第2章 斜陽の日々

6. アンドレア子爵家

 馬車に揺られて辿り着いた屋敷は、「落ち目」にしては立派ものだった。……もっとも、ラルフに調度品や服装の目利きなどはできない。そもそも「貴族」という立場すら、絵空事のようでピンと来ないのだ。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 優雅に礼をするメイドにたじろぎながら、ラルフは養父となる人のあとを着いていく。


「あらっ、お父様。そちらの子はどなた?」


 と、突然階段の上から声をかけられた。……ただし、ラルフには言葉がわからない。目を白黒させて棒立ちになるしかできなかった。


「……ソフィ。また後で紹介する。部屋に下がっていなさい」

「ふぅん。……つまり、お兄様はお役御免ですか。そんなことだろうとは思いました」


 長い金髪を結い上げた少女……ソフィは、ラルフを視界に入れたとたん、突然ドイツ語になる。そして、ラルフの顔をまじまじと見て……


「なかなか可愛い子じゃない。いつかお芝居に出たら、きっと素敵なハムレットになるわ。持ってる薔薇もお顔に映えて……「おお五月の薔薇よ」なんて、聞いてみたい!」


 ……やはり、ラルフにはわからない言葉で話し出した。


「……ソフィ。まさか、まだ女優になりたいなどと思っていないだろうな?」

「……ええ、ええ。「女優なんて下賎な職、神様に誓って、もう二度と目指したりしませんわ」」


 芝居がかった口調で、ソフィは不機嫌そうに立ち去っていく。……結局、ラルフにはほとんどの言葉がわからなかった。


「……恥ずかしいところを見せてしまったね。あれは長女のソフィ。君よりは年下だろう。もう少ししっかりしてきてもいいはずなんだが……その、少し夢見がちでね……」

「そ、そうなんですか……」


 貴族の娘が女優なんて……と、小声で呟きながら、アンドレア子爵は廊下を進む。だが、ラルフには聞き取れない。

 だからこそ、ラルフにとって気になるのは「理解できた言葉」だけだった。


「ああ、父様、お帰りになっていたのですね」

「……ああ。帰ったよ。ジョゼフ」


 ……その言葉もラルフにはよく聞き取れなかった。

 ただ、「お兄様はお役御免ですか」……というソフィの言葉が脳裏に浮かぶ。


『……本当に、ご子息が……。……それも、ご存命です。それでも、養子が必要とは……』


 何か、良くない事情があるような気がしてならなかった。

 ジョゼフと呼ばれた少年は不穏さなど欠片も感じさせず、にこやかに語りかけてくる。


「初めまして、僕はジョゼフ。このアンドレア子爵家の長男。……よろしく」

「え、あ、お、俺は、ラルフ……です」


 突然の聞き取れる挨拶に、上手く対応できない。元はと言えば子爵に気に入られた挨拶も「ルディ」のものなのだから、当然といえば当然だが……。


「怖がらないで。大丈夫」

「……彼は今後、お前の弟になる。色々教えてあげなさい」

「それはもちろん、そうだと思っていましたよ、父様。長男の僕に何かあればそれこそ一大事だ」


 翠の瞳をすっと細め、ジョゼフは胸に手をやる。その仕草は、ラルフのそれとは比べ物にならないほど優雅だった。


『……病でも患っているのなら、合点がいきますが……』


 顔色や仕草からははいたって健康そうに見えるが、ルディの言うことももっともだ。そもそも大半の言葉が聞き取れないのだから、勘繰るにも情報が足りなさすぎる。……もちろん、教養も。

 だが……ソフィの言葉が、気になってしまう。


「……旦那様、お部屋の準備が出来ました」

「おお、そうか。……ラルフ君、疲れただろう。今日はゆっくり休むといい」

「は、はい……」


 ぎくしゃくとした足取りで部屋に向かう。ふと、ジョゼフのことが気になって振り返ると、


「……ねぇ、あの子、ここに来たばかりで心細いと思うんだ。あとで、話し相手になってあげたい」

「分かりました。……坊ちゃんは、本当にお優しい方ですね」

「当たり前のことをしているだけさ。じゃあ、頼んだよ」


 メイドと何か話をしているのが聞こえた。……言葉は、やはりわからない。

 亜麻色の髪が廊下の向こうへ消えていく刹那、向こうもこちらを振り返る。

 目が合って、思わず縮こまるが……


「……大丈夫」


 口元だけで、そう言ったのがわかった。

 茶目っ気たっぷりに目配せされて、ほっと、肩の力が抜ける。


「なんだ……優しそうな、人だね」

『……そうでしょうか』

「……え?」

『いえ……その……芝居がかっているのは、兄妹そろって同じなのだな……と……』


 ルディはこれまでもラルフの危機を察知したり、安全を確保したり、さまざまな助言で支えてきた。

 だが、先ほどのように言葉を濁すことは珍しい。


「どうされました?何か、不都合でも?」

「あ、いえ、何でもない……です……」


 ドアノブの質感に驚きつつ、メイドに促されて部屋の中に入る。

 ……落ち目、というミゲルの言葉が再び脳裏に浮かぶが、少なくともラルフには「すごい部屋」にしか見えなかった。


「……あの、さ。ジョゼフ……さん?悪い人には、思えないんだけど……」

『それは……。……私も、そうだとは思っています』


 相変わらず、ルディも歯切れが悪い。……と、一人になったことで気が抜けたのか、どっと疲労感が押し寄せてきた。

 鉢植えの「ルディ」を傍らの机に置き、目の前にあるベッドに、おっかなびっくり横になってみる。


「…………」

『……ラルフ様?何か、妙なものでも敷かれていましたか?』

「…………別世界が見える……」

『はい?』

「すごい……なんだろう……。……すごい……」


 寝心地の感動が、全く言語化されない。

 ……修道院を立ち去る前の問答を思い出した。……本当に、賊の襲撃などあったのだろうか。もしかしたら、何も起こっていなかったのかも……。

 楽観的な思いが、やがて、ラルフを深い眠りへ誘った。




「まさか、あの修道院が賊に襲われるとは……。無事逃れられて、幸運だったね」


 夕食はさすがにまだ人前では行えない。

 それでも、子爵自ら作法を教えに来るとは思わなかった。

 ……そして、夢から覚めてしまう一言を聞くとも思っていなかった。


「……あの、あそこにいた子供たちは……」

「…………あ、ああ、きっと、逃げられた子も大勢いるはずだ。そこまで気を落とすことはない」


 子爵には、その惨事が想像できていないのだろう。彼にとっては「賊」の方がどこか絵空事に感じる出来事なのかもしれない。

 生まれついての貴族だ。当然とも言える。


「そう、ですか……」

「……私たちの家系は、元々は商売人でね。……子爵という位は、祖父が金で買ったものだ。……賊の恐ろしさは、言ってしまえば……金銭的な脅威としてでしか、私には……。……済まないね」


 正直に語ってくれることが、むしろ誠実に思えた。


「君には、これからフランス語を身につけてもらわなければならない。……ジョゼフもソフィも、ドイツ語が堪能だが……それは、いずれ商売をするためだ。そのうち、英語や別の言葉も学ばせる。……この家は、いつか、祖父の代で掴んだ夢を手放すしかなくなるからね。私が、至らないばかりに……」


 俯くと、ソフィと同じ色の髪がはらりと顔に落ちる。

 きちんと撫でつけられていなかったのだろう。


「……そもそも、見誤ったのはもっと前の代なのだがね……。内乱などに怯えて逃げ出したから……あのまま大人しくイングランドにいれば……」


 ぶつくさと呟きながら、子爵はハッとしたように顔を上げた。


「食事時にこんな話はするものじゃないね。不愉快だったろう」

「い、いえ。気にしないで、ください……」


 子爵はむしろ、ドイツ語の方に慣れているようにも思えた。

 ……いずれはドイツの方へ向かうつもりなのだろう。どちらの方がいいのか、ラルフにはよくわからない。


「……君に、いずれ家督を譲るつもりなのは、分かっているかな」

「……え、ええと……?」


 寄付する余裕もない家に養子に迎えられるってのは、そういうこったろ……と、脳内でミゲルが言う。だが、ジョゼフは……?ラルフの混乱が止まらない。


「ジョゼフはそこそこ優秀だが……。……あれは、私の子ではない」

「…………えっ」

『……奥方が不貞を働いた、という意味でしょう』

「……そ、それは、その……大変、ですね……?」

「このことが表沙汰になれば、すぐにでも恥を晒すことになる。……もっとも、使用人たちには勘づいているものも多いがね……」


 ラルフにはよく分からないが、とにかく、不貞は宗教的にもタブーだ。……けれど、それはジョゼフに家を継がせられない原因が、ジョゼフ本人の責任ではないということでもある。


『……ずっと隠し通すのが不可能と、感じているのでしょう』


 確かに目の前の人物は、ラルフから見てもどこか頼りない。悪い人ではなさそうにも思えるが……。


「……妻とのあいだには、ソフィがいるが……。男子を授かることなく、産褥の病で他界してしまった。ソフィに良い縁を見つけてやれれば、まだ良いのだが……。生憎と、良い相手にはまだ恵まれていない。彼女もそろそろ13になる……芝居にうつつを抜かしているままでは……到底……」


 その言葉にありありと、焦りが感じられた。

 ジョゼフに家を継がせない口実も、おそらくはまだ考え中だろう。

 ……不安がラルフの胸を満たす。


「大丈夫だ。作法や教養については、まあ、なんとかなる。……そもそも、金で簡単に爵位を買える世の中だ。体裁を整えるだけで、十分だろう」

「あ、あの……ジョゼフ……さんは……どうなるんですか」

「…………優秀な子だ。わざわざ家督を継がなくとも、一人で生きていく道を見つけられる。本人も、既に察しているだろうしね……」


 優雅な仕草、柔らかい微笑、丁寧な物腰……

 確かに、ラルフから見ても立派な人物に思えた。

 ……下手をすれば、目の前の男性以上に。


「私のことは、遠慮なく父と呼んでくれていい」

「……はい……」

「大丈夫だ。考えならいくらでもある。このエドガー・アンドレアに任せなさい」


 そう言って笑った表情が、偽りとは思えなかった。

 ……それでも、「父親」の笑顔にしては、無意味に着飾ったものに感じた。




 ーーラルフ、神はいらっしゃる。だって、私はここの生活を不便には感じていないんだ。こうして日々の糧にありつけて、優しい妻と愛しい子にも恵まれた。なんと幸福なことか……




 夜、再びベッドに潜り込むと、まざまざと過去の記憶が浮かび上がる。

 すべて、幸福な思い出だ。……そして、失った日々の思い出。


「……母さん、元気にしてるかな」


 ラルフが村人に置き去りにされた日、いつも通りに朝食を作っていた母。

 一言も口をきかず、ただ、カバンにいつもより多くパンを入れてくれた。


 彼女がどんな気持ちでラルフを見送ったのか。

 きっともう二度と、知ることはできない。


 あらゆる憂いすら、柔らかなベッドの寝心地の中に沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る