一七六一年、フランス 〜前編〜
懐かしい匂いがする。デオンの鼻腔を心休まる香りがくすぐったおかげで、少しずつ意識がハッキリとしてきて目が覚めた。
どれだけ寝ていたのだろう、身体が重くて……いや、どちらかというと固まっていて動かせない。
デオンは指先に意識を向けて少しずつ動かしていく、固まった筋肉と関節が解れていくのがわかった。そうして全身の関節と筋肉をほぐしていき、とりあえず身体を起こせるぐらいにした。
「ここは……もしかして私の部屋か?」
辺りを見渡せば見覚えのある家具がこれまた見覚えのある配置で置かれており、壁の染みは記憶のままだ。ここは幼少期を過ごした部屋で間違いない。
「つまりトネールに帰ってきたのか……ロシアからの移動時間を考えると一ヵ月以上は寝ていた事になるな」
一ヵ月も寝ていたのならば体が固まってしまってもおかしくない。
「少しずつ身体が動くようになってきたぞ」
手の平をグーパーしたり足先を伸ばしたりする。さすがに衰えた筋肉だけは戻りそうになかったが。
とりあえず家人を探そう、使用人か、母上のどちらかはいる筈だ。
そう思って腰を上げた瞬間、臀部の辺りが急に緩んでブチャブチャと嫌な音がした。同時に湿った不快な感触を尻で感じ、吐き気を催す程の臭気を鼻に受ける。
要は糞便を漏らしたのだ。衰えた筋肉を無理に動かしたため、腸を締める筋肉に力が入り押し出されてしまったのだ。
「うっ、三十を過ぎたいい大人が漏らしてしまうとは。騎士として恥ずかしい」
騎士でなくとも恥ずかしいものである。しばらくその羞恥に悶えていると、ドアを開けて人が入ってきた。それはデオンが郷愁に駆られた時、真っ先に思い浮かべた女性、母親のフランソワである。
「まあ! 目が覚めたのね」
「母上!」
フランソワは朗らかに微笑んでからデオンの元へと寄ろうとするが、途中で顔を顰めて立ち止まってしまう。
「あぁ、漏らしちゃったのね」
「は、母上! これは違います! いえ違わないのですが」
「大丈夫、わかってるわ。一昨日も糞便の処理をしたもの」
「お、一昨日もですか」
デオンは観念してフランソワに全てを委ねる事にする。考えてみれば、母親に見つかったのはある意味幸いともいえる。
「母上、私はどれくらい寝ていたのでしょう? 一ヵ月は寝ていたと思うのですが」
三十を過ぎた男が母親に尻を拭かれるという屈辱を味わってから、デオンは下着を替えて亡き父が使っていた服に着替えた。
その間にフランソワは慣れた手付きでシーツと布団を取り払って片付ける、それから使用人がやってきて新しいシーツを敷いていく。使用人は一度鼻をひくつかせてから「まあ」と言って色々と察したようで、興味深げにデオンを見つめた。
できるだけ見ないで欲しいと思う。
「落ち着いて聞いて頂戴、今は一七六一年の九月、あなたは一年以上も眠っていたのよ」
「な、い……一年も!?」
「えぇ、悪魔の毒に犯されて一年もね……さっきガレットを焼いたのだけど食べる?」
「は、はい」
さっき鼻についた懐かしい匂いはガレットのようだ。デオンとフランソワは居間の方へ移動する。
「その悪魔はどうなったんです? デュランとクリスは?」
「悪魔はロシアを出てこのヨーロッパの戦地で戦っているわ、表向きは戦場で暴れる強健な兵士という事でね」
「一体何が目的なんだ」
「デュランが調べたところでは、目的はなくてただ戦いたいだけみたい」
「そのタイプか、はっ……デュランとクリスは無事なのですか?」
「えぇ、今彼らは別の任務についているから会えないけど、無事よ」
「そうですか、良かった」
ホッと胸を撫で下ろす。
デオンの目の前にガレットが乗った皿が差し出された。
「それと、あなたが半分悪魔だってことを二人に話したわ」
ポトっと手に持ったガレットが再び皿の上に落ちる。自身が悪魔だということは三十年以上隠してきた事だからだ。
もし言ってしまえば心地の良い三人の関係が崩れてしまう。
しかしいつかは言わなくてはいけない事でもある、何故ならデオンは悪魔の力によって不老となっていたからだ、何年か経てば老けない事に気付いて、そこから悪魔だと判明するだろう、そうなる前に話さなくてはいけない……と思いながら二十年ぐらい悩み続けていた。
「実は、ロシアであなたが倒れた時、医者に診てもらった時に判明したそうなの。だから隠しておくよりはと思って私が話したの、ごめんなさいね」
「いえ、黙っていた私が悪いのです。それで二人はなんと?」
「デオンの強さが悪魔由来と知って納得……だそうよ、それだけ」
「えっ……それだけ? 罵倒とかそういうのは」
「ないわよ」
予想外だった。てっきり悪魔だと話してしまえば、何十年も騙していた事を怒るだろうと思っていたからだ。
考えてみれば、怒っている相手をわざわざトネールまで運ばないだろう。
「他には、何か?」
「そうねぇ、クリスがあなたの代わりを務めてることかしら」
「なんですって?」
「クリスがデオン・ド・ボーモンと名乗って、竜騎兵として前線で戦ってるのよ、あなたと同じく髪を伸ばして、ブロンドに染めてね」
「どうしてそんなことを!?」
「あなたを守るためよ、いつまでも老けなかったら、あなたが半分悪魔だという事に世間が気付いてしまうわ。一般人ならともかく、まがりなりにも貴族のあなたならまず間違いなく殺されてしまう。
それを避ける為に、今後クリスがデオンのフリをすると言ったの」
なんという事だろうか、恨むどころかデオンを気遣って策を練ってくれたのだ。本来ならそんな策など力づくでも断るところだが、時間が経ちすぎているため受け入れるしかない。
デオンは後で知る事になるのだが、昨年末に、クリスがデオンに扮してルイ十五世に謁見しているため、今更名乗り出ても信用されないどころか、むしろクリスの立場を危うくしてしまうかもしれなかったので、黙っている方が賢明だった。
「そう……ですか」
「デュランはそれを補佐するために宰相に登り詰めて情報を操作してくれてるわ」
「全く、彼等にはもう頭を上げられませんね」
脳裏に二人の顔が浮かび上がる、すると、自然と目頭が熱くなり雫が頬を伝って膝に落ちる。
「これから……どうするの?」
フランソワが優しく尋ねるが、その声音は既にデオンが何と答えるかわかっている風でもあった。
「無論、成すべき事を成します……悪魔狩りとして、あの強大な悪魔を倒します」
涙を拭いてデオンは決意を固める。クリスとデュランは大きな隠し事をしてきた自分のために命を掛けてくれた。本来なら恨み辛みを募らせて殺してしまってもおかしくはないのにだ。
なれば今度は自分が彼等の忠誠に命を掛けて応える番だ。
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