第4章 流転の日々

18. 粛清

「神よ、私をお許しにならなくとも構いません」


 青年は祈りを捧げていた。

 閉じられた隻眼がじくじくと痛むが、そんなことを気にかける余裕もなかった。


「私は罪を犯します。私は人を殺めます。……未来のため、あなたを信ずる心のまま、私はこの手を穢します」


 固く組んだ指が、爪痕を甲に残す。

 夕刻に紡がれる懺悔。窓の外ではいつかのツバメがじっと眺めているが、ラルフが気づくことはない。


「私は……己が信ずる善のため、人を殺めるのです」


 凍てついた覚悟が、ラルフの決心を揺るがぬものとしていく。


「より良き未来のため、より尊き幸福のため、私は……私は、咎人となりましょう」


 すっくと立ち上がり、青年は短剣を手に取った。

 私室を後にし、いつかの待ち合わせ場所へと向かう。……落ち合うべき相手がそこにいる。

 破滅の運命に囚われた「兄」が、そこにいる。


 ツバメは静かに、その背を見守っていた。




 ***




 その場所にはマロニエの樹が立ち、太古の豪流が土を抉った跡が小さな崖を作っている。陽の光を反射し、細い支流と化した水はきらきらと光をたたえている。

 あの日はまるで断崖絶壁のようにも思えたが、今見れば大した高さでもない。……片目を傷つけたことが、心身に予想以上の負荷を与えたのだろう。

 そう思えるほどにラルフは冷静になれていた。……たとえ目の前にいる相手が、かつて自分を突き落とした相手だとしても。


「アルマンから聞いたよ。……おめでとう。領地の内政に関われるなんて、すごいことだ」


 目の前の相手は、完璧に「ジョゼフ」に成り代わっていた。

 どこからどう見ても、記憶の中の義兄とそっくりそのままだ。……それに、ラルフの記憶の中で、あの日々は随分と遠くなってもいた。


「……お聞きしたいことがあります」

「何かな」

「兄上ならばご存知かと思いまして。……ルイ=フランソワ・フィリップ伯爵の暗殺計画についてです」


 傀儡かいらいを手懐けたのはアンドレア子爵家にベルナール男爵家だった。少なくとも、傍目はためにはそう見える。……領主の椅子に座る者は息がかかった者の方が相応しいと、そう考えた人間は少なくない。

 貴族という立場が意味をなさなくなるのなら、次に必要な権力は血筋ではなく、金だ。揺らいだ足元を盤石ばんじゃくにするには、より多くの資金を得るための立ち回りが必要となる。


 領主の座に着く者は誰だって構いはしないのだ。自らに恩恵さえ与えられるなら、それでいい。

 ……そういった類の欲望の渦中かちゅう、ルイの命は風前の灯がごとく消えようとしていた。


「……別に、彼が死んでも君は困らないんじゃないかな」


 ジョゼフの言葉は正論とも言えた。……ルイが死んだところで、新たな領主を囲い込めばむしろチャンスにもなる。それほど、ルイに対して期待をかけるものは誰もいない。

 張りぼてであればそれでいいし、むしろボロを出し、無様に振る舞うことすら多くの貴族には望まれている。


 だが、それはラルフの望むところではなかった。


「いいえ、それだけはなりません。……前領主にはまだ罪がありました。流行病への対策を怠り、鉄道事業を無理に進行させて財政を圧迫し、ろくに能力も精査せず切り捨てやすい家から役職を取り上げてきました」


 拳を握りしめ、訴えるよう、ラルフは続ける。

 あくまで感情を押し殺し、冷静さを繕いながら、限りなく情に彩られた思いを紡ぐ。


「けれど、ルイ様にはなんの罪もありません。……操り人形として、犠牲となるために育てられ、……このまま屠られるのはあまりにも酷なことに思えます。兄上、そのような血で汚された地位に、なんの意味があるのでしょう」


 ジョゼフは眉をひそめた。前領主のつたない政治は結果論だ。このご時世、失敗せずに舵を取ること自体が難しい。……それは、今後のルイとて同じこと。

 やはり田舎者だ、とジョゼフも思わざるを得なかった。平凡な穏やかさや純朴さを守るべき価値とし、野心もなければ献身も捨てられない。……そんな青年が、貴族の世界で生き延びられるはずもない。神に祈って慎ましやかに生きる方が余程似合いだろう。


「(……俺だってそうしたかった。ただ、仲間たちと静かに生きたかった……)」


 半ば擦り切れた「ジャン」の思いがわずかに浮上する。

 ガアガアと、カラスの声が耳をつんざいた。


「それで……どうしたいんだ」

「私が手を汚します。……無残な死を遂げるべきは、罪人のみです」


 マロニエの枝を、一陣の風が撫ぜる。


「……兄上、私はこの国を導かねばなりません。けれど……民草を救うためには、やらねばならぬことがあります。……駆除せねばならぬ獣がいるのです」


 ジャンの鼓膜を震わせるよう、風が泣いた。

 ああ、この断崖の下で、確かにかつてのラルフは死んでいたのだ。

 ……ラルフは理想のために生きはしない。ラルフにはその手を血で汚すことなどできない。大きな展望の元に犠牲を選ぶなど、ラルフに向いた仕事とは到底思えない。少なくともジャンが見てきたラルフは、そういった人間だ。


「……それは、君の本意?」

「ええ……救われた恩を返すため、私はできる限りの善を成し遂げましょう」


 再び、風がマロニエの枝を震わせる。カラスが飛び立ち、バサバサと葉が散った。

 ……否、やはり、ラルフはラルフのままだった。どうしようもなく純朴に、どうしようもなく優しさを抱えたまま、献身のために罪を抱くつもりなのだ。


「彼らは本来であらば、断頭台に送られるべき命です。……処刑人の手を汚させるか、私が手を汚すかの違いでしかない」


 くらりと、黄昏が翠の瞳を眩ませた。むせ返るような血の匂いが、記憶の底から蘇る。

 ジョゼフならば平気で教えるのだろう。それがたとえ破滅の運命に繋がっていようが、「君がそうしたいなら」と言って教えるだろう。

 彼は他人の生に下手な口出しなどしない。肯定も否定もせず、やりたいことをやらせるのだろう。……そうだ、ジョゼフなら、そうするのがジョゼフらしい。ジョゼフはそうであるべきだ。


「……分かったよ。そこまで言うなら、教えてあげる」


 優美な笑みを浮かべたまま、「ジョゼフ」は幾人かの名前を口にした。……彼らの屍がいずれ己の業として積み重なるのだと知りながら、ラルフも、いずれ血に染まるだろう足元を踏み締める。

 恩に殉じるため涙を凍らせて、粛清の刃は研ぎ澄まされてゆく。


 ──そして新たな革命の時もまた、着実に近づいていた。

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