第22話犬の群れ
鳴り続けるシャッター音にうつらうつらとし始めた頃、何か冷たく凍てつくモノが、ずしりと両肩に縋りついた。獣の匂いと、唸りが耳朶にかかる。
重い、重たい。
見下ろした自分の身体は、犬の首から滴る青い光で汚れている。背後から、だらりと黒い髪が垂れ落ちる。背中に乗っているのは、梶原さんか。重い、苦しい。
けたけたけたけた
シャッターの音がする度、俺の力が抜ける度、平坦な声が嘲笑う。犬の首が、俺の首筋で暴れた。押さえ込もうとする梶原さんの腕が蠢き、髪の束が、俺の首にかかり巻き付く。
声が喉に張り付く。喘いで開いた口から息が出て行かず、吸い込めもしない。首の後ろ、梶原さんに付けられた傷口に牙が立てられ、氷のような温度のぬたりとしたモノが滑り込んで、喉を押し広げてきた。
あまりのことに、俺は嗚咽しながら、先輩を見る。侵入してくるモノで喉は塞がれ、声は出ない。首に張り付く髪の束を両手で掴んだ。
そのまま、重たく透明な悪意が、俺の胃の腑に滑り落ちた。
かしゃり、と響いたシャッターの音に、身体がびくりと跳ねる。
内側を押し広げる何かとは別に、重苦しい悪意が首に、背中に腰にぎっちりと巻き付いていた。
「ごめんね、みちる君。すぐだから、がまんして」
胃の奥からせり上がってくる嫌悪感に吐こうとするが、身体の中に侵入してきた何かは、臓腑を内側から掴んで離さない。涙と涎だけがただ溢れて、俺は膝を折った。
先輩がばちん、と裏蓋を跳ね上げ、新しいフィルムを装填する。まるで、弾丸を込めるような顔で。照準を合わせ、俺を狙い、呼吸もせずにレンズで射抜く。
シャッター音に、俺の身体が痙攣した。
胃の中が、凍てつくように熱い。ぎりぎりとフィルムを巻き上げる軋りに、喉が慄く。俺の意志とは無関係に、手脚が立ち上がろうとする。それを、外側に絡みついた何かが押し留める。
空っぽになった俺の中に、獣が潜んで暴れていた。意識はあるのに、自分の身体から弾き出されたようで、全てが遠い。苦しさと底なしの寒さと、焼けつくような熱さが、身体の内側を焦していく。
時折カメラの向こう側から現れる、先輩の緑を帯びた茶色の目が、壊れてしまいそうな俺の自我と、逃げ出そうとする身体を、貫いて床に縫い留めている。
崩壊も逃亡も赦されず、俺は暴れる獣を臓腑に抱えて、先輩を見上げる。レンズが兇悪な光を帯びて、俺の目を射た。
「あぉおおーうぅ」
俺の喉から、遠吠えが漏れる。壁に貼られた護符の犬たちの目が、ぬらりと動いた。
はっと顔をカメラから上げて、井上先輩が入口を振り返った。
「井上、お前! 佐伯を壊す気かっ!?」
ばん、と破壊的な音を立てて鉄扉が開き、犬飼先生が飛び込んでくる。ぐぐっと札の犬たちが、壁面から抜け出そうともがいている。
ドアノブからぶら下がった鎖をじゃらりと腕に巻き付け、犬飼先生が最悪に兇悪な顔で井上先輩を睨みつけた。
「あぉおおーうぅー」
俺の喉が、また、吼えたてる。苦し気に、助けを求めるように尾を引いて。
ずるりと、壁から犬の頭が持ち上がり、前足が空を掻く。
ひゅっ、と重たく空気を切り裂く音がして、鎖が床に叩きつけられる。犬たちが、びくりと、犬飼先生を見て動きを止める。
「勝手に動くんじゃねえよ」
頭が地面に押し付けられるほどの低い声で、犬飼先生が、犬たちと井上先輩を威嚇する。
俺の身体を外側から縛っていた何かが、捻じれて暴れる。背中から、首から、胸から、幾本もの髪の絡んだ指が這い上がって、俺の顔を覆う。視界は掌の白と、赤黒い髪と血に塞がれる。
蠢いた指先が、唇をこじ開けて、喉の奥に滑り込もうと侵入してくる。嗚咽交じりの呼吸は、歯の隙間にねじ込まれた指に阻まれて、溺れそうになる。
「佐伯、待ってろ」
犬飼先生の声が、どこかで聞こえ、ずるりと喉から這いまわる指が引き抜かれた。
床に倒れた俺の視界に、髪の束を掴んだ犬飼先生が見える。
赤黒く脈打つ髪の束は、俺の背中にしがみつく何かにつながっている。
犬飼先生が鎖をじゃらりと鳴らして、壁を睨んだ。
「フタバとミワ、出ろ」
犬飼先生の命令に、ぴくりと耳を上げた2頭が、壁からずるりと這い出す。一踏み毎に毛皮を纏った身体が大きくなり、先生の脚にぴたっと寄り添った時には、秋田犬ほどの大きさにまでなっている。毛は蒼く、燃え盛るように逆立ち、眼は紅い光を帯びて俺を狙っている。
「リクドウ、出ろ」
半分に千切れた犬の身体がのたうち回り、壁から床に落ちた。犬飼先生は、首のないその身体に鎖を巻き付け、引き寄せる。引きちぎられた毛皮の裂け目から、蒼い光の塊が、ぼたぼたと床に散った。
「あぉおおおーう」
俺が啼く度、首のない犬は爪で床を掻き、悶えるように身を震わせた。
「井上、背中の奴だけ、狙えるか?」
井上先輩は蒼ざめた顔で小さく顎を引いて頷いた。
自信はない、でも、やってやる。そう応えたのだと、俺は思った。
先輩の、緑にぎらついた目が、俺を見る。
そうか、あれは、嫉妬ではなく。
かしゃん
井上先輩のカメラが瞬く。
すでに飛びかけていた脆く剥がれた俺の意識が、背後に向けられたシャッターの音に掴み取られて引きずられる。
かしゃんかしゃん
俺の身体の外側で、何かが暴れる。
俺の身体の内側で、獣が、吼える。
かしゃんかしゃり
飛びそうになる意識とは裏腹に、俺の中の塊が、真っ暗になった身体の内側に爪を立ててしがみつく。痛い。皮膚ではない柔らかな内臓が、痛い。爪を食い込ませ、喰らい付き、引き剥がされまいと、何かが犬の首の下で、抗っている。
かしゃんかしゃ
シャッター音に切りつけられて、俺の首に縋りついた指が戦慄き、緩んだ。
犬飼先生が、片手に掴んだ髪の束を力任せに引く。俺の脇腹と首筋に、何本もの爪が突き立てられて、皮膚を裂く。それでも、ばらりと、腕と髪とが剥がれ落ちる感触に、身体が軽くなった。
続けて容赦無く、シャッター音が鼓膜を叩く。
背中から、重たい塊が痙攣しながらずり落ちていく。首に絡んだ髪が、気道を潰す。
今にも視界が、暗転しそうだ。
「フタバ、噛み切れ」
犬飼先生の鎖が鳴る。静かにこちらを狙っていた一頭が身を低くして、地を蹴った。開いた口からは、銀色の大きな二本の牙が覗いている。俺の頭上を飛び越えざまに背中にしがみついていたモノを、喰い千切って引きずり下ろす。
ずるり。
生温く湿った皮膚が俺の膚を滑り、離れていく。
身体中に絡みついた髪が、犬の爪で千切られて落ちる。喉を締め上げていた黒い束が、少しだけ緩んで呼吸を許す。
這いつくばったまま振り返ると、赤黒い人の形をした髪の塊を、犬が口に咥えて立っていた。髪でできた繭の隙間から、何本もの腕が、指が蠢いて伸びていた。
あれが、梶原さんの『けたけた』の成れの果て。
もうすでに、ヒトの形はしていない。
髪の塊から伸びる長く太い脈打つ束が、眼に入る。俺は知らずに、それを辿る。
辿った先の暗闇に佇む影が、歪んだ視界に映った。あれは、梶原さんだ。本物の、可愛らしい笑顔をしていたはずの、梶原さんだ。黒い髪の束が、臍の緒のように、赤黒い繭につながっていた。
「…せんせ、駄目だ」
呻きに混じった声が、届いたとは思わなかったが、犬飼先生が俺を見た。
「梶原さん、『けたけた』と…だいぶ深くリンクしてて、意識がないんです…だから」
「ああ、分かった」
先生が、ほんのわずかに目を細める。
俺はその、あるかなしかの笑顔に、安心して、目を閉じる。
「ミワ、押さえろ」
もう一頭が足音もなく俺を越え、髪の塊の周りをぐるりと回った。足跡の形が、蒼く光る三重の輪になる。ぴたりと、その輪の端に座って、動かない。
「出すぞ、佐伯」
「…え?」
瞬きの間隔が広がっていく俺の視界には、もう、断片的にしか、物事が映らない。
井上先輩は、何をしているのか、探そうにも首が微動だにしない。
俺の中では、相変わらずに、犬の首が暴れてもがく。もう、厭だ。
「無理です、先生…もう、眠りたい…」
俺はゆっくりと瞼を閉じる。暗くて、何もなくて、遠くで柔らかな部分が痛む。でも、それも、もう、消える。
先輩のシャッター音が、俺のすべてを剥がして、壊す。フィルムの中に、焼き付ける。
からっぽの、俺の身体に残るのは、犬の首の意識だけ。
「悪いな、佐伯。正気保ってろよ」
自覚もないくらい、細く開いたモノクロの視界の先で、犬飼先生らしき匂いの影が近づいて、熱を帯びた掌が力のない俺の頭を持ち上げた。
身体の奥で、犬の首が、何かを請う気配がする。
意識を手放しかけた耳元に、生暖かい息がかかった。
がちん。
「ぐ、あああああぁ」
身体がびくりと跳ねあがる。
耳が熱い。皮膚を貫く焼けるような痛みに、視界に色が戻って、襲ってきた激痛にまたふっと暗くなる。
「お? 噛み過ぎたか、おい、佐伯、寝るな。気絶したら、噛むぞ」
「む、無理…せんせ、待って…痛…ああ、もう…いってえ! マジであんた、後でぶっ飛ばす!!」
「そりゃ、威勢が良くていいこった。もう少しだ、待ってろよ」
襟首を後ろから掴まれた俺の隣で、犬飼先生が、じゃらりと鎖を鳴らす。
耳から垂れる血を押さえて睨み上げると、にやりと先生が嗤った。
「くっそ、覚えてろ」
歯噛みして吠えた俺の頭を、先生の掌が、くしゃりと混ぜる。
ぜえぜえと息をしながら首に手を当てる。びくりと、指が跳ね上がった。
首筋に、びっしりと、髪の束が巻き付いていた。咄嗟に身体を見下ろすが、絡みついていた髪は、ばらばらに噛み千切られて散らばっていた。
「どうして、これだけ…」
けたけたけたけたけた
青い犬の結界の中で、転がっていた髪の塊が、長い腕をばたつかせて嗤う。
身体の中で、嗤い声を厭って犬が吠える。
髪でできた呪いはきっと、俺の身体の中に潜む犬の首と繋がっている。梶原さんと『けたけた』を結ぶ臍の緒みたいに。
あの犬の首を締め上げていた髪の束、それの端が俺の首にも、巻き付いていた。
「先生、首…こいつの首に、梶原さんの髪が…だから、苦しがって、多分俺の中に逃げてきた」
先生の頬がぴくりと引き攣る。
「…これか?」
ぐいっと、俺の首に絡んだ髪を掴む。
けたけたけたけたけた
腹の底で、犬が暴れる。
「呪いだろ、梶原の。でかした、佐伯。呪いの形が分かれば、引っぺがしちまえばいいだけだ」
犬は俺の内側で身を捩り、もがき、苦しみ、首だけの身体で逃げ出そうとするが、呪物で縛られ、動けない。
「リクドウを抜かなきゃ、お前も一緒に梶原の呪いに持っていかれる。だから、待っとけよ」
必ず助けてやる、と先生が不敵に笑った。
ばたばたと、耳朶から血が落ちる。またふらりと、気が遠くなる。
「ネックレスはどこだ?」
「まだ梶原さんが、持ってて」
「ないぞ」
闇の奥に佇んだ梶原さんを振り返って、先生が目元を険しくする。
けたけたけたけたけた
髪の塊が嗤う。
井上先輩がカメラから顔を上げて、先生を見た。無言で指を伸ばし、小さく頷く。
「あの中か…しょうがない。荒療治だが、やるか」
口をへの字にして、先生がまだ転がっている俺を見下ろした。
「せんせ、なんか、厭な予感しかしないんですけど…」
「大丈夫だ、たぶん、その予感で合ってるから。それ以上に悪くはならんだろ?」
冗談めかして笑った先生の目の奥は、ぬるりとぎらつき、まるで笑ってはいない。
殺気を放ったまま、犬飼先生が指を伸ばした。びくりと俺の身体が飛び退り、喉が唸り声を上げる。
屈みこんだ先生の手が、俺の首に巻き付いた髪を掴む。
得体の知れない恐怖が、胎の底から吹き上がる。歯の根が合わず、四肢が強張る。
けたけたけたけたけたけた
『けたけた』声に、身体の深い闇の中で、犬が暴れる。
俺の中で、のたうち、請い、吼えたて、理性が吹き飛ぶ。
心が、身体が、二つに裂かれていく。
『けたけた』の嘲笑に、先生の手の熱に。
先まで残っていた理性が、一挙に崩れて溶け出す。
「暴れるなよ、リクドウ」
先生が、俺の身体に鎖を掛ける。冷たく重い感触に、俺の身体が身を捩る。
引き剥がそうと手足が暴れる。
目が、燃えるように熱い。屈みこんだ先生の目に映る俺の眼は、紅く光を帯びていた。
頭を押さえつけた先生の手を、俺の腕が打ち払う。
鎖を引かれ、床に倒れた俺の背に、先生がのしかかった。
喉の奥から、怒りが弾けて咆哮があがる。
首に絡んだ髪束を掴んだ先生を跳ねのけ、身体を縛る鎖を指が引き剥がし、脚が地を蹴る。弾丸のように飛び出し鉄扉を掴む俺を、先生の手が後ろから鷲掴みにして、外れる。
直ぐにまた、背にかかった指を蹴りあげて突き飛ばすと、扉を開け放つ。
「犬飼先生!?」
廊下の向こうから、足音がふたつ駆け出してくる。俺の鼻が、匂いを嗅ぎ取る。どちらも知っている匂い。一瞬だけ、脚が鈍った。
「来るな、鈴原! 湯澤を停めておけ!」
背後から、迫りくる足音に向けて先生が怒鳴った。
ぴたりと影が止まり、併走するの人影の腕を掴む。
あれは、あの匂いは、紅緒さんと湯澤さんだ。戻りかけた思考は、また獣の咆哮にかき消される。
ふくらはぎの筋肉が収縮して、床を蹴り出そうと姿勢を低くした。
その瞬間、腕が、後ろから俺を絡め取る。額に手がかかる。分厚い前髪が乱れて、顔が晒される。
かしゃりと、遠くでシャッター音が聞こえた。
ぐん、とシャツの背を鷲掴みにされて、後ろによろめく。
「断りなしに首輪なんて、着けられてるんじゃねえよ」
先生の腕が首にかかり、頭を掴まれ、扉の内に引きずり込まれる。鼻先で、ばたりと重い鉄扉が閉じた。
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