一七六〇年、ロシア 〜後編〜
「どうやら追ってこないらしいな」
「みたいですね」
冬宮殿を脱出し、宵闇に紛れてサンクトペテルブルクを駆け抜けたデオンとクリス。二人は適当な場所に隠れて周囲の様子を探るが、先の悪魔憑きが追ってくる気配を感じなかったのでひとまず肩の力を抜いて安堵の溜息をつく。
「デオン様、まず怪我の治療をしましょう。応急処置をしますので傷口を見せてください」
「ああ、すまな……ぐっ」
気を緩めたのが原因なのか、肩の矢傷が猛烈に痛みだしてあやうく悲鳴をあげそうになった。更に出血が多かったせいか睡魔も襲ってきたので、デオンの意識は星空へ吸い込まれるように少しずつ溶けて失われていく。
「すまないクリス……あとを、頼む」
「デオン様!!」
クリスがしきりにデオンを呼ぶが、既に耳の中でくぐもってまともに聞き取れない、また、意識を完全に失う寸前でようやく自分が地面に倒れていた事に気付いた。
――――――――――――――――――――
数時間後。
皇帝の宮殿があるサンクトペテルブルクでも治安というものは維持できない。その市内でも、特に治安の悪い地区に
悪魔の攻撃に倒れたデオンは現在病院で手当を受けている最中だ。クリスは待合室で治療の成功を神に祈っている。
クリスの伝令を受けてデュランが病院に来たのは、デオンの治療が始まってからしばらくしてだった。その頃にはもう日の出が近かった。
「デオンは……まだ治療中か」
「はい、デュラン様もご無事でなによりです」
「君もな」
「あれから何か変わりはありましたか?」
「いや……朝になったら調べようとは思っているが」
「そうですか」
「……」
「……」
二人の間に重い沈黙が流れる。
いつもはデュランが会話を先導しているのだが、それはデオンが間に入り、潤滑油になっていたからこそ気兼ねなく出来ていたとこがある。たとえデュランの位が上であっても、やはりデオンが自分達を引っ張っていたのだ。
「ふぅ……駄目だな、ここに来てデオンの有難みを実感したぞ」
「えぇ、そうですね」
「弱気になってる場合ではないな。今出来ることを考えよう」
「はい……では、そうですね……魔術教団はどうしてあの悪魔を呼びだしたんでしょう?」
今後の身の振り方ではなく魔術教団の動きについての考察から入る、自分達の動きについては、デオンの治療が終わらない事には何ともいえないとこがあるのでひとまず後回しにしたのだ。
「普通に考えるなら、組織ぐるみで暗殺したい奴がいたとかだな。例えば……政敵とか」
「あの悪魔は今頃暗殺に向かったのでしょうか?」
「それはどうだろうな、見たところ目的を伝える前に召喚者が全員殺されたみたいだからな」
「本末転倒ではないですか、何故彼等はそんなリスクを犯したのでしょうか?
いえそういえば魔術教団は
「いや、悪魔召喚が出来てる時点でそれなりの知識は有している。
そもそも悪魔を召喚する方法が書かれた本はいくつかあって市場に出回っている、有名どころで『ソロモンの鍵』や『天使ラジエル』とかだな。
それらを纏めてグリモワールと呼称されているんだが。そのグリモワールに書かれている悪魔召喚の方法がだな、どれも違うんだよ。
同じ悪魔の召喚でも、対価が違ったり、呪文が違ったりしている」
「それは、ウケ狙いの作家がデタラメに書いているからでは」
「そうかもしれない、だが悪魔召喚自体はどれも成功するんだ」
「つまり全て本物?」
「いいや、召喚は成功する。だが悪魔を意のままに操ることはできないんだ。例えば、用意した対価を受け取らずに召喚者を食い殺したり。
悪魔召喚で願いを叶えられるのは、運良く生き延びて悪魔に認めて貰った人間だけだ」
「何故そのような事」
「わからん、これはデオンの仮説なんだが、ほとんどのグリモワールは一人の人間によって書かれたのではないかって」
「目的は?」
「さあな、人間をいたぶるためとか、召喚を中途半端にする事で人間の世界を悪魔が自由に歩くとか、人間に悪魔を支配させないためとか、色々思い浮かぶが……俺とデオンは、本物のグリモワールを隠すためだと思っている」
「本物?」
「そうだ、中途半端な儀式しか書かれていない偽物をバラ撒いて、悪魔を意のままに操る術を書いた、本物のグリモワールの存在を悟らせないためじゃないかとな」
「待ってくださいデュラン様! その仮説が本当なら、魔術教団はグリモワールを集めて、本物を探しているという考え方ができるのではないでしょうか?
例えば偽物を実際に使うことで
「その考え方もあるが」
あくまでこれは仮説の話、憶測の域をでない。事実では無いことを話しても仕方ないので、グリモワールの事はさておいて、ひとまず悪魔狩りの報告をどうするかについて話し合う事にする。
そうしようと決めたその時、ようやくデオンの治療が終わったらしく、病室から医者がでてきた。
すかさずクリスが医者へずいっと詰め寄って問いただす。
「先生、デオン様は!?」
「落ち着いて、まあ出来ることは全部やった。生命も何とかなりそうだ」
その言葉を聞いて二人は心の底から安堵の溜息を吐いて強ばっていた表情を緩ませる。だが、それも続く医者の言葉で直ぐに固まる事になる。
「人間なら死んでた怪我だよ、助かったのは半分は悪魔だからだろうね」
――――――――――――――――――――
デオンが悪魔、医者はそう言った。より正確には半分悪魔であるが、デオンに悪魔の血が流れている事は初耳であるし、なにより信じられない事だ。
当然デュランとクリスはその場で強く否定したのだが、医者が病室へ招いて事実を見せると言うので従う事に。
「まずこれを見てくれ」
ベッドで眠るデオンの元へ着くと、医者は掛けていた布団を少しだけ剥がして彼の上半身を晒させる。寒さ対策に厚着させた布を一部捲ると、そこには綺麗な肌が見えた。
「これがどうかしたのか?」
デュランには医者の言いたいことが理解できずにいる。しかしクリスは異常に気付いて眉を顰める。
「いえ、確かここはあの悪魔が放った矢が刺さっていた場所です。傷口が塞ぐどころか完全に治っている」
見間違い等という事は無い、実際にクリスはデオンが倒れた時に傷口を抑えて止血していたからわかる。中々出血が止まらずに泣いてしまった程だ。
医者は毒が云々と言っていたが、毒など無くても出血死していてもおかしくなかった。
「ほんとうか? 傷一つないぞ?」
「私だって信じられません、自分の記憶力が疑わしくなってきました」
「彼女の言ってる事は間違いない。確かにここには矢傷があった、運ばれて来た時にはもう出血は止まっていたがね」
そう言ってから医者はデオンの服を元通りにして布団を被せる。いくら夏とはいえ、夜になるとそれはそれはかなり冷える。
「おい、まさかこれが悪魔の証明てわけじゃないよな? ただ……なんだ、ちょっと回復力が高いだけだろ」
強がってはいるが、デュランの声は少し震えていた。彼自身も疑わしくなってきたのだ。
「ではこれでどうかな」
と言って取り出したのは、真っ赤な布キレに包まれたパンの欠片と、ケージに入ったネズミ。
「あの、先生? ここ病室ですよ?」
「何か問題があるかね?」
大アリなのだが、ここまで自信たっぷりに強気で言われると何とも言えなくなってしまう。
そんなクリスは置いておいて、医者はケージの中に布キレに包まれたパンをピンセットで挟んで放り込んだ。
「この布キレはデオンが身につけていた服の切れ端だ、赤いのは彼の血だ。そしてパンの欠片にその血を染み込ませている」
程なくしてネズミが鼻をヒクヒクさせながらパンの匂いを嗅ぎ、一度顔を逸らせるも直ぐに戻って齧り始める。そこからはあっという間で、ほんの数秒でパンの欠片は跡形もなくなっていた。
「餌付けならここでしなくていいだろ」
「まあ見てなさいデュラン」
異変は直ぐに起きた。ネズミが突然苦しみだしたのだ、呼吸は荒く……いや出来ていないのかヒューヒューと空気が抜ける音がする、もれなく吐血し、その中にはさっきのパンの欠片らしき固形物が見えた。
ネズミはそのままバタンと倒れた。誰の目から見ても息絶えたのは明らかである。
「これは一体?」
クリスが尋ねる。医者は直ぐに答えを示した。
「デオンの服に付いた血に含まれていた毒だよ、致死性の高い極めて危険なものだ。おそらく矢に仕込まれていたんだろうね。いや話によると光の矢が消えたみたいだから、もしかしたら矢そのものが毒になっていて、消えるようにデオンの身体に溶け込んだのかも」
「そんな事よりも! こんな毒をくらってデオンは大丈夫なのか!?」
デュランは物凄い剣幕で医者につめかかって問う、あんなものを見てしまうと気が気でないのだろう。
医者は「見ての通りだ」と、ベッドで穏やかな寝息をたてるデオンを指し示した。
「この毒の解毒方法はあるのか?」
「聖水をかけるだけでいい」
「聖水って、あんなのただの塩水じゃないか」
「だが
「
「その通りだ、そしてここからが肝心な話だ。ここに聖水を用意してある、これをデオンの手の甲に垂らしてみる」
そして実際に医者は瓶に入った聖水をデオンの手の甲に掛ける。聖水は手の甲で弾けて指を伝って地面へと流れ落ちる。
だがただ流れ落ちるだけではない、程なくしてジュワとおおよそ水を垂らしただけでは鳴らない音が手の甲から聞こえてきた。
まさかと思い、デュランとクリスがデオンの手の甲を確認すると、そこには小さなものだが火傷のような跡が見えた、そして直ぐにそれは消えてなくなる。
「今のは……まさか聖傷?」
聖傷、文字通り聖水によってついた傷の事である。通常この聖傷ができるのは、聖水を弱点とする悪魔だけである。
聖傷ができるということはつまり、悪魔であるという証拠にほかならない。
「これでわかっただろう? デオンは悪魔だ。いや聖傷の出来具合からみておそらく悪魔と人間のハーフだろうな。珍しい事例ではあるが、前例がないわけではない」
「……すまない、少し頭が痛くなってきた」
「そう……ですね、私もちょっと」
「ふむ、まあ仕方あるまい。今日はひとまず帰るといい。だがなるべく早くフランスに帰りなさい。回復力はあってもおそらく冬には間に合わないだろう、このままだとデオンが冬を越せる体力を取り戻せるかどうかはわからないんだ」
「かしこまりました、なるべく早くフランスへ帰ることにします」
「ああ、色々済まなかったな。そのすまないついでにこの事は」
「黙っているから安心したまえ」
「ほんとにすまない……このお礼は金にイロをつけて返そう」
「それは素晴らしい」
そうしてデオン達のロシア遠征は終わりを告げる事となる。
一七六〇年八月中にフランスへ帰還、その口実は『デオンが天然痘に掛かり、治る見込みが薄く、五回目のロシアの冬が耐えられそうにないから』というものだった。
当時フランスでも天然痘は猛威を奮っており、毎年五万人以上の人間が亡くなっていた。それゆえ、デオンをさりげなく寵愛しているルイ十五世は彼を憐れんで帰還を許可したのだった。
それから一年の月日が流れて一七六一年九月。
悪魔により傷を負ってしまったのが前年の八月、それ以来、デオンは目を覚ますことはなかった。
そして件の悪魔も現れる事はなかった。
少なくとも、表向きは。
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