3-2 降り注ぐ猫パンチの末路

 どんよりとした雲に覆われた空が、頭上に広がっている。湿っぽい香りのする空気に、雨の気配を感じる。


 目の前の猫は、目を細めてくしくしと顔を洗っていた。猫好きというわけでもない俺でも、うっかり可愛いなと思ってしまいそうな、愛らしい仕草だ。

 ただし――座っているその状態で、二メートル以上もある巨大な猫となると、話は別だ。


「なんで……猫が」

 高嶺も、ぽかんと口を開けながら猫を見上げていた。まさか、自分を見つめていたのがこんな猫(巨大)だなんて思ってもいなかったのだろう。しかも、何故スコティッシュフォールド。更に言えば、ちょっと太りぎみなのか体型が丸い。そこがまた可愛い。


「コレはまた、ずいぶんとリッパですねぇ」

 面白がるように言う春待は、猫の姿にさほど驚いたようでもなかった。

「春待……なんなんだよ、これ」

「見て、分かりません?」

「分からないか……って、言われても」

 どう見ても、圧倒的に猫だとかしか。


 その猫の金色の目の中に映る瞳孔が不意に、縦に鋭く光った。僕らのことをギッと睨み、短い灰色の毛を逆立てる。

 そして――


こうちゃんにちっ、近づかないでッこのオバケーッ!!』


 高い少女の声で叫んだかと思うと、まるっこい手を高らかに上げて、こちらに向かって振り下ろしてきた!

「うわぁッ!?」

 幸いにも、僕も春待も避けきったが、攻撃は止まらなかった。猫パンチが、次から次へと降ってくる。

『あっち行ってあっち行って……ッ光ちゃんから離れてーっ!』

「こ、『光ちゃん』?」

 もしかして、とちらっと見やると、攻撃の範囲外で立ち尽くす高嶺は、猫と僕らとを焦った顔で交互に見ていた。


「感じていた通り――随分と攻撃的ですねぇ」

 楽しげに、春待が笑う。

「春待ッ! なんなんだよこれぇッ」

「分かりませんか? 猫又ねこまたですよ」

 猫又……聞いたことあるぞ。確か、あれだ。妖怪的な。

 注意して見れば、尻尾がふりふりと、尻の方で揺れている。


「通常、よわいを経た猫が力をもって、猫又と変わるのですが……コレはまた、オモシロイ化け方をしましたねぇ」

 春待が解説のようなことをしている間にも、猫パンチの嵐は止まらない。

「面白くないっ! 面白くないぞっ全然! なんとかしろよなんとかッ」

「ウルサイのですよミナミ。まぁ……とは言っても」

 くすりと笑った春待の目が、きらりと光るのを見た――気がした。


「アチラも、わたしをご指名なようですし?」

 愛らしく傾げられた小首。途端、ぞくりとした寒気を、全身に覚えた。

「ひ――」

『ぃいいいいいッ!?』

 巨大猫が、甲高い悲鳴を上げる。つい今まで振り回していたその手が、固い氷に覆われていた。

 春待の紅い唇が、笑みの形にしなる。ゆっくりと、猫の方へと歩きながら。


「なるほど。最近、わたしがタカサキに近づいたから、心配だったワケです? アナタ。それで、やたらと見張っていたのですね」

『や、やだ来ないでお化けッ! やだ、やだぁっ』

 猫が両手をかばいながら、じたじたと暴れる。なぜその場から飛び退かないのか――気がつくと、いつの間にかその両足が地面のコンクリートに


 春待が、とんと軽い音を立てて跳ねた。まるで綿毛のような身軽さで、ふわりと猫の頭上に降り立つ。


「わたしをだと思いながら、喧嘩を売ってきたのでしょう? えぇ、そうです正解です。わたしは――化け物ですから。アナタと、おなじく」

 春待が笑うほどに、周囲の気温がぐんぐんと下がっていく。寒い。湿っぽかった空気が凍り、足元のコンクリートが白くなる。


『ち。ちが……あたしは……っ』

 ガチガチと猫が震えている。それでも必死に首を振るのを無視し、春待は屈んでその顔を覗き込んだ。

いびつな入れ物におさまってしまって。ツラくはないです? 今、ラクにしてあげましょうか」

 笑う春待の手に、空気中の冷気が集まり、氷の塊が生まれる。それは、みるみる間に大きくなっていき――


「止めろっ!」

 叫んだのは、高嶺だった。


「お前――その声、比菜子ひなこだろっ!? なぁっ!」

『こ……光くぅぅんっ』

 猫の大きな目から、ぼたぼたと涙が溢れだす。


「も……もしかして、高嶺の飼い猫……とか?」

「い、いや。違うんだ。比菜子は――」

「ニンゲンの少女、でしょう」

 さらりとそう答えたのは、猫の頭上で澄ましている春待だった。


 意味が分からず、僕はひたすら猫を凝視した。人間――人間?

「どう見ても……スコティッシュフォールドだけど……」

「ミナミは、分からなければ黙ってるのです。所詮、門外漢なのですから」

「うう……」


 なにも言えず黙る僕に――いや、猫の上に立つ春待に、高嶺は猫を見つめたまま答える。

「比菜子は、俺の幼馴染みで……猫も飼ってるんだ。スコティッシュフォールドの、アメって名前の猫……」

「やはりそうですか」

 一人、納得顔で春待が頷いた。待て分からん。どういうことだ。

「つまり、なんらかの理由で、タカモリの知り合いの少女の魂が、この猫の身体にのりうつってしまったのですよ。それによって、入れ物となった猫の身体にも異変が生じ――まぁ、最終的にこうなったのでしょうね」

 なるほど……? 分かるような、分からないような。

「でも……だとしたら、その比菜子っての身体はどうしたんだよ」

「さぁ? 脱け殻のコトは、タドコロが知っているのでは?」

 ちらっと視線を向けられ、高嶺の表情が苦しげなものに変わった。どうでも良いけど、こういうシリアスっぽい場面でまで名前を間違えないで欲しい。


「比菜子は……三月の始めに、事故にあって……それからずっと、意識不明の重体で」

 そうか。高嶺の言っていたショックなできごとって、そのことだったんだな。なるほど、だんだん分かってきたぞ。

「意識が戻るワケないのですよ。身体を動かしたり維持したりする機能をもった魂が、この猫の中に入りっぱなしなのですから」

 春待が屈んで、自分の足元にある猫の額をぺちぺちと叩く。嫌そうに猫――いや、比菜子さんが顔を歪めるが、それを気にする素振りすら見せない。


「よほど相性がイイんでしょうね。それか、猫が飼い主を案じるキモチが強すぎたのか。美談ですが、ここまでくるとメイワクな話です」

 最後に要らない一言まで付け加えて、春待が断言する。

「こうなると、自力じゃ分離不可能なのですよ」

「そんな……」


 呻く高嶺に、猫の身体がのそりと凍った手を伸ばした。

『光ちゃん……』

「比菜子」

 ぽろぽろと。再び、比菜子さんが涙をこぼす。

『あたし、もうダメなのかなぁ……。気がついたら、アメの身体になってて。とにかく、光ちゃんに会いたくて、頑張って……ずっと頑張ってたけど。もう、駄目なのかなぁ』

「そんなこと言うなよ……!」

 猫の手の、凍っていない部分に自分の手を沿えて、高嶺が吠える。


「おまえ、言ったじゃないか。おまえが事故にあって、眠り込んで、全然起きなくて……ショックでだらけきって、部活も辞めようとしてた俺に、言ってくれたじゃないかっ。

 諦めることはいつだってできるけど、手放したら取り戻すのは大変だって……だから、諦めるなら笑顔で見送れるくらいに納得したときだけにしろって!」

 そう叫ぶ高嶺の目にも、いつの間にか涙が浮かんでいて。ひたすら、ひたすら、すがるように、比菜子さんの腕にしがみついている。

「あのとき、ここでっ! 姿は見せてくれなかったけど、おまえの声だった……確かにおまえの声だった!

 だから俺、また頑張ろうって。きっと、おまえも目を覚ますために頑張ってるから、だから俺も頑張ろうって……おまえが起きたとき、恥ずかしいのは嫌だからッ」

『……光ちゃん』

「なのに、諦めんなよ……駄目とか言うなよっ。おまえ、今泣いてんじゃん、笑ってないじゃんか。なのに、駄目とか言うなよぉ……ッ」


 高嶺の背中を、比菜子さんがもう片方の手で抱き締める。ただし、その手はいまだに凍っていて、頭には春待が乗りっぱなしだ。止めろ春待。いい加減、空気を読んでくれ。頼むから読んでくれ。


「いやはや、感動的ですねぇ」

 目尻に浮かんだ涙を軽く拭いながら、春待が嘯いた。僕は知っている。それは感動の涙でもなんでもなく、さっきおまえが大きな欠伸を手で隠していたことを。


 春待は、登ったときと同じくらいの軽さで、比菜子さんから飛び降りた。すぐにクルリと、高嶺らの方を振り返る。


「じゃあ、まぁ。行きましょうか」

「行くって……どこへ」

 戸惑いながらも訊ねたのは、高嶺だった。比菜子さんを庇うように、春待と比菜子さんの間に立ちながら。


「もしかして、春待さんて。比菜子を連れに来た死神――とか」

「あいにく、ウチは動物なら間に合っているので」

 きっぱりと言い切り、春待は「それとも行かないんです?」と首を傾げた。


『あの……行くって、どこへ』

 まだ午後の授業が残ってるけど。もちろん、そんなことお構いなしに、「決まってるじゃないですか」と宣った。

 その手がパッと振られると、比菜子さんの両手足を拘束していた氷が、一気に割れる。パラパラと細かに割れ散った氷の粒が、曇天の中、場違いに光輝いた。その煌めきをミストのように浴びながら、春待はどこまでも軽く、軽く、言ってのける。


「脱け殻のいる病院とやらへ、今から向かうのですよ」

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