3-3 さよならの後ろ姿
比菜子さんは僕をちらっとだけ見ると、ぺこりと頭だけでお辞儀をしてから、スマートフォンを取り出した。画面をタップし、誰かに電話をする。
「……あ、もしもし。終わったみたい。うん……うん、公園の近く」
電話を切った比菜子さんは、一つため息をつくと、ちろりと僕を睨むように見た。いや、そう見えたのは、僕の後ろめたさのせいなのか――「それで」と、ぽそり話し出す。
「断ったんだ」
「え? まさか、覚えて」
「身体を貸してる間のことは覚えてないけど。でも、桜庭くんの顔を見れば分かるよ」
思わず、自分の顔を触ってしまう。比菜子さんが鋭いのか、それとも僕が分かりやすすぎるだけなのか。
「あの。今の電話は……」
「青ちゃんたち。念のため、近くで待ってるから。……あ、来た」
比菜子さんが手を振る方を見ると、高嶺が小走りで、そしてそのだいぶ後ろを春待と無垢姉さんが歩いてやって来た。
「比菜子、お疲れさま」
一番に到着した高嶺は、まずそう比菜子さんを労うと、僕に向かって「大丈夫か?」と訊ねてきた。
「え……なにが」
「いろいろ聞いてさ。ショックな部分も、あっただろ。今も、顔色良くないし」
ショック。
僕は、ショックなんだろうか。ショックだとしたら、なにがショックなんだろう。
「夕顔さん」が、しぃちゃんだったこと? しぃちゃんが病気で、大変な手術を控えていること? しぃちゃんが、比菜子さんの身体を借りていたこと? しぃちゃんに告白されたこと? それとも、そんなしぃちゃんの告白を、無下にしてしまったこと?
「うまくいったかしらん?」
ようやく追いついてきた無垢姉さんが、くねくねと声をかけてくる。
「あ、はい。あの、これ」
比菜子さんが差し出した玉を、無垢姉さんはぺろりと赤い舌で唇を舐めながら確認する。
「イイ感じねぇん、おいしそうだわぁ」
「摘まみ食いは太りますよ、姉さま」
「青ちゃんたら冷たぁい」と、泣き真似をしつつ、無垢姉さんが顔を引っ込める。それから比菜子さんに向き直り、くねっと笑いかけた。
「問題ないわぁん。できるだけ早く本人の身体に入れてぇ、あとは様子を見てねぇん」
「は、はい。分かりました」
「急ごう、比菜子。――桜庭、春待さん。また、今度」
ぱたぱたと走り出した二人は、駅の方へと向かっていく。ぼんやりと見送っていると、比菜子さんは一度だけこちらを振り返ったけれど。また
「……あれって……確か、キスしないと溶けないんじゃ」
「あらぁん。ボクちゃんは自分のキスで、あの氷を溶かす自信があるのぉん?」
クスクスというその笑い声は、なんだか小馬鹿にされているように聞こえる。
「僕は、別に」
「大丈夫よん。アレは、数時間で溶けるように調整して作った
「無垢姉さまは、そういう使いどころの微妙な、力の加減に長けてますよね」
「あはぁん。昔、いろいろ遊んでみたものぉ」
「知的好奇心ってやつねぇん」と、またくねくね。何故だろう。きっとろくでもない遊びだったんだろうなとしか思えないのは。
「それで、どうだったんです? デート」
「へ……?」
まだどこか、置いてきぼりにされている感じがしていた僕は。春待の質問も、うまく呑み込めずにただぼんやりと首を傾げた。
「どう、って?」
「他人の身体を借りてまでしたいデートというのは、どういうものなのかと、興味はあります」
なんてことない、いつも通りの春待だ。
ただ、僕の胸奥のどこかで、ちりっと
「……別に。見晴らしの良いところに行って、飯食べて、歩いて……そんな感じだよ」
なんとなく、春待の顔は見たくなかった。視線の外から、「なんだ」と軽い声が聞こえる。
「よく聞く、フツウのデートと変わらないじゃないですか」
だからなんだって言うんだ。
ちりちりと心が焦げる。苛立ちが頭に上る。
「告白は、されたんです?」
「……なんで、そんなことおまえに言わなきゃなんないんだよ」
頼むから、それ以上喋らないでくれ。僕は身体の横でぐっと手を握った。爪が、手のひらに食い込んで痛い。
春待は「なぜって」と、不思議そうな声を出した。
「アナタは、わたしの下僕ですし。それにミナミ、前に不幸な恋愛はすべきでないと言ったじゃないですか。今後の生き死にの曖昧なニンゲンと付き合うのは、ミナミにとって幸福なのか不幸なのか、どちらなのか――」
「っやめろよ!」
気がつけば。
僕は春待の胸ぐらをつかんで、思いきり怒鳴っていた。キョトンとした春待の顔が、すぐ近くにある。「あら、あら」と無垢姉さんの声が聞こえた。
「なにを怒ってるんです?」
「うるせぇよッ! ほんっとにおまえは、他人の気持ちが分からねぇやつだなっ。いい加減にしろよッ」
分かってる。春待がそういうやつだっていうのは充分理解している。知っている。なのに、口は止まらない。
「そんなこと言われても。わたしは、ニンゲンじゃないですし」
春待のキラキラした目に、酷い形相の自分が映っている。イライラする。本当に、イライラする。
「だったら人間のことに口出すんじゃねぇよッ」
「わたしは、ただ恋愛というものを」
「無理だよおまえには。なに言ってんだよ。バカじゃねぇの」
嫌な笑いが、顔を歪める。春待が「ミナミ?」と首を傾げる。
「どうしたんです? いったい。怒ってるんです?」
「黙れよ。黙れ黙れ黙れ」
頭が熱い。くらくらする。胸の内に浮かぶ言葉を、抑えることができない。理性がどこかへ行ってしまって。僕は。僕は。
「もう……おまえには付き合いきれねぇよ」
不意に――視界が春待の顔から空に変わる。全身を浮遊感が包んだかと思うと、ダンッという激しい音とともに、身体が地面に叩きつけられる。
前に進み出てきたのは、無垢姉さんだった。
「――ボクちゃん。たかだか
「……あんたらの、そういう、ニンゲンをただの食事くらいにしか思ってないところが、本ッ気で腹立つんだよっ」
上半身を起こしながらなんとか言うが――すぐに、顎が割れそうな衝撃が走り、また地面に這いつくばる。
「ごめんねぇ、脚が長すぎて、うっかりぶつかっちゃったわぁん」
くねっと、無垢姉さんは笑ったかと思うと――その目が冷たく蒼く光った。全身に寒気が走り、固まる。
「
「う……るせぇよ。もう、充分だろ。充分……あんたらのワガママには付き合ってヤったろうが」
蹴られたときに切ったのか、口の中いっぱいに血の味が広がる。吐き気がする。その気分の悪さを叩きつけるように、僕は怒鳴った。
「これ以上、僕にかかわんないでくれよッ」
「貴様っ」
「――ミナミ」
一人静かな声でそう言ったのは、春待だった。目をつり上げる無垢姉さんの肩に触れ、淡々と頷いている。
「青ちゃん」
「ミナミ。ミナミはわたしといると、辛いのです?」
「……そうだよ。もう、うんざりなんだよ……」
春待から目をそらし、僕は頭を抱えた。喉が詰まるような感覚がする。そう言えば――春待の怒った顔は、見たことがない。
もしかして、無垢姉さんのように豹変するのだろうか。冷たい目で、それこそ、つまらないものを見るように。
――そんな春待の顔は、ちょっと見たくないな。
なんて。でも。
「分かりました」
あっさりとした声が、頭上から聞こえた。
「姉さま。行きましょう」
「青ちゃん、ちょっと」
とんとんとん、という遠ざかっていく足音と、それを追いかける無垢姉さんの声。おそるおそる顔をあげると、春待と無垢姉さんの後ろ姿が見えた。
「おい……」
小さい声で呼びかけたけれど、聞こえた様子もない。無垢姉さんが一度、こちらを振り返ったが、忌々しそうな目つきの温度の低さに、それだけで体温が下がった心地がする。
でも。春待は結局、一度も振り返ることなく。
やがて後ろ姿すら見えなくなり、僕はのっそりと立ち上がった。
「痛っ」
顔を中心に、身体中が痛い。その痛みに、またまたイライラして。
「なんだよ……くそっ」
毒づいた僕の声は、誰の耳にも届くことはなかった。
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