0-21. 赤松探偵事務所、執務室
「赤松さん、この本は?」
セーラー服の少女が差し出したのは、一冊の翻訳本だった。
赤松治五郎……と、目の前の人物の名前が表紙に記されている。
「それ?昔の依頼人の本だろ」
顎髭を弄りながら、男はからからと笑う。
頬の傷、サングラス、柄物のスーツ……探偵でなくどこかの暴力団構成員だと言われれば、誰もが納得するだろう。
「……1908年初版ですけど」
「だぁから、霊魂の方よ、霊魂」
「同じ名前なのは?」
「あ?あー……それ、あの本か。そんならまたちょっと特殊」
とんとん、と机を叩きながら、壮年の男は虚空を見る。
「ここ来た時にほら、そいつの名前借りようと思ったわけ」
「赤松さんなら有り得ます。……むしろ普段からそんな人だし。……なら、本当の赤松治五郎さんって翻訳家だったんですね」
少女が黒髪を梳く。眼鏡の奥に、爛れた痕を隠すガーゼがちらちらと覗いている。
「小説書く才能とかはちっともなかったけどね。神頼みすらしたのに売れなかったって不憫な人だし」
「神様も冷たい……叶えてあげたらいいのに」
「いやぁ、売れなくて良かったよアイツ」
頬の傷に触れ、赤松は立ち上る紫煙を見つめた。
「……潰れてたよ、きっと」
売れたら売れたで評論家気取りがオチ~と、笑う。
「なるほど……。変なところで止まってる?のもそのせい?」
「続刊出すつもりだったんだって」
ふーっ、と、部屋がさらに煙たくなる。
「馬鹿だよねぇ。名前取られちゃうなんて」
「……?取った?」
「あー、いやいや。こっちの話」
サングラスの奥で、確かに、怪しく光ったものがある。
「赤松さん」
「灯さん!私も片付け手伝いに来ましたよ~って、その本……」
白髪の少女がパタパタと忙しなく駆けてくる。それ以上、赤松に何かを問うことはできなかった。
「懐かしい……!それ、私も読んだことあるんです」
琥珀色の瞳は、なんの翳りもなく煌めく。
「ざくす殿のような殿方が実際にいらっしゃったら素敵でしょうね」
「……ちづる、力だけ強い馬鹿だと思うよ。そいつ」
「何をおっしゃいます!知識がなくとも、ろくな後ろ盾がなくとも、敵を増やそうとも己の道を生きていける……それほどの力を蔑ろになどできるものですか」
まあ、ざくす殿が強いことしか私にもわかりませんが!と、ちづるは胸を張る。
「……そっか。ファンタジー小説ならそんなものなのかな」
「いんや。馬力ってやっぱり大事よ。どっちかは強くねぇと」
だって、それさえありゃあアイツ、続きも訳せたろうしね。
その言葉は、煙とともに溶けた。
「残念なことと言えば、ざくす殿には風格があまり……」
「意外と好みうるさいんだ」
ぴょこぴょこと、白髪の上で白い耳が踊る。
晴れやかな団らんをよそに、吸殻は静かに燃え尽きた。
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