、主君は心の底から安心できるだろうから。
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