3-2 デート。その結末

 僕はしぃちゃんの顔を見つめた。その手を見つめた。想いをぶつけられた、自分の心の内こそを見つめる心地で。


 なんと言うべきか。僕は意外に冷静だった。少なくとも、あたふたと慌てたりはしていない。

 ただ、自分がなんと答えるべきかは。そればかりは、頭が動こうとしなくて。ただただじっと、しぃちゃんを見つめる。


 しぃちゃんの、細くて白い手。これを、僕が自分から握れば。そうすれば、しぃちゃんは幸せなんだろうか。僕は幸せなんだろうか。

 しぃちゃんは可愛い。ちょっとずれてるところもあるけれど、間違いなく良いだ……うん、多分。一緒にいたら、きっと温かい気持ちでいられることが多くなるだろうし、僕はしぃちゃんが笑っている顔を見ると嬉しくなる。


 そう、きっと。僕は、しぃちゃんを女の子として好きだ。

 だから、だったら。この、僕に差し出された手を握り返さない理由なんて、ないはずなのに。どうして、僕は。


――僕は、なにを躊躇っているんだろう?


 しぃちゃんの唇が、だんだんきゅっとした形になっていく。僕を見つめる目は、うかがうような角度になってきて、左手は祈るように心臓の前で握られている。


「僕は……」

 口の中が乾いてきた。さっき食べたばかりのパンケーキの甘味が、口の中で変に自己主張してくる。

 今日のデートは楽しかった。急だったし、ちょっとバタバタはしたけれど、それでも楽しかった。そう、楽しかったんだ。

 なのに。

 なのに、なんで。

 なんで、僕の頭に過るのは、春待の顔なんだろう。


 今日のデート中、いったい何回、春待のことを思い浮かべただろう。しぃちゃんの顔を見ているときも、しぃちゃんと話しているときも、何度も、何度も。


 春待は、きっと誰が見ても可愛いし綺麗で。でも、目がおもちゃの硝子玉みたいにきらきらしているくせに、表情はさめていて。他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えないし、空気は読めないし、面倒なことばかり押しつけてくるし、僕のことなんて友達どころか対等だとも思っていなくて――あぁダメだまた。今目の前にいるのは春待じゃなくて、しぃちゃんなのに。とても大切な話をしているのに。


 僕は。――僕は。


「……っごめん。僕」

「――うん。分かった」

 絞り出すような僕の言葉に、しぃちゃんはまたあっさりと頷いた。泣いちゃうんじゃないだろうか――そう不安になる僕の気持ちとは裏腹に、とても。とても、柔らかな笑顔で。すごく、素敵な笑顔で。


「きっとね……ダメかな、とは思ってたんだ。でも、言いたかったの。あたしの、自己満足」

「しぃちゃん」

「ほんとに、自己満足なの。だって……あたしね、今、本当は」

 ふと、しぃちゃんの顔が苦し気なものになる。ぐっと息が詰まったように、黙り込んでしまった。

「しぃちゃん……? 具合でも、悪いの」

 さっき、通院していたと言っていたことを思い出して、僕はおそるおそる訊ねた。だけど、しぃちゃんはふるふると首を振ると、再び笑ってみせた。

 だけどそれは、さっきまでとは違う、弱々しいもので。


「あたしね……あたし。南くんに断られて、ちょっとホッとしてるの。だって……隠してることが、あるから」

 隠してること? なんだろう。まさか……実は男でしたとか? いや、まぁそういうことも、可能性としてはゼロではない……のか? いやいやいや、でもうちの母親も、しぃちゃんのこと女の子だって言ってたし……。


 そんな余計なことを考えてしまうくらい、しぃちゃんはたっぷり間を置いて。それからようやく、「あのね」と口を開いた。

「あのね、あたし。今、死にかけてるの」

「……え?」

 聞いた言葉の意味が分からなさすぎて、僕は間抜けな声を出してしまった。

 死にかけてる?……死にかけてる?

「それは。えっと、どういう意味で?」

「……そのまんまの意味」

 ため息をつくような音を立てて、しぃちゃんが笑う。じっと自分の手のひらを見つめて、軽く首を傾げた。

「しかもね、今のこの身体。あたしの身体じゃないんだ」

「は……?」

 立て続けに言われたことを咀嚼しきれず、僕は混乱しかける。どうしよう。もしかしたら、また例のキャトられたい的な、そういう方向性の発言なのだろうか。正直、ちょっと困る。

「南くん、今、失礼なこと考えてるでしょ」

「え、あ。いいえ」

 これっぽっちも、と首を振る僕に、しぃちゃんは疑わしげな視線を向けてくる。これが、いわゆる女の感というやつか。怖い。


「えっとね。あたし、昔から心臓が弱くて」

 しぃちゃんは言葉を選ぶように、ゆっくりとまた話しだした。

「定期的に通院とか、してたんだけど。この前の通院で、急にまた手術しなくちゃいけないことが分かってね。それが、結構難しい手術だって言われて」

 表情こそ変えないけれど、しぃちゃんの声が震えていることに、僕は気がついた。

「手術はしないとダメ。でも、もし失敗して死んじゃったら? あたし……怖くて、怖くて。

 これまでにだって、手術したことはあるの。でも、今回が一番怖いの。なんでこんなに怖いのかなって考えたら……やりたいことがね、できたからだったんだ」

「やりたいこと?」


 しぃちゃんが、くすっと笑って僕の目を覗き込んできた。しぃちゃんの潤んだ目にも、戸惑う僕が映り込む。

「南くんとね、こうしてお出かけして、気持ちを伝えたかったんだ。自分で歩いて、自分で話して――くだらないかもしれないけどね。でもそしたら、勇気も出る気がして」

 そう、小さくガッツポーズを作ったしぃちゃんだったけれど。「でも」とまた眉が下がってしまう。


「手術に向けてすぐ入院になっちゃって。もう、明日が手術なのに。そしたら、ひなちゃんがね、春待さんに相談してくれて」

「春待に?」

 春待にその手の相談をしたところで、ロクな答えは帰ってこないと思うけれど。

「ひなちゃん。前に、その。猫になっちゃったことがあるんでしょ? そのときみたいに……あたしが、ひなちゃんの身体に入って、見た目もわたしみたいにできないかなって」

「……それって」

 たしかあのときは。事故で、比菜子さんの魂が猫に入ってしまったからで。

「それこそ、やばいんじゃ。だいたい、戻すときだってかなりの荒療治って感じがしたけど」

「春待さんも、同じこと言ってたんだけど。無垢さんにも話してくれてね。そしたら、無垢さんの方が、そういう細かいことは得意だからって、手を貸してくれて。

 だから――これは、ひなちゃんの身体。見た目も、無垢さんの術で、あたしに見えるだけで。本当のあたしの身体は今、病院で安静に眠ってるの」

 でも、それもそろそろおしまい。――そう、しぃちゃんは笑うと、つとつま先立ちになって。僕の頬にそっと、唇を寄せた。


 驚く僕と目が合うと、しぃちゃんはえへ、と肩を軽くすくめる。

「ごめんね、騙したみたいになっちゃって。でも――おかげで、すっきりした。これで勇気出して、明日は手術頑張れるよ」

「……うん」

 こんなときに、ほんと、気のきいたことが言えない僕は。もどかしくて、胸の奥がもやもやして。それでも、しぃちゃんは笑ってて。


「今日は、本当にありがとう。またきっと――会えるから。そう思って、あたし、頑張るね」

「……僕、お見舞い行くから」

 なんとか出てきた僕の言葉は、しかし「やだよ」と、しぃちゃんに両断された。

「あたしのこと、ふったんだから。もうあたしに優しくする権利なんて、南くんにはないんだよ」

「え……」

 そういうもんなの? と目を丸くする僕に、「うそ、うそ」としぃちゃんはまたクスクス。

「でも、入院中ってなんて言うか、おしゃれもできないし。だから元気になって退院したら――また、みんなで遊ぼうね」

「……うん」


 頷く僕を見て、しぃちゃんはポケットからなにかを取り出した。丸い、透明なビー玉みたいな。

「それって」

「……あたし、もう戻るね。ただでさえ、身体が弱ってるから、あんまり長い時間離れない方が、ほんとは良いんだって」

 じゃあね。

 満面の笑みから、ほんの少し差し引いたような、そんな笑顔でしぃちゃんは言うと、そのビー玉をぎゅっと握りしめた。


 途端――さぁっと冷たい空気が、しぃちゃんを中心に吹いて。

 思わずつぶった目を開くと、目の前にいたのはしぃちゃんではなく、比菜子さんだった。その手のひらのビー玉は、温かい黄色に変わって、輝いている。

「――しぃちゃん、出てっちゃった?」

「……うん」

 比菜子さんの言葉に、僕は頷き。

 手のひらのビー玉に向かって。僕は小さく「またね」と呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る