3-4 熱愛キスと遠き青い苦味

 比菜子さんは、少し小柄で、黒い癖のある髪を肩より少し長い位置まで伸ばしていて。ほんのり幼さが顔に残っているような。そんな女子だった。


 固まってしまった巨大猫を屋上に置いたまま、僕らは比菜子さんの病室まで来た。比菜子さんは個室のベッドに横になり、身体のあちこちに管を刺されていたり、モニターをつけられていたりと、なかなかに痛々しい姿で。やつれて見えるのも、もう三ヶ月以上寝たきりでいるせいなんだろう。


 その前で、高嶺は固まっていた。手には、《比菜子さんの魂》を握りしめて。


※※※


「き、キス……って」

 輝く塊を受け取った高嶺が、顔を真っ赤にしながら唸った。

「イイです? 彼女の魂は身体から抜け出て、猫と同化してしまっていました。それを切り離したのが、今のソレです」

 春待が指差したのはもちろん、高嶺が怖々と持っている塊だ。

「ソレを今度は、脱け殻となった元の身体に、戻してやる必要があるのですけども。その際、その塊をかす必要があるのですよ。

 そのための熱源が――愛とか恋とか、そういう感情がもつ熱のエネルギーなのです。よく言うじゃないですか。『熱い接吻』だとか。そのが必要なワケですよ」

「はぁ……」

「熱さ、ねぇ」

 胡乱うろんげな顔をする僕らを、春待は意に介することもなく「それで」と高嶺を見て続ける。

「比菜子さんを愛するヒトに、心あたりはあります?」

「へ? あ、いや……」

 もごもごと言うなり、高嶺はうつむいてしまった。


「……両想いじゃなくても良いのか?」

 しばらく置いて。ようやく、ぼそぼそと訊ねた高嶺に、春待は軽く頷いてみせた。

「えぇ。キスをするヒトが、きちんと熱を込めさえすれば」

「ねつ、を」

 おうむ返しに呟く高嶺は、今度は顔どころか耳まで赤くなってしまった。

 更に、時間を置いて。飽きた春待が、冷たくなって固まっている猫の手をいじり始めた頃ようやく、高嶺は口を開いた。とてもとても、端的に。


「俺が、やる」


※※※


 黄緑色の輝きが、比菜子さんの口の中へと押し込まれる。

「これで……き、キス、すれば良いんだよな?」

「はい。アナタの彼女への想いの熱が確かなら、凍った魂が融けて、そのまま身体に戻るはずです」


「俺の、想いが……」

 緊張でか、高嶺の顔が強張る。そんな高嶺の背を、僕は軽く叩いてやろうか迷ったが、結局思いきれずにそのまま腕を下ろした。

 代わりに、その背へと念じるように強く思う。――そんだけ分かりやすく真っ赤になるほどの想いなら、絶対大丈夫だろ、と。


 高嶺が、ゆっくりと顔を下ろしていく。さすがに、と思い顔を背けかけ――二人にじろじろと無遠慮な視線を向け続けている春待の頭を、ぐいっと自分へ向けさせる。

「なんです。急に」

「うるさい」

 すぐ目の前にある瞳と、甘いミルクの香りに負けないよう、きっぱりと言い放つ。そのとき――背後に、さっと光が走った気がした。


「ん……」

「比菜子っ」

 身動ぎしだした比菜子さんを、高嶺がぎゅっと抱き締める。

「良かった……良かった!」

「こう、ちゃん。あた……し。なんか、ゆめみて……」

 寝そべったまま、ゆっくりと視線を巡らせる比菜子さんの目が、僕と春待を捉える。その顔が、実に嫌そうに歪んだ。


「……夢じゃ、なかった」

「はい、現実ですよー」

 春待が、ひらひらと手を振る。僕はなんだか申し訳ないやらいたたまれないやらで、小さく会釈するだけに止めた。


「比菜子。いろいろあったんだけど……最終的には、春待さんが助けてくれたんだよ」

「お化けさんが……」

「タカガネの願いを叶える必要がありましたからね」

 胸を張って春待が頷くのに、高嶺は不思議そうに首を傾げた。


「そう言えばどうして、俺の願いを叶えてくれるだなんて」

「それはですね――」

「あーそれはもう良いからっ、良いから!」

 僕が慌てて割って入ると、やはりと言うべきか、春待は「なんです?」となにも分かっていない顔をしていた。


「あ、の、なぁっ! あの二人、どう考えたってデキテるだろっ!」

「ですが、タキザキにツガイはいないと」

「他校生は考慮してなかったんだよっ悪かったな!」

 気づけば声が大きくなってしまい、ハッとして高嶺らの方を見ると、二人は並んで顔を赤くしていた。


「あの、俺たち別に……」

「ただの、幼馴染みだし……」

 もじもじと言い合う二人を、僕はじとりとねめつけた。

「良いか、春待。あれも言葉通りに受けとるんじゃないぞ。これが、両片想いってやつだ」

「なるほど、確かに指南書で読んだ気がします」

 春待の指南書も、あながち役に立たなかったわけでもないらしい。「仕方ないです」と、春待はふるふると頭を振った。


「タンザニアのことはあきらめるとしましょう」

 あきらめるもなにも、とうとう名前すら覚えなかったじゃないかおまえは。人名すら保っていないし。


 わけが分かっていない高嶺は、顔中に疑問符が浮かべているが――まぁ、教える必要もあるまい。知らぬは仏ということが、世の中にはあるものだ。


「ところで、アナタ」

 春待が、ずいと比菜子さんのベッドへ近づく。まだ春待への警戒心が抜けきらないらしい比菜子さんは、少しびくりとしたが――それでも「なぁに?」と訊ねた。


「アナタ、自分の飼い猫を愛してるです?」

 そう、天井を指差しながら、春待は気軽な調子で言う。

「アナタの依り代になっていた猫、屋上で凍ったままなので。融かすために、あとで愛を込めてキスでもしておいてください。アナタに――彼がしたように」


※※※


「それで、お嬢の標的は無事、その幼馴染みさんとお付き合い始めたんですね~」

 素敵じゃないですかぁ、と田巻さんがお盆を抱き締める。春待はアイスココアを舐めながら、「そうですねぇ」と頷いている。


「そういや、比菜子さん、検査の結果も問題ないみたいで、そろそろ退院だって」

「それはそれは、なおさらおめでたいですねぇ」

 僕が高嶺から聞いた話を付け足すと、田巻さんがまた明るい声を上げた。僕と田巻さんは顔を見合わせて、それからちらっと春待を見る。

「そうですねぇ……」

 相変わらず気のない返事な春待に、僕らはまた無言で顔を見合せた。僕は続ける言葉が見つからず、目の前に置かれたホットコーヒーを一口すすった。――苦い。


「良いじゃないですかお嬢。恋のキューピッドってやつじゃないですか」

「黙ってくださいタヌキ」

 気遣う田巻さんの言葉も一蹴して、はぁと溜め息を吐き、春待はココアをあおった。「タヌキじゃないです田巻ですよぉ」と田巻さんが声を上げるのも無視。やれやれ、とばかりに首を横に振り、人差し指を立てる。


「イイですか。わたしは今、失恋の苦味を味わっているのです」

「はぁ……」

「『青春』の青とは、もともと春の色として古来中国で定められたモノなのです。青とは萌えいずる新緑の色。つまり、苦味を伴って然るべきなのですよ」

「へぇ……」

「タスマニアとの件も、青春の一部だと思えば、この苦味にも意味があるのですよ。ですから、今はしばしこの苦味の余韻を楽しむのです」

「なるほど。お嬢は大人ですねぇ」

 ふむふむと盛んに頷いてみせる田巻さんに、春待はふっと笑ってみせながら、唇についたココアを舐める。

「まぁ、指南書でも、主人公が失恋することで話が進んだりもしますし。恋というのも、なかなか一筋縄にいくものじゃないのです」


 もうなにも言うまい。

 そう心に決めた僕は二人のやり取りをBGMに、また一口、コーヒーをすすった。

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