第20話撮影会

 辿り着いた扉の前で、俺はごくりと唾を飲み下す。

 入り口のドアノブに巻き付けられている鎖が、ない。

 灰色の扉は固く閉ざされてはいるが、人のいる密やかな気配が確かにしている。


「やだな…」


 思わず唇から洩れた小さな呟きに、慌てて首を振る。

 中にいるのは、犬飼先生に決まってるじゃないか。さもなければ、井上先輩だ。いったい俺は、何を怯えているんだ。

 握った拳で、腿を軽く叩いて、気合を入れた。

 よし、っと鼻から息を吐き出すが、なかなか手が伸びない。


「バカだな、俺」


 小さく自分を笑って、いかにも自然な感じを装って、ドアノブを握った。ひんやりとした金属の手触りに指を引っ込めかけて、無理やりに両手で握り直す。

 開けてしまえば、なんてことはない。井上先輩がいつものようににんまりと笑って振り返るのだ。


 ぎぃい。


 軋んだことのない入口扉が、不穏な音を立てて開いていく。

 厭な予感は、少し開いた隙間に身体をねじ込んだ時に、確信に変わる。

 足元に落ちていた鎖がつま先に当たって、じゃらりと鳴った。


「何、してるんですか、先輩」


 中途半端に蛍光灯の付いた薄明るい部屋の中で、井上先輩が振り返る。

 首からぶら下げたカメラを両手で包んで、俺を見て、にっこりと笑った。


「何って、かわいい子だから、写真を撮ろうと思ってさ」

「そんなこと言ってる場合じゃないですよ」


 足早に近寄って先輩の腕を掴み、耳元で小声で問い詰める。


「梶原さんじゃないですか」

「知ってるよ」


 さらりとそう答えて、細く眇めた茶色の目で俺を流し見る。

 そうして視線を滑らせると、前方に向かって、ひどく穏やかに微笑みかけた。

 カーテンで閉ざされた暗い窓を背に、梶原さんが立っている。

 厚ぼったい二重瞼と、ぽってりとした唇。前に話した時と変わらない、かわいらしい女子高生だ。どこか、おかしなようには見えない。


「先輩、このまま、職員室に行きましょう」

「何言ってるの、みちる君。写真を撮るんだよ」

「でも、犬飼先生はここに入るなって。それに」


 湯澤さんから聞いたことを先輩に伝えたいが、梶原さん本人の目の前で、話すわけにもいかない。どうしていいのか分からずに、俺は井上先輩のシャツの腕の辺りを握りしめる。


「大丈夫だよ」


 先輩がにっこりと俺に微笑みかける。邪魔をするなというように。

 でも、先輩は、知らないじゃないか。昨日の夜、梶原さんが湯澤さんの家に行ったこと。闇夜の中で、犬の首を抱えて、梶原さんが嗤ったこと。


「心配性だね、みちる君は」


 袖を引く手を振りほどいて、先輩が俺の髪をくしゃりと混ぜる。いつもの調子ではぐらかし、鉄壁の笑顔が俺を遠ざける。


「先輩っ」


 先輩が長くしなやかな人差し指を唇の前に立てて、横目で俺を捕らえた。

 他の人がやれば嫌味でしかない仕草も、まるで当然の動きに見えて、俺はぐっと言葉に詰まる。


「ごめんね、邪魔が入って。うちの可愛い後輩がね、見学希望だって。構わないよね」


 カメラのフィルムを巻き上げながら、先輩は部室で話でもしているかのような気楽さで、梶原さんを振り返った。

 その先輩を通り越して、梶原さんの厚ぼったい二重瞼は、俺にじっと注がれている。不意にその目が、すっと細められた。


「佐伯君、だったよね。キミでしょう、湯澤君のこと、先生に言いつけたの」

「え」

「キミが余計なことを言ったから、湯澤君、停学になったんでしょう」

「ち、違います、誤解です」


 あながち誤解でも間違いでもないのだが、素直に認めるには、梶原さんの無表情が恐ろしい。瞳の底は、怒りでも憤りでもなく、どこまでも黒く昏く鈍く光って俺を睨む。


「じゃあ、あなた?」


 梶原さんが柔らかな髪を揺らして首を傾げた。

 先輩は、梶原さんを見返して、何も言わずに肩を竦めて微笑んでみせる。優し気で、そのくせ、踏み込むのを許さない、先輩の柔らかな笑顔。

 天井の蛍光灯が、小さく瞬いて、また灯る。


「さあ、撮りましょうよ。時間がもったいない」


 カメラを掲げた井上先輩の朗らかな声が、張りつめた部屋の中に響く。

 梶原さんは何かを考えるように大きく瞬きをした後で、いいわ、と言った。


「ちゃんと撮ってね? 湯澤君の役に立ちたいの」

「任せてください」


 井上先輩が胸を張る。

 赤くふくよかな唇を釣り上げて、梶原さんが笑った。右手を襟元にあげて、首にかかった鎖を指先で掬う。

 桜色に塗られた小さな爪が、銀の鎖を摘まみ、するすると胸元から引き上げる。

 隠されていた銀色の小さな鳥籠が、ころんと梶原さんの手の中に落ちた。


 梶原さんが、隠していた秘密。

 その中に、得体の知れぬ、犬の首を閉じ込めた、銀の檻。


「うふふ」


 甘やかな声が空気を震わせ、梶原さんは嬉しそうに、先輩に顔を向ける。

 井上先輩が、持っていたカメラを左目に当てた。

 かしゃん、とシャッターの落ちる音がする。


「上手くいくかも」


 俺の小さな呟きは、ぎりぎり先輩にも届いたのだろう。先輩の背中が、小さく同意を示す。

 きりきりと、フィルムを巻き上げる音に、俺は細く息を吐いた。

 心配することなど、なかったのだ。このまま、先輩がシャッターを切って、梶原さんはフィルムの中に、捕らえられる。

 俺は頃合いを見て、犬飼先生を探しに行けばいい。

 唇の隙間から少しずつ、詰めていた息を吐き出して、俺はぐるりと壁を見回す。


 壁に貼られた犬の札は、不規則に、それでもどこか流れるように、部屋を一周取り囲んでいる。左の端の一枚だけが、無残に破れて、首から下だけが汚れた壁面に残されていた。


 結局犬の首を見ることはないまま、終わるのだろう。

 不安に駆られ怯えていた、ついさっきまでの自分に苦笑が漏れる。なんてことはないのだ。さすが、井上先輩だ。

 あとは、ネックレスを回収するだけ。

 梶原さんが、大事そうに掌に包み込んでいる、あの銀色の鳥籠。


「うふふ。ちゃんと、撮ってね?」


 梶原さんが、掌を開く。

 かしゃん、と軽やかなシャッターの音がする。


「湯澤君を喜ばせたいの」


 左手に乗せたペンダントは、銀色に光るはずなのに、なぜだか、赤黒く見えた。


「そうすれば、また、私を呼んでくれる」


 左の掌に乗った、どす黒い塊を、梶原さんの白い指先が優しくつつく。


「湯澤君の役に立てれば、私は、傍にいられる」


 目を凝らして、一歩、先輩の背中に近づく。

 肩越しに、梶原さんの掌が見える。

 手の中で、ころんと揺れた何かが、蛍光灯の明かりに刹那、銀色に光を撥ねた。


「ねえ、だから、ちゃんと撮って?」


 梶原さんの右手の指が、赤黒い塊に触れる。

 俺は、ぎょっと、身を引いた。

 あれは、髪の毛だ。赤黒く見えるのは、髪と、それから。

 湯澤さんの声が耳の奥に甦る。『梶原さんが、カッターで、指を切って』指を切って、どうしたのだ。その血は、あの髪と一緒に、ネックレスに巻き付けられたんじゃないのか。


「ちゃんと、撮ってね」


 ぱちん、と小さく音がした。

 髪に絡みつかれた鳥籠が、その扉を開く。

 息を飲むのと同時に天井の蛍光灯が明滅して、寸でのところで、唇を割ろうとしていた叫び声を押し留めた。

 背筋が、ざわざわと産毛を逆立てる。

 先輩が振り向いて、眉根を寄せた。

 ダメです、先輩。

 声を出さずに囁いた俺に、先輩はカメラのレンズを梶原さんに向けた。

 見えないんだ、本当に。井上先輩は、カメラレンズを通さないと、これほどの圧で吹き付ける怖気も感じないのだ。そんなの、危ないに決まってる。目をつぶったまま、ナイフを構えた悪漢にぶつかっていくようなものじゃないか。

 天井の蛍光灯がひとつ、ふっつりと前触れもなく光を失って、梶原さんが仄暗い闇に包まれた。

 先輩が、聞こえないほど微かに舌打ちをして、レンズの絞りを調整する。


「うふふふ」


 密やかな、肌を撫でる笑い声に、背骨から細かな震えが容赦なく這い上がり、思わず首を竦める。

 なんだ、これ。梶原さんの手元から、視線が引き剥がせない。

 体中の筋肉が硬く収縮して、逃げ出す準備をしている。今にも、背後の扉に走り寄って、向こう側の当たり前の日常に戻りたがっている。


「約束よ」


 ぞろり、と何かが這いだす気配がした。

 俺は慌てて視線を下げる。見たくない。見たら、駄目だ。

 先輩の背中が、ほんの少しだけ、びくりと揺れて後退る。咄嗟に覗いた先輩の横顔は、もう、何でもないように、カメラの下で笑顔を作っていた。

 嘘だ。この人の笑顔は、嘘だ。

 どれが本当の顔か分からぬように、いくつもの笑顔を張り付けて、俺たちの目を眩ませる。多重露光の写真のように、本当の顔は別の映像に上書きされて、見えにくくなる。

 俺は恐る恐る、先輩のカメラのレンズが向けられた、窓辺近くの暗がりを見た。

 真っ暗に沈んだ窓を背に、梶原さんが立っている。

 その掌の、小さな小さなネックレスから。

 ぞぶり、と。

 犬の首を抱えた少女が溢れ出る。

 身体を捩り、空中で身をくねらせ、出るはずのない小さな鳥籠から、梶原さんによく似た姿が、這い出てくる。

 左手に、犬の首を鷲掴みにして。

 顔に絡みついた髪の毛は、長々と伸びて、ネックレスに巻き付いていた。

 重力に逆らうように、不規則に揺らめき、捻じれ、それはやがて床に落ちる。


 けたけたけたけたけた


 嗤い声が、梶原さんの唇から漏れ出す。

 けれど、その顔は真っ白で、真正面の虚空に向けられている。

 先ほどまでの甘やかな笑い声を立てていた唇は強張り、眠たげな眼は大きく見開かれていた。


 けたけたけたけたけた


 嘲笑に合わせて、梶原さんの視線が、がたがたと揺さぶられてぶれた。ぼんやりと、表情が抜け落ちていく。その振り落ちた感情を吸い取るみたいに、足元にうずくまる影が濃く輪郭を浮き立たせる。

 梶原さんの右手ががくりと身体の横に垂れると、床に落ちていた少女の影が、犬の首を床に押し付け、立ち上がる。

 ゆらり、揺らめき、アンバランスなバランスを保って、影が濃くなる。まるで、梶原さんと入れ替わるかの如く。

 表情もなく、蝋人形の面差しでぼんやりと立ち尽くす梶原さんの前に、よく似たもう一人の少女が、漆黒の目を煌めかせて揺れている。

 2人はまるで、臍の緒で繋がれた双子のように、赤黒い髪の束でつながっていた。


「先輩っ!」


 井上先輩の袖を、ぎゅっと掴む。

 ダメだ、あれは、絶対に、駄目だ。

 千切れた犬の首を胸に抱いて、少女が白い喉を晒す。

 小さく紅い唇から、獣の咆哮があがる。


「駄目です、先輩。ここにいたら、駄目だ!」


 力任せに掴んだ手首は、けれどカメラを構えたまま、びくともしない。


「大丈夫だよ、みちる君」


 井上先輩は、青白い顔で俺を見て、少し、笑った。

 ばちん、と天井の蛍光灯が一斉に消える。

 一瞬、暗さに目が眩んで、呼吸が止まる。

 その隙に、先輩の手に胸元を突かれて、俺は情けなく、よたよたと後ろに転んだ。

 梶原さんの影が、また、細く長く遠吠えを響かせる。

 掴んだ犬の首が、ぎらりと目を剥いた。漆黒の瞳が、ぬるりと光る。


「犬飼先生に儀式をしてもらうの」


 咆哮の止んだ唇が、梶原さんと同じ声音で言う。


「素敵でしょう。犬の首と、開かずの間と、犬飼先生」


 けたけたと、嗤い声をあげて、もう一人の梶原さんはぐるりと部屋を見回す。


「湯澤君に、もう一度、面白い記事を書かせてあげるの」

「まさか、たった、それだけのために」


 思わず口をついて零れた言葉に、梶原さんが俺を見た。


「たったそれだけ。それが、全て」


 深紅の唇で、嫣然と微笑む。

 井上先輩がファインダーを覗いて、小さく呻いた。

 続けて、シャッター音が2,3度響く。


「ねえ、儀式には生贄が必要でしょう。せっかくなら、綺麗な顔がいい。だって、写真映えがするでしょ」


 犬の首を引きずって、梶原さんが井上先輩に歩み寄る。

 髪は長く絡んだまま、薄闇に沈みこんだ本物の梶原さんへと繋がっている。

 梶原さんの指が、井上先輩に伸ばされる。

 先輩はほんの少しカメラを下ろして、小首を傾げた。


「僕を生贄にしたら、誰が写真を撮るんだい? 僕は写真を、生贄なら、こちらの美少年を」


 井上先輩が腰をかがめて、へたり込んだ俺の前髪を後ろに撫で付ける。

 露わになった額の傷が空気に晒され、ずきりと痛んだ。

 遮蔽物のなくなったクリアな視界に、涎を垂らす犬の首が飛び込んでくる。鼻に皺をよせて、唸っているのか、苦しんでいるのか、俺には判然としない。ただ、無残に千切れた首の周りに、きつく食い込むほどに、赤黒い髪の束が巻き付けられていて、ひどく苦しそうだ。

 千切られた傷口からは、絶えず蒼い光が、雫になって床に零れていた。

 無意識に伸ばした手に、犬がびくりと身を震わせて、牙を剥く。


「ねえ、みちる君?」

「え?」


 犬の首から無理やり視線を剥がして先輩を見上げる。

 こんな時に、何を暢気にぼんやりしているの、と先輩が呆れた顔で唇を歪めた。


「キミは、犬飼先生の生贄に」

「え?」

「さあ、儀式を、始めよう」


 けたけたけたけたけた


 梶原さんが喉を反らせて声を上げる。嗤い声と同じ唇から、引き裂かれるような犬の遠吠えが同時に漏れる。どうやって声帯を震わせれば、こんな芸当ができるのか。

 いや、そもそも、生身じゃないのか。それなら、これは、一体なんだ。

 もし、これが溜まりに溜まって黒く凝った『けたけた』の成れの果てなのだとしたら。俺が集めて流して、積もり積もった、本来形にならぬはずの弱く淡い何かだったのだとしたら。

 これが梶原さんに憑いてしまったのは、それを寄せ集めて培養させた、俺のせいかもしれない。

 だとすれば、俺が剥がして、背負い直すのが筋ってもんじゃないのか。

 井上先輩も、そうしろと、言っているんじゃないのか。

 汗ばんだ掌を、ズボンで拭う。

 今、この機会を逃してしまえば、梶原さんはしばらく捕まらないかもしれない。

 ともすれば、犬飼先生に危害が加わるかもしれない。

 先生は、俺や井上先輩が勝手に動いたことを知ったら、きっとものすごく怒るだろうが、あんなものをぶら提げた人ではない何か、呪いのような塊を、このまま野放しにはできない。

 怖い。

 怖いし、俺に何ができるとも思えない。

 でも、もしもこれが、俺がいたことで起きた出来事なら、素知らぬふりで立ち去ることなど、できない。

 床に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。

 前を見据えて、ぎゅっと、こぶしを握った。


「井上先輩、俺、どうすればいいんですか」


 俺の声に、先輩がにやりと笑う。

 その問いかけが逃走ではなく、向かっていくための手段を訪ねているのだと、ちゃんと汲み取ってくれている。


「君はそのまま、僕に撮られればいいんだ」


 さあ、始めよう。

 先輩は爽やかに両手を広げて、梶原さんに頷いてみせる。

 くすくすと、嬉し気に、梶原さんが犬の首を抱きしめた。ぼたぼたと、首の断面を濡らして、青い光の雫が、梶原さんの腕と腹を汚していく。

 切なく苦し気な遠吠えが、空気を震わせる。壁に貼られた犬の札が、ぶるりと揺らいだ気がした。

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