3-2 山の神
「うぎゃああぁあぁああっ!」
悲鳴は続くよどこまでもよろしく、縦に長く裂けたクレバスの中を、深く深く落ちていく。恐怖のあまり目をぎゅっとつむり、春待の手をぎゅっと握り締める。容赦ない浮遊感が、尻の辺りから頭のてっぺんまで駆け抜ける悪寒を誘う。
「捕まりましたねー」
「なんで冷静なんだよっ! まだ落ちてるぅうううッ」
「ミナミは少しは落ち着いてください」
べしっと後頭部を叩かれ、僕はようやく悲鳴を止めた。
「ぅううう……死ぬぅ」
「とりあえず、まだ大丈夫ですから。目を開けてください」
淡々とそう言われれば、従わないわけにもいかず。僕はおそるおそると目を開いた。
「え……」
その光景に、目を奪われる。
真っ暗な闇に、きらきらと小さな光の粒子が散っている。身体はまだ宙を浮いているけれど、上にも下にも底は見えず、また落ちてきた地上の光もない。
「なんだ、これ……」
光の届かない海底か、あるいはテレビで観た宇宙のような。耳が痛くなるくらいの静寂と、闇と、
そんなところに、僕らはいた。
「父さまの張った結界です」
「春待の父さま……って。えっと、お山の……」
「ええ。この春待山の主であり、山そのものであり……人間が言うところの、山の神です」
「神様……」
ごくりと、唾をのむ。僕は――神様の怒りに触れたってことか。
「でも、なんで春待まで」
「わたしまでと言いますか、わたしが、こうして捕まりそうだったので、逃げ回っていたのですけど」
そう言えば、落ちる寸前にそんなことを言っていた。
「なんで……父親なのに、娘のことを捕まえようとするんだよ」
「それは――」
春待が、なにか答えようとする前に。低く、重い声が響いた。
『貴様か――我の娘を
周囲には、他の誰の姿もない。頭に直接響くような、違和感を覚える声に、僕は身体を強ばらせた。
「これって……」
「――父さま」
春待が、なにもない空間に向かって呼びかける。
「何度も言っていますが、別にわたしは、ミナミに害されてなどないですけど。無傷です」
え。一体なんの話。
僕が戸惑っている間に、『我こそ何度も言っておろう』と山の神(なんだろう、多分)の声が唸った。
『傷つくというのは、物理的な傷だけでなく、精神の有り様のことも言うのだ。まったく、ヌシは他者だけでなく、自意識への感受性も低いのう』
ぶつぶつと山の神が呟くのに、春待は納得いかない表情だ。
え、なんなの。僕が春待を傷つけたかどうかでもめてるの?
「あ、あの。春待のお父さん」
どこを向きながら喋ったら良いかも、よく分からないけれど。僕が声を上げた途端、『
『貴様のような虫けらなんぞに、お
え。え。なにそれ。僕は「春待のお父さん」って言っただけなのに。怖い。
「あの。す、すみません。僕、今日は春待……えっと、青さんに、謝るために来て……」
『知るかそのようなこと。何故まだ死んでおらぬのだ貴様』
「えぇ……そう言われても……」
無垢姉さんと田巻さんが僕を襲ったのは、山の神の意思だった。つまり、今喋っている声の主が、僕を殺そうとしたんだろうけど。
『うちの可愛い娘を袖にして、傷つけて、よくもまぁおめおめ顔が出せたものだ。
「いえ、だから、あの」
『ばーかばーか』
「ううう……なんか神様のくせに発言がちっさい……」
僕の呻き声に、春待がこくりと頷く。
「神って、古今東西、案外にそういうものだったりしますし」
「えぇ……てか、自分の父親に対して、割りとシビアだな春待……」
「わたしが帰るなり、何故か『我の可愛い青ちゃんを傷つける不届き者は何処の馬の骨かっ死なす!』などと激昂し、感情をコントロールできずにお山だけでなく麓にまで雪を降らせるような父親なので。フォローしようがないのです」
ええぇ。あの季節外れの雪は、そういうことだったのか。僕はてっきり、春待が怒ってだか悲しんでだかであぁいうことしてるのかと思っていたけれど……。可愛い女子とキレるおっさんじゃ、同じ理由で同じことしてても、全然イメージが違うのだけれど。
「結局それで、落ち着かせるために姉さまどころかタヌキまで駆り出されたようですし。わたしはわたしで、『パパの胸のなかに飛び込んで来なさい』などと追いかけ回されますし。まったくいい迷惑なのです」
「え、ちょっと待って。ここ、
『全く、赤の他人の男が一緒になって飛び込んで来るなど、気色が悪いにも程がある』
「ええええぇー。そっちが先にそう言うと、まるで僕が自分から飛び込んだみたいだから訂正してほしい……」
僕がぶつぶつ言っている間にも、春待は不満げな表情を崩さない。少し心配になって、「春待?」と声をかけてみる。
「ほんと、ココに来るのは嫌だったんですけど……」
ぽそり、と呟く春待の声。それをかき消すように、『まぁよい、
『無垢と獣は止めを刺しきれなかったようであるが、こうなれば我が直々に始末してくれる』
「え、あ」
僕がその言葉をはっきり理解する前に、春待が「ミナミっ」と鋭い声を上げ、僕を自分の方へと引っ張った。柔らかい、春待の胸元に倒れ込み――その僕がいた場所を、唐突に現れた鋭い氷柱が刺し抜く。
「ぅおおおおっ!?」
掠めた制服の背中が破れ、スースーする。
『仕損じたか』
舌打ちでも聞こえてきそうな調子で、山の神が言う。
『しかも青ちゃんに、親の前で抱かれおってからに。バーカバーカ死ね』
「くそぉ。発言は
春待が助けてくれなければ、本気で死んでいたぞ、これは。今更、冷や汗が噴き出してくる。
『仕方あるまい。次行くぞ。絶対次で刺すからな。絶対だぞ』
心なし楽しげな山の神の声に、僕はげんなりと呻いた。
「春待。これ、どうにかならないのかよ」
「どうにか、です?」
春待は、むっと考え込む素振りをし。
「……まぁ、やってみましょう」
言うなり、僕のことを突き飛ばした。
「え」
状況が飲み込めない、僕の目の前で。
新たに現れた氷柱に、春待が串刺しになった。
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