1-2 デリート
どうして。なんで、しぃちゃんが。
戸惑う僕に答えるように、担任が口を開く。
「夕顔さんは、健康上の理由で転校の時期がずれてしまい、今日から通学することになった。不慣れな環境で困ることも多いだろうから、助け合うように」
空いている席につくよう促され、しぃちゃんはもう一度ぺこりとお辞儀をすると、一番後ろの席に向かって歩き出した。途中、僕の横を通り過ぎかけ――「しぃちゃん」、と小声で呼びかけると、驚いた顔で僕を見て。その表情が、一瞬でぱっと明るくなった。
「南くん……!」
しぃちゃんの薄い唇が、音を立てずに動く。そのまま、視線だけ名残惜しそうに向けながら、しぃちゃんは自分に用意された席についた。
……しぃちゃんだ。確かに、しぃちゃんだ。でも、どうして。そもそも、なにが、どうなって。
しぃちゃんは今、病院にいるはずだ。病院で、手術を受けるはずで。高嶺とだってそのことを話していたばかりなのに。
本当に、六月二日に戻ったのか? そんなことが、あり得るのか? もし、仮にそうだとしたら――春待は? どうして、転校してくるのが春待じゃなくて、しぃちゃんなんだ?
「なになに、知り合い?」
こそこそにやにやと、五月女が話しかけてくる。一緒にスキーに行ったことなんて、すっかり忘れているかのように。
違う――忘れているんじゃなく、なかったことになっている。
僕は引きつった笑いを浮かべ、黙ってその場をやり過ごした。適当に話を合わせるような器用な真似なんて、今の混乱しかけた頭ではできそうになかった。
※※※
「南くん、久しぶり」
休み時間になると、しぃちゃんから僕の方へやってきた。顔を赤くし、でも例のきらきらした目で。僕をじっと見つめてくる。
「まさか、同じ学校で、同じクラスなんて。すごい偶然だね」
「うん……そうだね……」
しぃちゃんには申し訳ないけれど、僕は少し恥ずかしかった。だって、女子の転校生が初日から親しげに男子と話していたら――ほら、誰だって気になって見るに決まっていて。つまり、教室中の視線がとても痛い。
しぃちゃんはその辺、無頓着なのか、にこにこと
「まさか、南くんもあたしのこと、覚えていてくれたなんて。だって、十年以上ぶりなのに」
「うん……まぁ、なんとか」
やっぱり、昨日のデートどころか、駅やスキー場でのことすら、なかったことになっている――そっちに気をとられ、咄嗟になんて答えるべきか模範解答が浮かばず、曖昧に濁すと。しぃちゃんも少し表情を曇らせ、「あのっ」ともじもじしだした。
「ごめんね、その。嬉しくて、馴れ馴れしくしちゃったけど。迷惑、だったよね」
「あ――ちがくて。そういうんじゃなくて」
「こっちこそごめん」と、僕は慌ててしぃちゃんの勘違いを訂正した。
「僕も、しぃちゃんにまた会えて嬉しいし」
心からの言葉だった。最後の会話を思えば――本当に、こうして元気そうに笑っている姿を見られるのは嬉しいし。
「でも……あのさ、健康上の理由って」
「あー、えっと。大したことはないんだけど、この前まで長いこと治療してたの。でも、最近手術もして、あとは経過観察だから。もう、大丈夫」
そう、ガッツポーズのような格好をしてみせるしぃちゃんに、僕は心底ホッとした。手術は前にもしたって言っていたから、これで今後も大丈夫という保証はないのだけれど。少なくとも今、彼女は元気だ。
※※※
それにしても、これはどういうことなんだろうか。
時間が巻き戻り、しかも状況が以前と変わっている。なにがどうして、こうなったのか。
「まぁ……一番考えられるのは、まぁた春待がなんかやったんだろってことだよな……」
購買へ向かう廊下を歩きながら、ぶつぶつ一人ごちる。
今日という一日は、実にまともだった。転校生が幼馴染みであったというイベントこそあったが、特に大きな問題もなく半日が過ぎた。
それなのに、何故だろう。なんだか心が落ち着かず、そわそわする。
春待が、この巻き戻しの犯人だとして――一体、なにを狙っているんだろう? どうせ、またろくでもないことなんだろうけど。どうせ、他人に迷惑かけるような。どうせ、わがままでどうしようもないような。どうせ。
ふと、向かいから高嶺が友人らとやって来るのが見えた。
そう言えば――春待が学校に来ないということは、比菜子さんの件を解決するきっかけが、できないということじゃないか?
それは、ちょっとまずいような。
なんなら、早めに高嶺と春待を引き合わせないと。とにかくそれには、高嶺に比菜子さんの様子を訊いてみないと。
そう、僕は高嶺に向かって手を上げかけ――その動きを止めた。
だって。今の僕は、そもそも比菜子さんのことなんて知らないはずで。それどころか、今の高嶺と僕には、接点なんて全くなくて。
だから、そう。
高嶺は、僕と目を合わせることすらなく、友人たちと僕の横を通り抜けていった。その背中に声をかける勇気なんて、僕はもちあせていなくて。
分かってる。高嶺は良いやつだから、単なるクラスメイトの僕が声をかけてもきっと無視なんかせずに応えてくれる。でも、その目を見られる自信が、僕にはない。高嶺に、赤の他人を見る目で、見つめられるのが。
――取り敢えず、春待に連絡を取ってみるか。それで、比菜子さんのことを……あぁ、だいたい当の春待は全部覚えてるのか? それとも、他のやつらみたいにみんな忘れてるのか?
「あぁもう、めんどくさいな」
全く本当に、ろくなことをしない。今だってこんな、面倒ばっかりかけて。
僕はイライラとスマートフォンを取り出し、電話帳を開いた――が。
「……あれ? おかしいな……」
焦りが、画面をタップする指と眺める目とを滑らせる。
「なんで……なんで、ないんだ?」
たいして多くもない、登録者名の羅列。そこを繰り返し、何度何度見つめても。確かにあるはずの春待の名は、すっかり消去されてしまっていた。
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