SEXPOSURE

菊華 紫苑

序段 ぼくとかみさま

 読者というものは、初めの三行で、その本が面白いか面白くないか決めるらしい。

人間誰でも、探られたくない腹の一つや二つあるというものだが、ぼくは今回、その「腹」を全て開腹手術することにした。だからグロテスクと言えばグロテスクな話しかしないし、人間は尊くて美しい存在(もの)だという意見を否定するつもりはないけれども、ぼくは少なくともそんな事思っちゃいないし、思っていたなら、こんなもの書いたりしない。

 要するに穏やかに、娯楽として、或いは良質な刺激を求めているなら、さっさと見限ってしまえ、ということだ。その手の無責任な無関心は、ぼくは慣れているから平気だ。

 どうしてそれが慣れてしまったのかと言うと、それはぼくが産まれる前まで話は遡る。どうせつらつら鬱憤を晴らすだけのエッセイだから、だらだら、初めから時系列で話そう。


 ぼくの家は、大家族だ。いや、核家族なんだけれども、父母の実家の曾祖母は結構頑張ったらしく、父母は兄妹が多い。そんな兄弟たちが集まれば、核家族でも大人数になる。年に一度、父方の親戚―――便宜的に、神武(しんぶ)家としよう―――神武一族が集まると、古民家は大活躍した。

 神武一族当主は、ぼくの祖父。ただぼくの祖父は、実はこの一族の中では地位が低い。一番地位が高いのは、その妻である祖母キヨ子。そして長子であるぼくの父、三人の妹たち、父と妹の間にいる二人の弟。普通、妹と兄ならば兄の方が地位は高いものだけど、そこにも理由がある。そして子供達、つまりぼく達孫世代へと続く。

 神武家は代々、T県の商店街で、漆器を作る家柄だった。所謂窯元と言う奴だ。けれども祖父は継嗣ではなかったので、祖父は東京に出て行って、勤め人になった。祖父は末の弟だったので、分家としての価値もそれほど期待されていなかったらしい。まあ、窯元と言ったって、地元の特産品にすらならんような、目立たない家だし、某ミステリー作家ファンが興奮するような要素は、神武家にはなかったのだ。とにかく上京した祖父は、同じ会社に勤めるキヨ子に出会う。キヨ子もまた良家の出身で、江戸時代から続く商人の家柄だった。二人は恋に落ち結ばれ、沢山の子供を設けた。その内の一人が、ぼくの父だ。キヨ子の六人の弟たちは、たった一人の姉の晴れの姿を、皆手を取り合って喜んだ。

 ある時、キヨ三郎が死んだ。キヨ三郎はキヨ子の三つ下の弟だ。働き者で勤勉で真面目で、キヨ子も可愛がっていたらしい。彼は、交通事故で死んだ。働き者で勤勉で真面目な三男の旅立ちを、キヨ子だけは見送らなかった。

 「なんで姉さんはそうなんだ!」そう言って、キヨ五郎叔父さんは怒ったらしい。その後キヨ子の実家では不幸が続いたが、キヨ子はそれらのどれにも出席せず、弟たちは終いにはキヨ子を勘当した。キヨ子は別れが辛くて、葬式に出なかったのではない。

 キヨ子が選んだ神が、キヨ子を縛り付けたからだ。

 キヨ子は最愛の弟を喪って、他の一般的な人間がするように、死に、死後に、不幸に何らかの因果関係を求めた。そうでなければ、キヨ子は狂っていた。いや、ぼくから言わせれば、キヨ子のお蔭で神武家は全員狂っているのだけれども。

 そして残念ながら、人間の歴史というものは、一見すると繰り返す様に見える。ぼくは後で述べる理由でそれは違うと思うのだけれども、とにかく、キヨ子は狂うあまり、狂気を正常と認めてくれる組織に所属することを選んだ。怖いもの知らず、末代まで呪う主義のぼくでも、流石にこいつらから報復されて殺されるのは嫌だし、もしぼくが遺した場合に、このエッセイでぼくの両親が神武一族との仲が悪くなっては死ぬに死にきれない。だから彼等の事を、ぼくは「憐み深い人々」と呼ぶことにしよう。日本人というものは、紙の上に書いてあることが絶対だから、ぼくが便宜上でも伏せておけば、何も出来まいよ。ぼくが事実そうだったのだから。

「憐み深い人々」は、その言葉の通り、憐み深かった。人々は助け合い、無償で与えあい、常に笑顔で子供達は聡明で行儀が良かった。

 信条の同じ者達には憐み深かった。同じ信条の者達を助けた。同じ教えを信じる人に与えた。常に笑顔でいられる人だけが生き残り、子供達も生き残るために、一般社会を拒絶した。つまり彼等はそう言う集団だった。キヨ子はそこで「生き返った」が故に、元の世界に戻る事は出来なかったのだ。

 キヨ子の豹変に驚いた祖父は、子供達を地方の単身赴任先に避難させ、離婚しようかとも思ったらしい。ただ、キヨ子は「憐み深い人々」であったが故に、妻として完璧だった。それに関しては悔しいとも思わない。女や男や、妻や夫の出来栄えが信仰心で決まるのなら、今頃日本人は毎日神棚の水を変え、大きな仏壇に沢山の御供え物をし、道端の地蔵に花を捧げるに決まっているのだ。捻くれたぼくでさえそう思うのだから、ここまでエッセイを読んでくれるような人なら、もっと聡明で的確なビジョンがあるんじゃないかと思う。

 話を戻そう。結論から言うと、キヨ子は祖父と添い遂げた。子供達は皆成人し、家庭を持ち、仕事を持って自立した。何も知らず、仕事一本の祖父は、定年後ころりと「憐み深い人々」に夢中になった。その教えの影にどんな間違いや罪があったのか、知ろうともしなかった。いや、知り得なかったのだ。何故なら「憐み深い人々」は、憐み深いのだから。罪など侵さない。過ちなど犯さない。もしそれがあるとするのなら、憐み深くない人々が、憐み深い純朴な人々を故意に傷つけようとしているに決まっている。そうとも、実にそうとも。確かに彼等は過ちを犯さなかったのだ。過ちを過ちと認めなければ、全て正義なのだ。

 だから、ぼくがグレた時、キヨ子達の「憐み」は凄まじい物だった。それについては、第二段に話を続けよう。でもその前に、ここまでぼくの出生がどれだけ複雑だったかを書いたので、ぼく自身のことも書いておこうと思う。そうしないとぼくは、永遠に暗闇の中で読書をしているのと同じなのだから、誰かに灯火を持ってもらわなくちゃ。

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