初陣④
「ワシの話?」
アイカは辛味の強い果実水が入ったボトルを両手で持ち、クラウスのグラスに注ぐ。慌ててクラウスも姿勢を正し、両手でグラスを握り直す。
「お酌、というのだったかしら。一度やってみたかったの。親睦を深めるための行為ってお父様から教わったから」
「身に余り過ぎる光栄です。老人の心臓にはちと刺激が強すぎるわい」
「以前も言った様に、ここではただの見習い霊獣士。何も気にしないでほしいですわ。それよりクラウスさんの話を聞かせて下さい」
「そうはいわれても、こんな老いぼれのつまらん人生を聞いても何の糧にもなりませんぞ」
「それを決めるのは俺達だぜ」
レインが興味津々と言った風に姿勢を正す。ハヤトも見張りをしながら聞き耳を立てる。
好奇心に満ちた瞳にせがまれ、クラウスは観念した様に笑うと、やがて静かに視線をグラスに落とした。
「そうじゃのぅ……今から五十年ほど前、儂はこのシルフィード大陸の南にある小さな山奥の村で生まれた。『オリビア』という辺境の村じゃが、太陽と潮風が気持ち良い村じゃった」
「ッ!」
ピクリ、とハヤトの肩が跳ねる。アイカが気付いて顔を向けるが、背中を向けているハヤトの表情までは窺えなかった。
「その村には特に手の掛かる事で悪名高い子供が二人おった。一人がワシで、もう一人がその村の領主の娘、マイサじゃ」
クラウスは大切な宝物を眺める様な、幸せそうな表情で語る。
「最初は顔を合わせればすぐに喧嘩じゃった。その度にこっぴどく両親に怒られた。それはマイサも同じで、互いに大人という共通の敵を見つけたワシ等は協力して悪戯を仕掛ける様になったんじゃ。それからはもう無敵じゃったよ。村中の屋根の色を虹色に変えたり、マイサの父親が趣味で作ったボトルシップで剣劇を楽しんだりとやりたい放題じゃよ」
次々に語られる二人の悪戯はそのどれもがどうしようもなく困ったもので、思わず笑みが零れる。
「やがてワシ等も成人の儀を迎え、マイサがワシに言った。『村の皆が笑顔でいられる為の力が欲しい』と。丁度その頃から内陸での紛争が激しさを増してきて、村からもよく火の手が見えたもんじゃ。村の領主として、マイサは霊獣士を目指す事を決めたんじゃ」
「それでそれで! クラウスさんはどうしたの?」
アイカは瞳を輝かせて聞き入っている。レインもグラスを握ったまま微動だにしない。
「二人共もう分かっておるのじゃろう。読解力を育むという事でここは流してくれんか」
「「はっきりと明確に」」
「……結婚を申し込んだ。『お前が村を守るなら、お前を守るのは俺だ』と、馬鹿みたいな台詞と共に」
「キャ──‼」
「ヒュ──‼」
アイカとレインから歓声が上がる。
「素敵だわ! 素敵だわ!」
「爺さんの照れ顔なんて見たくもなかったが、良い! すごく良いぜ!」
「おーい、一応見張り中だからあんまりはしゃぎ過ぎないように」
ハヤトは後ろを振り返って注意する。
「ハヤト君の言う通りじゃ。という訳でワシの話はこの辺で──」
「それでは続きをどうぞ、クラウスさん」
「……君もか、ハヤト君」
「とても素敵なお話だと思います」
そう言ってハヤトは再び背を向ける。
「それで、マイサさんとはどうなったんだ?」
待ちきれないという風に、レインが続きを促す。
クラウスは観念した様に一度ため息をつくと、再び口を開く。
「そうじゃなぁ……晴れて夫婦となったワシ等は村で盛大な結婚式を挙げた後、村を出て都市にある霊獣士養成所へ入った。当時はそこが霊獣士を育てる唯一の学校だったんじゃ。昔から悪戯ばかりしていたお陰で容量だけは良かったワシ等は直ぐに知識と技術を蓄えていった。養成所を出た後は直ぐに軍に入隊して様々な戦場に出向いたよ。ワシ等二人の連携に敵う者などいなかった。沢山の街や人の助けとなれてワシ等は幸せだった……あの日が来るまでは、な」
「あの日?」
先ほどとは違う空気を漂わせるクラウスに、アイカが尋ねる。クラウスは眼を細め、まるで痛みに耐える様に口を開いた。
「ワシ等が軍に入って三度目の初雪が降る頃、マイサと二人で久しぶりに故郷に帰ろうかと話していた時じゃ。ワシ等の耳にある噂が流れてきた。『突然現れた霊獣士が次々に近辺の村を焼き払っている』と。『
「『霊獣喰い』って、
レインの言葉に、クラウスはこくりと頷く。
「誰なのハヤト?」
聞き覚えの無い言葉に首を傾げるアイカ。ハヤトは見張りを続けながら話し出す。
「『霊獣喰い』のロスト。過去に重大な過ちを犯し、危険と判断された霊獣士に科せられる罰則、
一人の
「まさか、クラウスさんの村を襲った霊獣士って……」
両手で口元を抑え、恐る恐ると言った風にアイカが尋ねる。
「奴がまだ危険霊獣士指定を受ける前の話じゃ。ワシ等は急いで村へと走った。三日三晩走り続けて辿り着いた場所に、もうワシ等の知っている故郷は無かった。潮風の心地良い村は燃える家屋の熱気と焦げ臭い香りが充満し、ただ目を痛めるほどに赤く塗り潰されていた。地獄に迷い込んだのかと本気で思ったよ。その方がどれだけよかったか」
「酷い……」
「そんな地獄の中から奴が現れた。言葉を失い、立ち尽くすワシ等に奴はまるでようやく現れた待ち人を見つけた様に嬉しそうな笑顔を浮かべおった。それもそのはず、奴の目的はワシ等二人、厳密に言えばマイサが目的だったんじゃからな」
「マイサさんの霊獣を喰いに来たのか……」
レインが忌々しそうに言って拳を掌にぶつける。
「霊獣を、食べる? それってどういう事なの?」
「奴は他人の霊獣を捕食し、使役する
「そんな、不可能よ。だって霊獣はその人の心そのものよ? それを喰べるだなんて……そんなことをしたら」
「アイカ姫の予想通りじゃ。霊獣とは魂そのもの。それを奪うという事は即ち、命を奪い取る事に他ならぬ。奴は、ロストは霊獣士の命を喰い盗る地獄の化け物じゃ」
アイカの全身に、悪寒が走る。温かな夜だというのに、アイカは両手で自身の肩を抱く。
「なんて恐ろしい……」
「いいや、本当に恐ろしいのは我獣特性よりもロスト自身じゃ。ヤツはワシ等を誘き出す為だけに、ワシ等の故郷を焼き払った。ワシ等の居場所に目星をつけておきながら、絞り込むのが面倒という、たったそれだけの理由で!」
バキャ! とクラウスの握るグラスが潰れる。ブルブルと震える拳から、怒りを抑えきれずに燃え滾るその瞳から、クラウスの無念が滲み出る。
「ワシ等は戦った。無我夢中で、休みなく走り続けて疲労しているという事も忘れて。溢れ出して止まらぬ怒りに従って目の前の人間を殺す事だけに全てを掛けた。そして、敗れた。当然じゃな。自分達の体調も把握できない半人前のワシ等に倒せる敵ではなかった。そして、無様に地面に伏すワシの目の前で、マイサは喰われた」
最愛の人が目の前で倒れる光景など、それによってもたらされる絶望はどれだけのものか。考えただけでも恐ろしく、その場の誰もが眉間に深い皺を刻み、口を閉ざす。
「マイサの霊獣を奪い、上機嫌になったロストはワシの霊獣をゆっくりと、まるで伸びたチーズを先からちまちまとついばむ様に奪っていった。成す術なく霊獣を喰われ、ここで死ぬのかと思った。じゃが、残り僅かとなった獣力を奪われそうになった時、マイサが最後の力を振り絞ってロストに飛びかかり、自分ごと傍の崖下へ身を投げたのじゃ……崖下に落ちる寸前、マイサはワシに言った。『私を殺してくれ』と。あんなやり方ではロストを倒せないのを分かってたんじゃろうな。それでもワシを助ける為、文字通り捨て身の覚悟で奴をワシから切り離したんじゃ」
「……それで、爺さんはどうなったんだ」
「マイサ達がいなくなった直後に、騒ぎを聞きつけた隣町の人達が来て保護された。目が覚めた時には軍の療養施設に一人で戻っていた。起きて直ぐに気づいたよ、ワシにはもう何もない事を。霊獣士としての獣力も、軍人としての力も、愛する者も何もかも全て。あまりに空虚で悪夢の中にいる様な感覚じゃった」
戦場で心に深刻な傷を負う事は珍しい事ではない。過剰な精神負荷と極度の肉体疲労を連日続けていれば、人は必ず限界を迎える。本来なら場数を踏んでいく内にそういった精神や肉体疲労と自分なりの付き合い方というものを確立していくのだが、それだって限度がある。
たった一晩で今まで育み、大切にしてきた全てを失った男の心情は、正しく空虚そのものだ。
「だがそんな時、妻が最後に残した言葉を思い出した。『私を殺してくれ』という遺言と、霊獣を喰われたにも拘らず、ワシが生きているという矛盾が奴の、ロストの生存をワシに気付かせた。案の定、直ぐに奴はワシ等から奪った霊獣で戦場を闊歩し、傭兵としての名を上げていった。ワシが戦う力もないのに未だ戦場に出るのは奴を、ロストを追っているからなんじゃ」
「……なるほど。それでクラウスさんの獣力が極端に少なくなっているんですね」
ハヤトが納得した様子で言う。
「本来なら奪い尽くされるはずだった獣力が、マイサさんによって中断されたお陰で残った。だから霊獣を奪われても生きていられる。獣力が極端に少ないのも、その大半が今も尚奪われたままだから」
「実の所、最初はもう少し獣力があった。獣武展開は出来なかったが、鉄剣や盾を振るう事くらいは出来たんじゃ。あれから二十年、ワシは死ぬ物狂いでロストを探し回った。軍を辞め、傭兵となって各地の戦場を巡った。その中でロストに遭遇できたのはたった二回。そのどちらも奴を仕留められずに返り討ちにされた。厄介な事に、霊獣を奪われたワシがヤツに近付く度に、残りの獣力が奴へと流れ始めてしまう様で、今ではもう剣を振るう力も無くなってしまった……。じゃが、ワシはまだ生きておる。どんなに衰えようと、立ち上がるだけの力はまだ残っておる。だからワシはヤツを追うんじゃ」
「それは、復讐の為?」
アイカの問いに、
「そうじゃ」
決して揺るがない意を以て、クラウスは宣言する。
ハヤト達に誓う様に、自分に誓う様に。
「妻はもういないが、
なんて悲しい使命だと、アイカは胸が詰まる思いだった。
アイカに限らず、その場の誰もが言葉を失っていた。どんな言葉も、クラウスの覚悟の前には無意味になってしまう気がした。
「すまんな。こんなつまらん話でせっかくの食事を台無しにしてしまった」
「そんな風に言わないで。お願いだから……そんな風に言わないで」
アイカは何とかそれだけを絞り出す様に言う。それで精いっぱいだった。
「……あぁ、そうじゃな」
クラウスはそっと夜空を見上げる。
夜空にはいくつもの星が瞬いている。焚き木が静かに弾ける音を聞きながら、ハヤト達の間に静かな時が流れる。やがて、背中を向けたまま小さな声でハヤトが尋ねる。
「……ロストは、この戦場に?」
「確証はない。じゃが、この二十年奴を追っているワシの感が告げておる。奴は一定の周期で現れよる。そろそろ動き出すはずじゃ」
「もしそのロストという霊獣士が現れたら、私達も一緒に戦いましょう」
アイカは決意に満ちた瞳で立ち上がる。
「これはマイサさんを助ける戦いよ。マイサさんだけじゃないわ。これまでロストに霊獣を奪われた霊獣士達の為にも、必ず私達がロストを倒しましょう!」
「どうすんだハヤト。姫様はすっかりやる気みたいだけど」
「放っておいても一人で突っ込んでいくぞこのお姫様は。それだけは何としても避けたい」
「なら決まりね」
えっへん、と腰に手を当てて言うアイカに、ハヤトとレインは同時に苦笑を浮かべた。
「お主等……」
「クラウスさん。もう一人で戦うのは止めましょう。今のクラウスさんには私達がいるわ。私達と一緒に、今を戦いましょう」
アイカはそう言って、少し悲しそうに微笑んだ。同情だけならば、ここまで痛々しい表情を浮かべることはないだろう。
そして何より、クラウスの芯を揺さぶる事は出来なかっただろう。
「……あぁ、」
クラウスは静かに俯き、ただ一言、
「ありがとう」
深々と頭を下げて、そう言った。
§ § §
ガサリ、と土を踏む音で、アイカの意識は目覚めた。
「んぅ……」
見張りの任を終え、テントで眠りについていたアイカは眠い目を擦って薄い布団から出る。
普段なら気にもしない程度の雑音だったが、丁度体の方も用事があって起きたらしい。
「おといれ……」
誰に言うでもなくそう呟き、アイカはハッキリしない意識のままテントを出る。
テントの近くには似たようなテントが二つあり、一つはクラウスが、もう一つはハヤトとレインが二人で使っている。アイカのテントとは違い、他の二つは内部が薄らと確認できる。
眠い目を空けたくない、しかし何処か気になるので仕方なくアイカは薄目でテントの内部を覗く。ハヤトとレイン、二人が寝ているはずのテントに、人影が一つ足りない。
「私と一緒かぁ……」
先ほどの音の正体に見当がついた事で満足したアイカはもう一つの目的の為に前進する。
「お、こんな夜更けに何してんだ姫様。朝ごはんならまだ早いぞ」
「それともホームシックか? 悪いが朝になるまでは誰もこの拠点から出す訳には行かねぇんだなぁ。寂しかったら子守歌でも歌ってやろうか?」
暇そうに立っていた見張りの兵士達が冷やかしの言葉を口にする。
相手をするのも億劫なほど眠気が強かったので、
「うるちゃい」
とだけ言って、そのまま拠点脇のトイレに入る。トイレは男女共用で、深夜は節電の為電気が消えている。その為、入り口のすぐ横のスイッチを押すまでが少し怖い。
アイカが逡巡していると、背後から兵士達の笑い声が聞こえてくる。流石に真夜中で大半の兵士が眠っている中で高笑いすることはなかったが、それでも聞こえてくる忍び笑いが不愉快で、アイカはさっさと済ませる事にした。
冷たい水で手を洗ったお陰というべきか、洗った所為というべきか、とにかく少しだけ明瞭になった意識でアイカがトイレを出ると、再びからかってやろうという魂胆が見え見えのニヤケ顔で立つ見張りの兵士達に頬を膨らませ、アイカは少し遠回りになるのを覚悟で迂回した道を歩く。
遠回りして自身のテントの前に戻ってきたアイカは、さっさと寝てしまおうと自身のテントに潜り込む。
「アイカ」
もぞもぞと布団に身体を挟んでいると、隣のテントから名前を呼ばれて、アイカは振り向く。
「ごめんなさいハヤト、起こしちゃったかしら」
「ちょっと前から目が覚めてた。それより、何かあったか?」
ハヤトは横たわったまま声だけで尋ねる。辺りは薄暗く、表情を窺う事は出来ない。
「ううん、何でもない。ちょっとお花を摘みにね」
「こんな時間に花を集めにいってたのか? それはあまり感心出来ないな」
「もぅ、馬鹿。お花を摘みに行くって言ったらオトイレの事でしょ」
「あー……そう言えばそう聞いた気がする」
「ちゃんと覚えてよね、私の万能執事でしょ」
「善処するよ」
ふふふ、とアイカは自然に笑みが零れた。不思議な事に、たった数回の会話でこんなにも心が安らぐ。
お蔭で、直ぐに瞼が重くなった。
「ところでアイカ、トイレに行って帰って来る間に誰かにあったか?」
「そうねぇ……見張りの兵士さん達以外は、誰にも会ってないわ……」
「そうか」
質問の意図は解らなかったが、追求する気にはなれなかった。
眠りに落ちる前に見えたハヤト達のテントに、横たわる人影は一つ。
「あれ……そういえば、レインは……?」
うわ言の様にそう呟くアイカに、ハヤトは言った。
「花でも摘みにいってるのかもな」
なによそれ、と言葉にする前に、アイカの意識は穏やかな眠りに落ちていった。
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