1-3 今更

「なんでだ……なんで、ないんだ?」

 春待とは、今まで何度もスマートフォンでやり取りしたことがある。もちろん、六月二日より以前にも。

 それなのに、春待の電話番号もメールアドレスも――春待の登録情報の全てが、僕のスマートフォンから消えてしまっている。


 なんでだ? 間違えて消去した? 一体、いつ。そんなことがあった覚えはないけれど――これも、おかしな巻き戻りのせいなのか?


 一旦、スマホをポケットにねじり込み、歩き出す。一体、どこへ行こうとしてたんだったか。頭がぐちゃぐちゃして、上手く働かない。心臓がばくばくとうるさい。


「――南くん」

 間近から聞こえた声に、はっとして顔を上げた。不思議そうに、しぃちゃんがこちらを見つめている。

「大丈夫? 顔色、すごく悪いよ」

「え? あ、あぁ……」

 気がつけば。僕はぼんやりと、教室の席に座っていた。

 更に言えば、教室はからで。僕としぃちゃん以外、誰もいないようだった。

「次の時間、体育なんでしょ? みんな、お昼食べ終えて、着替えに行っちゃったよ」

 そういえば、五月女がなにかうるさくしていたような気がする。だけど、どうにも億劫で、動く気になれなかった。


「しぃちゃんは、行かないの?」

「あたしは、今月いっぱいまでは運動しちゃいけないことになってるから」

 笑いながら、しぃちゃんが前の席に座る。

「……なにか、あったの?」

 大きな薄茶色の瞳が、じっと見つめてくる。曇りのないその目に映る自分は、なんだかとても情けない顔をしている。

「なにか……あったって言うか……」

 むしろ、頃に戻ってしまった。

 空っぽの、自分の手のひら。それをじっと見つめていると、なんとも泣きたくなってくる。


 そこに――白く細い指が、そっと重ねられた。顔を上げると、しぃちゃんがはにかんだ笑みを浮かべている。

「あたしね。手術が無事終わって、元気になったら、いろんなことしよって。そう決めてたの」

「……いろんなこと?」

 しぃちゃんは嬉しそうに「うん」と頷くと、「えっと」と一つ一つ自分の指を折った。

「まず、ちゃんと学校に通うことでしょ。二つ目は、友達を作ることでしょ。三つ目は、えぇっと、本で読んだ場所へ行ってみることでしょ」

 指折り数えるしぃちゃんは、本当に楽しそうで。それを、僕はただぼんやりと見つめている。

「それに、ええっと……スポーツにも挑戦してみたいし……それから、えっと。えっとね」

 しぃちゃんが顔を上げる。その表情は、さっきまでとは微妙に違くて。目が合うと、ますます顔が赤くなり、包むように両手を自分の頬に添えた。

「……えっと、その。南くんに、もう一度会いたいなって、思ってたんだ」

「僕に……?」

 真っ赤な顔をしたしぃちゃんは、こくこくと頷いて、「あのね」と少し早口で続ける。

「最後にお別れしたとき、南くん『またね』って言ってたでしょ。だからずっと――元気になったらまた南くんと遊ぶんだ、だから治療も頑張るんだって、小さい頃はそうやって自分に言い聞かせてたの。だんだん大きくなっても、その気持ちがなんだか残ってて。頑張らなきゃってときは、自然と南くんのことが頭に浮かんで」


 その真っ直ぐな言葉と想いに。冷えて固まりかけていた心が、じんわりと心が温かくなった気がした。

「しぃちゃん」

「だからあたし。あたし、こんな偶然。まるで、なんて言うか、運命的で」

 しぃちゃんの手が、また僕の手に重ねられる。空っぽの教室で、熱っぽい目が至近距離で、僕の目を捕らえて放さない。

「……あたし。南くんのことが、好き。ずっとずっと――好きだった」

 ピンク色の、柔らかそうな唇。それが、僕の顔にそっと、近づいてくる。


 しぃちゃん。僕の頭に過るのは、「昨日だったはずの日」の、あの、最後の笑顔で。

 小さい頃から変わらず、僕を想い続けてくれていたしぃちゃん。それなのに一度、手放してしまった、しぃちゃん。そのしぃちゃんが、また、笑顔で僕の前にいて。また、好きだと言ってくれて。

 僕は――僕は。


「……ごめん」

 触れる寸前の唇を、そっとかわし。僕は小さく首を振った。

「南、くん?」

「ごめん。やっぱり……駄目なんだ。ごめん、僕は。だって、僕は」

 だって、また。どうしてもちらつくんだ。こんなときなのに。こんなときでも、頭に浮かぶのは――あの、やたらと目をきらめかせた顔で。あの、ミルクのような甘い香りで。「ミナミ」と僕を呼ぶ、あの声で。


 なのに。それなのに。

 彼女春待は、どこにもいなくて。


「南くん」

 そっと、しぃちゃんの体温が離れていく。しぃちゃんは困ったような、残念そうな、寂しそうな、とにかくそんな顔で、ほんのり微笑んでいた。

「ごめんね。南くんも……他に好きな人が、いるんだね」

「好きな……人……?」


 しぃちゃんの言葉が、頭の中でぐわんと響く。

 今まで、考えないようにしていた。多分それは、考えたって、意味がないからで。どうしようもないからで。むくわれやしないからで。

 彼女にとって僕は、ただの「下僕」で。僕にとって彼女は「命の恩人」で。面倒だけど、仕方のない腐れ縁――そういうものだと、そう言い聞かせてきたけれど。

 あぁでも、そのすら切れてしまった今。多分もう、それこそどうしようもなくて。


 僕は、つと頬を流れる涙をぼんやりと意識しながら、ようやく認めた。


 ――僕は、春待のことが好きだったんだ。

 

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