3-3 どんな姿でも構わないって言ったじゃない

 初めてエスケープというものをしてしまった僕は、罪悪感にきりっと痛む胃と、それ以上にどこか高揚している自分を意識しながら――更にそんなことがどうでもよくなるくらい、わけの分からない心地で、巨大猫の背に乗っていた。ふわふわの毛並みにしがみつき、「アレ、もしかして昔夢に見たネコバスに、今最も近い状況なんじゃ」などと考えもした。


「大丈夫か? 比菜子。重くないか?」

 僕の前に座る高嶺が、巨大猫――いや、比菜子さんに心配げな声をかける。確かに、比菜子さんの身体が猫としては巨大とは言え、三人も乗せて屋根の上をつたい目的地である病院まで行くのは、大変なんじゃなかろうか。

 だけど、健気にも比菜子さんは『ぜんぜん』と首を振った。

『アメになってからね、とても身体が軽いの。それより――』


 言葉を詰まらせた比菜子さんは、たっぷり数拍置いてから、少しばかり声量を下げて続けた。

『こんな格好を、光ちゃんに見られたことの方が、大問題って言うか……』

 理由は聞かなくとも、そのもじもじとした喋り方でお察しだ。良いじゃないか。スコティッシュフォールド可愛いじゃないか。

「どんな格好でも、比菜子は比菜子だろ」

 高嶺はそう言って、猫の首筋を撫でる。なるほど、やはりイケメンは言うことが違う。というか思考回路が違うのだな。


「じゃあ、ずっとそのカッコウのままでもイイです?」

 猫の頭部分に腰かけた春待が、ずいっと話に割り込んでくる。

「いや……」

『それはちょっと……』

 渋る声を上げる二人に、「まったくもう、どっちなんですややこしい」と、春待は口を尖らせた。止めなさい。ほんと空気を読んでくださいマジで。


※※※


 猫の背に揺られること十五分。(たぶん)誰にも気づかれることなく、僕らは比菜子さんの入院しているという病院の屋上に降り立った。


「さて」

 猫の身体から降りた春待は、そのまま比菜子さんと向き合い、小さく首を傾げた。

「アナタ、フツウの猫サイズになれます?」

『え、あの。わから、ない……です』

 猫の表情というのは、猫飼いでない僕にはよく分からないけれど、比菜子さんが戸惑っているのは充分伝わってきた。

 ただ、戸惑っているとかそれ以上に、そもそも春待と目を合わせようとしない。「仕方ないですねぇ」と春待が呟いたのにも、びくりと全身を小さく震わせて――そう、怯えている様子だ。


「大丈夫だよ、比菜子さん。春待は噛みついたりしないから」

『え……っとぉ……はい……』

 比菜子さんがもじもじと自分の顔を撫でる。そういえば、今にも雨が振りだしそうだ。

「そーですとも。ベツに、仮にも猫又なのに、自分の身体を自由に使えないのかとか、思ってもいませんですし」

「だーかーらーおまえはちょっと黙ってなさい」

 完全に萎縮して全身をちぢこませる――ただしサイズは変わらないが――比菜子さんに、「まぁイイでしょう」と言ったのも春待だった。


「それならココで、やってしまうだけの話です」

「やる……って。なにをだ?」

 訊ねたのは高嶺だった。

「なんのためにココまで来たと思ってるです?」

 ――高嶺と比菜子さんが、ひっと息を吸う音がした。

 春待の手に、冷たい空気が集っていく。それは春待の手中で小さな氷の塊となり、陽が射しているわけでもないのに、きらきらと乱反射する。


「イイです? わたしには、人間の魂に働きかけることのできる力があります」

 うさんくさい。うさんくさ過ぎる台詞だが――高嶺と比菜子さんは、春待の手に現れた氷を食い入るように見つめ、そして互いに顔を見合わせたかと思うと、今度は二人して春待をじっと見つめた。

「つまり……どういうこと?」

「つまりですね」

 言ってから、ふと春待は眉をしかめた。すると、くるりと比菜子さんに向き直り、無造作に氷の塊を自分の手ごと、彼女の口の中に突っ込んだ。


『んぐふっ!?』

「――とまぁ、こういうことです」

「おまえ……説明がめんどくさくなったんだろう」

 急に口に手と異物を突っ込まれた比菜子さんは、毛を逆立てて文字通り固まってしまった。


「比菜子っ!?」

 慌てた高嶺が、比菜子さんの身体を揺さぶろうとする――が、ハッとしてその身体から手を離した。

「冷たい……!?」

 比菜子さんの身体が、ぷるぷると震え出す。かと思うと、開きっぱなしだった口から、ふわりとまた氷の塊が浮かび出てきた。先程のものと同じかと思ったが、今度のものは、黄緑色にきらきらと色づいている。


「これで、よし」

 光るそれを、春待がキャッチする。比菜子さんは固まったままだ。意識があるようにも思えず、僕もそっと叩いてみたが、触れた途端、氷のような冷たさを感じ、慌てて手を引っ込めた。

「春待さん……比菜子に、いったいなにを」

「今の比菜子さんは、こちらになるのですよ」

 春待が示したのは、手に持った氷の塊だった。


「ココに、彼女の魂を閉じ込めました。その猫に、もう彼女は入ってないです」

「魂を閉じ込めたって……」

「言いかえれば、今はコレが彼女です」

 呆然とする高嶺に、追い討ちをかけるようなことを言う春待。

「待て待て待て、言葉を選べ説明をはしょるな」

「何故です? どんな格好でも、彼女は彼女――なのですよね?」

 嫌味とかではなく、至極真っ直ぐな目をして訊ねてくる春待を、高嶺は口をぽかんと開けて見ていた。どうでも良いけど、ヒトの名前は覚えないくせに、よくもまぁそういうことだけは覚えているな。


「比菜子……」

 ひたすら疑問符だらけだった高嶺の目に、徐々に感情的な色味が戻ってくる。それは、たぶん「恐怖」――意味の分からない、不可思議なものを怖いと感じる心と。それから、もう一つ、じわじわとわき上がってくる――「怒り」。


「おい、比菜子を――」

「えーっっと、それで、比菜子さんを助けるつもりなんだよな? 春待。な? な?」

 早口に問いかける僕を、春待は怪訝そうに見ながら「はい」と頷いた。

「そのために、わざわざココまで来てこんなことしてるワケですけど。それがなんです?」

 だからこいっっつは、本当に……っあぁもう言うまい。こいつがそういうやつだというのは、もうとっくに理解していたはずだ。

 僕は努めて平静を装いながら、無理矢理にこりと笑ってみせた。


「そ、れ、で。どうやって、比菜子さんを助けるんだ?」

「それはですね」

 春待が、「比菜子さん」を無造作に放る。それを、慌てて高嶺が受け止めると、自分の紅い唇に、人差し指をそっと押し当てた。

「ヒロインを助けることができるのは、古今東西今昔、愛するヒトの口づけだって相場が決まっているのです」

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