一七六〇年、ロシア 〜前編〜
一七六〇年七月、ロシア。
ロシアの都市サンクトペテルブルクにはフランス大使館がある。
財の限りを尽くした豪華なその館では、頻繁にレセプション(俗にいう社交会)が行われ、その度にとんでもない額のお金が飛び回っていた。
フランス大使の名前はロピタル、そして大使書記には、十一年前にコレージュ・デ・ナシオンを優秀な成績で卒業したデオンがついている。
その二人の主催の元、とある夏の夜に豪華なレセプションが行われていた。
「お久しぶりでございます。リア嬢、
「まあ、ありがとうございますボロンヅォフ様。私も宰相にお会いできてとても嬉しく思います」
ロシア副宰相ボロンヅォフ、彼は日頃より懇意にしている大使ロピタルと書記のデオン主催のレセプションには必ずといっていいほど参加している。その理由の一つとして賄賂があげられる。
現在ロシアとフランスの仲は良好とはいえず、国交もつい最近まで断然してたぐらいだ。というのもヨーロッパでは戦争が起きており、これはイギリスとフランスの植民地戦争にまで発展した大きなものだった。後に七年戦争と呼ばれるこの戦争では、フランスとロシアは敵対関係とまではいかないにしても、微妙に触れ合いにくい関係にあった。
そのためデオンは仏露の関係改善のため、ボロンヅォフへ賄賂を渡して仲をもつと同時に、彼に親英派の政敵を抑えてもらおうしていた。また他の商人や政治家を引き込み親仏派を増やそうとしている。
二つ目の理由として、むしろこれがボロンヅォフの本当の理由なのだが、リアに会いに来たというものがある。
リアという女生はとても見目麗しい、碧い瞳は宝石のようで、流れるようなブロンドの髪は彼女の気品をより引き立てている。身体付きも余分なものは出ておらずキュッと引き締まって美しい。
リアは非の打ち所のない女生であった。
と、ボロンヅォフは思っている。
「デオ……リア様、お時間でございます」
レセプションの給仕係がリアを呼びにきた。彼女はリアの専属秘書も務めている。
「あらクリス。もうそんな時間ですのね。申し訳ございません、私片付けなければならない仕事が御座いまして、本当はボロンヅォフ様とお話したかったのですが」
「いえいえ、ご多忙の中私に会う時間を作っていただいて光栄です。どうか現在ご不在の兄君のデオン様によろしくお伝えください」
「はい、必ず」
深くお辞儀してから、そそくさと、ドレスを痛めないようお淑やかにレセプション会場を後にした。
宵闇に包まれた空の下に出たところで、リアは「はぁ〜〜」と深い溜息をこれみよがしに吐いた。
「そういうのは淑女とは言えませんよリア様」
「クリス、わざと言って楽しんでるな」
「いいえ、そんなことはありませんとも……フフ」
笑った。耐えきれなくなったらしいクリスが口元を手で隠しながら、しきりに笑いを堪えている。
「全く、私はあまり女性の格好はしたくないのだがな」
「ですが、大変よく似合っておりますよ。むしろそこらの貴族令嬢等よりも美しいぐらいです。デオン様」
「やめてくれ」
リアと名乗るこの女性は、先のボロンヅォフが惚れる程の美貌がある。いや、ボロンヅォフだけでなく、世の男全てを魅了していた。
まさに魔性の女と言ってもいい、見た目だけは。
しかし彼女……もとい彼はデオンの女装した姿だった。元々女性よりの体型で、顔つきもほそかったゆえに化粧を施せば女性にしか見えない。
五年前機密局に入ったばかりの頃、露西亜への任務の時に女装したのがきっかけで、事ある事に女装するようになった。
最初は乗り気ではなかったのだが、今も乗り気ではないのだが、何故か女装姿が好評で、むしろ男装時より任務の成功率が上がっていたりするのでやむなく続けることとなった。
デオンは会場前に停めてある馬車に乗る。行き先を告げる必要はなく、予め決められたルートを通って目的地へと馬車を走らせる。
その間に、デオンはクリスの手を借りて化粧を落とし、ドレスを脱いで男物の礼服へ袖を通した。長い髪は括って帽子に隠し動きやすくする。
「やはり男の服装は楽でいいな、女性は大変だ」
「お言葉ですがリア様……こほん、デオン様、それは偏見でございます」
「それはすまない」
「そろそろ到着です。ご用意を」
「大丈夫、できてるよ」
馬車がゆっくりと停止するのを待って、デオンとクリスが外へ降り立つ。
そこはロシア皇帝の王宮である冬宮殿だった。黄色い壁で囲まれたこの宮殿は規模自体は小さいが、宮殿らしく豪奢である。また、頭に冬とつくように、ここが使われるのは冬の間だけであり、夏の今は定期的な掃除とメンテナンス以外ほぼ使われていない。
「デオン様こちらへ、デュラン様がお待ちになっております」
「わかった行こう」
クリスの案内の元、デオンは冬宮殿の裏手へとまわる。ちょうど真ん中辺で外壁を背にして佇むデュランを見つけた。
「なんだ着替えてきたのか」
「当たり前だろ」
「俺はリアちゃんの姿が好きなんだけどなあ」
「やめてくれ、私は同性愛等という主の言葉に反する事はしたくない」
「女装してる奴が言っても説得力ないな」
ぐうの音も出ない。
「ところで魔術教団は見つかったのか?」
「ああ、この冬眠ならぬ夏眠している宮殿でな」
コンコンと壁を叩いて宮殿の中に目当ての者がいることを指し示してから、「しかし」と声のトーンを落として神妙な面持ちで二の句を告げる。
「悪い報せがあってな、奴らとんでもない用心棒を雇いやがったんだ」
「用心棒? そいつはそんなに腕がたつのか?」
「お前も知ってる筈だぜ、ヴァルクロワッサンだ」
「なんだと!?」
ヴァルクロワッサンはかつてフランスで会った事があった。
体は大きく、筋肉はまるで鎧を思わせるほどだった。豪快な見た目に反して性格は寡黙で掴み所がなかった。しかしルイ十五世陛下の信頼は厚く、ロシア女帝エリザヴェータとの交渉に彼を向かわせた。
そのあとの軌跡は残念ながらわからず、誰もが当時、親英派の宰相だったベストゥージェフの策謀に殺されたものと思っていた。
「信じられない、彼は」
「俺だって信じたくはないさ、だが事実だ。ヴァルクロワッサンは魔術教団にくみしている」
「彼は私よりも素晴らしい人間だ。知性もあり強さも身につけている。それでいて性格は寡黙で良識的。非の打ち所のない男だ!
それになにより、ヴァルクロワッサンは、陛下から直接任命された……シュヴァリエなんだぞ」
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