第21話緑の目

 開かずの部屋の真ん中で、先輩がシャッターを切って俺を撮り続ける。

 かしゃんかしゃんかしゃんかしゃかしゃ

 その音を聞き続けるうちに、段々とぼんやりと眠たくなっていく。

 

 かしゃん


 シャッターを切る度に、俺の自我が剥がれて、奪われていく。

 梶原さんは俺を見ながら嬉しそうに目を細め、犬の首を胸に押し付けた。髪の束で縛られた首の切り口から、青い光はぼたぼたと零れ続けて、梶原さんを染めていく。

 俺はピントの合わなくなった目で、その光を見つめた。

 蒼く光る水とも血ともつかないそれは、犬の首と梶原さんを汚している。

 その汚れた梶原さんの腹部に、犬の首が抱き締められて、埋められる。


「…あ」


 青く濡れた服の布地に、有り得ないほど深く、犬の鼻面が入り込む。

 それはぐにゃりと腹部に呑まれ、もがくような仕草でまた浮かんでくる。

 呼吸を求めて開かれた犬の口を掌で覆って、梶原さんがまた、青く汚れた頭を押した。

 ぐにゅり

 今度は、首の切り口が、腹に沈む。


「…せんぱ…先輩…」


 揺らめく視線で先輩を見上げた。


「判ってる、みちる君」


 カメラのレンズが、束の間、俺から離れて梶原さんと犬に向く。先輩の指先が、レンズの絞りを調整して、細かに動いた。

 先輩は、先からずっと、ファインダーを覗いたままだ。

 かしゃんかしゃん

 梶原さんと犬の首を、先輩のカメラが狙う。

 途端に犬が、牙を剥いて暴れた。地鳴りに似た唸り声が、梶原さんの喉から洩れる。犬の口が大きく開かれ、真っ白な牙が覗き青い雫が飛び散った。


「わかったよ、君たちは、撮らない」


 わずかにカメラを下ろして、先輩が思案気な顔をした。

 見えないはずの視線で、梶原さんが立つ辺りを捕らえて、目を眇める。犬は威嚇の表情を崩さないまま、今にも飛び掛かろうと首だけの頭を前に突き出している。

 その毛並みを、梶原さんの指先が、愛おし気な仕草で滑る。

 決して渡さない、そう俺たちに告げるように上目にこちらを見て、嫣然と微笑んだ。

 髪と血と犬の青い血液と、色は混じって、汚濁する。

 混濁した境目は、溶けて流れて、一つに合わさる。


「駄目だ、先輩。呑み込まれる」


 ファインダーから外れた茶色の目が、俺に頷き返す。

 先輩の視線が、わずかに、揺れていた。迷っているのだ、困惑しているのだ。

 カメラを握った指先が躊躇って、喉元で構えられているレンズが震える。


「先輩?」

「大丈夫、みちる君、大丈夫だよ」


 白く血の気の失せた頬が、無理やりに微笑んだ。

 大丈夫なんて、嘘ばかりだ。いつも、そうやって。

 噛みつこうとした俺の身体が、バランスを失って、よろめいた。


「ねえ、知ってる?」


 転びそうになった俺の手を、梶原さんの細い指が捕まえた。冷たく、白く、細く、そして髪が絡んで汚れている。

 思いがけずに強い力で俺を支えて、ぐいと、梶原さんが身体を寄せた。俺と梶原さんの間に挟まれた犬が、鼻に皺を寄せて唸る。


「知ってる? 何を?」


 ぼんやりと、声は遠くで聞こえた。

 犬が牙を見せる度、獣の匂いが鼻を突く。


「どうして、私が、ここにいるのか」

「え?」

「誰が、私を、ここに連れてきたのか」

「どういうことだ…」


 混乱して、俺は前髪を片手で掴む。

 露わになった俺の顔に、梶原さんが、うふふと小さな声を漏らした。指先が、掌が、俺の顔を滑って、胸元に触れる。

 どうして、梶原さんが、ここにいるのか?


「そんなの、湯澤さんを追って来たのに、決まってる」

「本当に?」


 だって…いや。俺がここに来た時、湯澤さんが階段に隠れている間、梶原さんは先輩と一緒にもう、この部屋にいたじゃないか。

 どうして、何で。梶原さんが、ひとりで、学校に来る理由が、ない。

 犬飼先生を捕まえに?


「知りたいでしょう」

「みちる君」


 先輩が、俺を呼ぶ。


「どうして、あの人と、私が一緒にいたのか、知りたくはない?」

「先輩?」


 俺は先輩を振り返る。梶原さんの掌が、俺の胸を滑り、背中に腕が回される。

 腹に、犬の首の熱が伝わり、じわりと湿った感触が広がった。


「あの人が、連れてきたのよ。私を」

「どうして、先輩…」


 犬飼先生との連絡を絶ったのは、どうしてだろう。梶原さんを捕まえたのなら、一番に、犬飼先生に連絡をするはずじゃないか。


「犬の首が、欲しかったのよ。だから、私から、奪おうとした」


 梶原さんの細い喉から、可愛らしい声と重なって、犬の低い唸りが響く。


「ここに来れば、湯澤君がいるって、彼は言ったわ」


 背中を這いあがって首の後ろに届いた梶原さんの手が、蠢く。首の付け根の辺りの骨をなぞって、指先が彷徨った。ぱちん、と小さな静電気が走って俺は眉をしかめる。

 湯澤さんは不思議そうに、弾かれた指を見つめていた。


「入れない。あなたの中には」


 梶原さんが、伸び上がって俺を見た。

 入れない、どういうことだ。間近で見下ろした梶原さんの目の底は、どこまでも昏く、底がない。ぞっとして、俺は身を引いた。

 寄り添うように立っていた俺と梶原さんの間で、挟まれていた犬の首がぐぬりと現れる。

 咄嗟に俺は、犬に巻き付いた髪を掴んで強く引く。首の半分近くが、梶原さんの腹にめり込んでいた。服に付いた青い染みに呑まれるように。

 ずるりと厭な手触りが、髪を伝わり、俺の背を怖気させる。

 犬の首はしとどに濡れて、外に引き出された。

 ぐぅう、と梶原さんの口が呻いて、犬が喉を震わせる。

 早くしないと、梶原さんは、犬の首を呑み込むだろう。

 でも。

 先輩が、カメラの向こうで、どんな顔をしているのか、分からない。


 かしゃん


 シャッターが、俺を捕らえて静かに一度、瞬いた。

 くらりと俺の目が眩む。


「あなた、この子が、羨ましいんでしょう」


 かしゃり


「その緑の目」


 梶原さんが俺から離れて、先輩に歩み寄る。


「ねえ、嫉妬は緑の目をしているの」


 犬の首を片手に掴んで、ずるり、と床を引きずる。


「あの子に、嫉妬しているのでしょう」


 梶原さんが、俺を振り向き、うふふと嗤う。


「違うよ」


 先輩は、静かに答えて、カメラの影から俺を見た。


「出し抜こうとしたのでしょう。あなたの力は弱いけれど、佐伯君のは強いもの」


 すん、と鼻を鳴らして、梶原さんが空気を嗅いだ。


「犬飼先生に気に入られたい。そうでしょう?」


 梶原さんが手を伸ばす。

 先輩のレンズが、髪の絡んだ白い掌で塞がれる。


「だから私を、連れてきたのでしょう?」

「うるさい」

「知ってるわ。昨日あなた、近くに来ていたでしょう、匂いでわかる」

「井上先輩、どうしてそんな大事なこと、黙っていたんですか?」


 昨日、先輩の電話が通じなかったのは、先輩も梶原さんを追っていたから。音が鳴らないように、電源を切っていた。でも、それなら、聞いていたはずだ。梶原さんが犬飼先生を捕まえようとしていたことも。

 だったら、どうして、それを先生に伝えなかったんだ。

 揺れる視界で、先輩を探す。俺を狙って光るレンズを、睨み返す。


「君には関係ないよ、みちる君」

「知られたら、困るものね。私に言ったのよ、開かずの部屋に入れてあげるって」

「言ったよ」


 それが何、と先輩が嘯く。梶原さんが塞いだレンズを覗いたまま、シャッターがまた落ちる。


「君に、犬飼先生は渡さない。君はみちる君を生贄にして、儀式をすればいい」

「先輩…何言って…」


 けたけたけたけたけたけた


 梶原さんが顎を上げて、髪を振り乱して、嘲笑する。

 全身が、一瞬で粟立つ声で。


「さあ、儀式をするんだ。だから、犬の首を、渡してよ」


 片手でカメラを掲げたまま、先輩が右腕を伸ばす。


「厭よ。渡さないわ。誰にも、湯澤君にも」

「どうして」

「これがないと、私は」


 犬の首を引きずっていた私を、あの人は、記事に書いてくれたの。

 梶原さんが、そう笑う。


「これがあれば、私は」


 床に、犬の首から零れた青の光がぬらぬらと跡を引く。


「あの人が書く記事の中に居られる」


 梶原さんの腕が、引きずった首を持ち上げた。


「だから、誰にも、渡さない」


 両手に絡めた髪の束を左右に引いた。

 赤黒い綱が深く絡みつく。犬の首がきつく締まり、苦悶の色が獣の瞳に宿る。開いた口から、滴る蒼い雫は、血か涎か判然としない。


「邪魔をするなら、あなただって」


 先輩の頬に、手が伸ばされる。べったりと、青い光で、白い頬が汚れていく。


「ねえ、その目を頂戴よ。あなたと私、2人がいれば、きっといい記事が書ける。湯澤君が喜ぶ記事よ。だから、その嫉妬に塗れた緑の目を、頂戴」


 梶原さんの手が、カメラを掴んで引き下げる。先輩の指からカメラは滑り落ちて、ストラップにぶら下がる。

 露わになった先輩の瞼を、梶原さんの爪の先がなぞっていく。

 先輩は、困惑した顔を、梶原さんが立つ辺りに向けていた。


「さあ、儀式を、始めましょう」


 梶原さんが俺を振り返る。先輩の腕に腕を絡めて微笑んで。


「先輩、今の話、本当なんですか。どうして知っていたのに、黙っていたんですか」

「みちる君、言えるわけが、ないじゃないか。言えば、犬飼先生が来るだろう。来れば、僕たちは彼女から遠ざけられる。そうしたら、梶原さんを捕まえることも、犬の首を捕らえることも、できないじゃないか」

「何で! 手柄が立てたいって、そんな理由で? そんな身勝手な理由で、犬飼先生が、危険な目に遭ったかもしれないんですよ?」

「…みちる君、君は、何にも分かっていないよ」


 先輩の目が、薄暗い明かりを撥ねて、緑の艶を流す。


「犬飼先生に、気に入られたいんじゃないんですか。それなら、その人を守りたいんじゃないんですか。先生を犠牲にしてまで、何が欲しいんですか」

「私と一緒よ」


 梶原さんがうふふと嗤う。

 嗤った唇から、ぞろりと犬の遠吠えが溢れ出す。

 

 かしゃん


 先輩が、カメラを手に取り、俺を写す。

 かしゃんかしゃん

 続けて何度も、俺を、切り取る。

 強い眩暈を覚えて、俺は後ろによろめき、倒れこむ。


「さあ、始めましょう」


 梶原さんが嬉しそうに、犬の首に頬擦りをした。

 犬の目が、梶原さんの目が、先輩のカメラのレンズが、俺を捕らえて、ぬめりと光った。

 かしゃん

 俺の中で、何かが崩れた。

 頭の中に、霞がかかったように思考が白濁する。

 梶原さんが、踊るような足取りで、俺に近づく。

 くるりと一回りして、スカートが広がり、俺の前にしゃがみ込む。

 混濁した目の前で、梶原さんが床に手を突き、ぐいと顔を寄せた。


「うふふ」


 伸ばした指先が、俺の前髪を掻き揚げる。犬の首は広がったスカートの上に置かれて牙を剥く。

 指先が滑り、首の後ろに添えられる。

 ほんのわずかに、静電気がぴりりと身体を痺れさせる。


「先輩…」


 俺の声に、先輩は、微動だにしない。

 潤むレンズをこちらに向けて、かしゃり、とシャッターが押された。


「先輩…!」


 梶原さんが耳元に顔を寄せる。


「もう、駄目よ」


 首の後ろに添えられた指に力がこもり、ぐいと肌に爪が立つ。皮膚が破れる痛みに、呻きが漏れた。


 かしゃり


 シャッターを押した後で、先輩が、カメラを下ろした。

 白く冷えた頬に、表情はない。ただ、緑の色が濃くなった目が、俺を見ている。

 レンズがなければ先輩は、梶原さんを見ることが、できない。

 梶原さんが、俺の首筋に顔を埋める。

 押し付けられた犬の首が、俺の腹で牙を立てる。

 それすらも、先輩の目には、映らない。

 

「…先輩…」


 諦めたような自分の声が、頭蓋の外で聞こえた。

 首の後ろで爪の先が、傷口を広げて蠢いた。

 背骨を、戦慄が駆け上がる。

 梶原さんの指先から、悪意が、滑り込む。

 俺の中に、初めて、悪意が爪を立てて、入り込む。

 くぐもったような呻きは、誰の喉から洩れたのか、分からない。

 にたり、と梶原さんに似た何かが嗤った。

 高みから、低い所に、流れ込むように、冷たいモノが堕ちてくる。

 俺から『けたけた』を受け取った人たちは、みんな、こんな感覚だったのか。


 かしゃん

 シャッター音に、顔を上げる。先輩が、また、レンズで狙う。


 俺はもう、先輩を、信じていない。

 愕然とする。揺らいでいる。

 あの緑の目が、俺を、見ている。

 梶原さんの手が、俺の顎に触れる。

 指先が、唇をこじ開ける。髪の絡んだ、鉄錆の匂いがする爪が、唇を裂いた。血が滲む。

 梶原さんは赤い舌で、自分の唇をぺろりと舐めた。

 まるでこれから、獲物を喰らう、獣のように。

 揺らいだ俺から、何かが剥がれる。内側に爪を立ててしがみついていたモノが、力尽きて、内臓をずり落ちていく。

 胸の内側が、裂かれたようにひりひりと痛んだ。

 もう、俺の中に入ることは、きっと、容易い。


 かしゃんかしゃんかしゃかしゃ

 どこかで、シャッター音が、遠い雷鳴に似た音で響いていた。

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