第19話先生を知りませんか

 柳川からこってりと絞られた放課後。

 げんなりとして俺は職員室から教室に戻っていた。

 人影もまばらになった校内を、下校する生徒とは逆に、教室への階段を上がっていく。

 藍色に沈んだ窓の景色は、振り落ちる雨に時折輝く。


「佐伯くん」


 登りきったところで、屋上へ続く階段の封鎖されている暗がりから声がして、びくりと肩が跳ねた。

 咄嗟に振り向けば、数段上から湯澤さんが辺りを伺いながら降りてくる。

 腰をかがめて薄闇に溶け込んだ湯澤さんが、小さく手招きをした。


「ど、どうしたんですか」

「いいから、こっち」


 きょどきょどと、不安げに瞳が左右を忙しく確認している。誰かに見つかるのを警戒しているのか。

 梶原さんがまた周辺に現れるのを考慮して、犬飼先生が呼んだのだろう。だが、こんな時間に学校に連れてきてどうするつもりなんだ。


「誰もいないですよ」

「佐伯くん、犬飼先生を見なかったか?」


 湯澤さんが俺の腕をぎゅっと掴んで顔を寄せる。


「犬飼先生? 一緒に来たんじゃないんですか」

「何言ってるんだ、一緒なわけないだろ。どこにいるか、知らない?」


 切羽詰まった顔で目を見開いた湯澤さんの指が、俺のシャツの袖口を握りしめる。

 犬飼先生が、自宅に様子を見に行ったから、ここに来たんじゃないのか。


「湯澤さんの家に行くって、言ってましたけど。会ってないんですか」

「入れ違ったかな、マズいな、どうしよう」

「どうしたんですか」

「それが…」


 言い淀んで、湯澤さんが視線を彷徨わせた。俺に話していいのかどうか、計りかねて、むやみに唇を噛み締める。


「何があったんです。梶原さんですか」

「梶原さん…どうして、キミがそれを」


 前髪を掻き乱して、湯澤さんがパニックになりかける。


「どうしよう。犬飼先生が…」

「先生が、どうしたんですか。梶原さんは?」

「犬飼先生が、危ないんだ。どうしよう、あんなこと、しなきゃよかった…どうしよう」

「湯澤さん!」


 目を泳がせて狼狽える湯澤さんの肩を掴んで、揺さぶる。

 はっとしたように、湯澤さんが俺の二の腕を掴み返して、視線がぶつかった。


「昨日の夜…、梶原さんがうちに来たんだ。夜中に、スマホが鳴って、梶原さんからで。俺にまた、いい記事を書かせるから、って。何気なく、話しながら窓の外を見たら、こっちを向いて、真っ暗な道に立ってて」


 縋るように俺に身体を寄せて、湯澤さんの肩が震える。


「犬の札が狙われてるから、盗られる前に次は、もっと大きいスクープを取るんだって」


 また、湯澤さんの視線が、不安定に揺れ始める。つられて泳ぎそうになる眼球を湯澤さんの眉間に無理やり据えて堪えた。


「『次は、開かずの間で、犬飼先生のサバトの写真を撮るの。素敵でしょう』って。そう言って」


 梶原さんは、嗤った。

 けたけたと、感情のこもらない声で。

 窓の外の暗がりの中に、湯澤さんは、首元のネックレスを引き出す梶原さんを見た。

 淡い街灯の明かりに、鳥かごの形をした銀色のネックレスが鈍く光を撥ねる。

 梶原さんの細く華奢な指先が、ぱちりと鳥かごを開く。

 誰も知らない鳥かごの奥に隠した秘密を、取り出すために。

 鳥籠には、赤黒い糸の束が、蔦のように絡みつく。その隙間を縫って。


 ずるり。


 掌に収まる小さな銀の鳥籠から、出るはずのない、大きな犬の首。

 それを闇夜に掲げて、梶原さんは、嗤った。

 けれど。嗤っているはずの喉から零れて響いたのは、犬の、遠吠え。

 尾を引き、闇に震え、心を引き裂くうら淋しい、犬の啼き声。

 それを聞いて、湯澤さんは。

 気を失ったそうだ。


「夢かと思ったんだ。朝になって、目が覚めて、夢だと思って窓を開けた」


 夜中の間に一雨降ったのだろう。湿って黒く濡れた地面から、犬の匂いが立ち昇って鼻を突いた。


「怖くて、怖くなって、梶原さんを止めようと思って。連絡しようとしたんだけど、全然、電話もメールも、返事がなくて」


 すぐ目の前から見上げてくる湯澤さんの頬は、青白く血の気を失っていた。


「あんなの、まともじゃない! どうすればいい? なあ、どうすればいいんだよ」

「ちょ、落ち着いてください。落ち着きましょう」


 犬飼先生が、いない。井上先輩も、連絡がつかないって言っていた。

 どうする。他の先生たちが、こんな話を信じてくれるとは思えない。


「犬飼先生が、襲われたりしたら」


 湯澤さんの指が、俺の手首に、赤い爪痕を付ける。

 ぎりぎりと、俺の心が削れていく。落ち着け、俺まで飲まれてどうする。

 犬飼先生も、先輩もいないんだ。


「…もう一度、職員室を、確認してみよう。湯澤さんが家にいないって知って、戻ってるかもしれないし」


 少なくとも、ここに隠れているよりは、人目もあり、先生たちがいる職員室の方が安全だ。万が一、梶原さんが来るようなことがあったとしたって、大人が数人でも押さえられないということも、ないはずだから。


「でも、俺、停学中だし…」

「なんか言われたら、停学の件で犬飼先生から呼ばれてるって言えばいい。絡まれたら、1年の佐伯と一緒に聞き取りする予定だから聞いてみろって、言えば大丈夫だと思う」

「佐伯くんは? キミも一緒に来てよ」

「俺は別のところを探します。犬飼先生がいなければ、そのまま職員室で待たせてもらってください」


 もし梶原さんが学校まで追ってきて、鉢合わせるようなことがあれば、危ない。きっと、梶原さんは、犬飼先生だけでなく、湯澤さんも手に入れようとするはずだから。

 犬飼先生と犬の首を開かずの部屋に並べた光景を、湯澤さんに見せたいに決まっている。

 犬の嗅覚がどれくらいかは知らないが、犬の首が犬飼先生に気付かないことを願うしかない。


「なあ、俺が、梶原さんにあんなこと、させたから…」

「湯澤さん、それ、もういいです。今は後悔じゃなくて、すべきことがあるでしょう。犬飼先生と無事に会えたら、いくらでも愚痴ってください」


 うっすらと涙の滲んだ目で湯澤さんが俺を見て、唇を噛み締めて、大きく息を吸い込む。


「わかった…。そうだな、そうする」

「じゃあ、行きましょう」


 視線を交わして、大きく頷くと、俺と湯澤さんは階段を駆け下りた。



◆◆◆



 湯澤さんが職員室の前で逡巡してから扉を開くのを見届けて、俺は後ろを通り過ぎる。ちらりと覗き見た室内に、犬飼先生の姿はない。

 並びの準職員室を覗き、不在を確認してから、図書室に駆け込む。

 ざっと見まわすが、ここにもいない。

 図書室の隅のひっそりとした場所に、写真部が集まっていた。気づかれないうちに、と踵を返しかけたところに、山本部長の声がかかった。


「どうしたの、佐伯君」

「なんでもないっす…あー、と。犬飼先生、見ませんでした?」

「見てないな。どこかにでかけるとか言ってたみたいだけど」


 山本部長が部員の方を振り返る。


「例の男子生徒の家に行くからって、もう、出かけちゃいましたよ」

「何かあったの?」


 紅緒さんが赤いフレームの眼鏡を押し上げながら、小首を傾げた。


「や、なんでも…あー、あれっす。実は、その例の騒ぎの件で聞き取りするって言われてて。今日だったか明日だったかなー、なんて」

「そう」


 しどろもどろの俺を、紅緒さんの細めた目が捕らえている。慌てて顔を反らして、俺は咳ばらいをした。


「あんまり来ないんで、もう、帰っちゃおっかなって思ったんすけど、今日の犬飼先生、絶望的に怖くて。黙って帰ったら、怖いが怖いじゃ済まなくなるじゃないですか」

「確かに、さっきここに来た時、何かを狩りに行きそうな顔してたね」


 少し困った顔で、部長が笑う。

 軽い冗談で返そうとしたが、焦りで口元が引きつっただけだ。


「井上先輩に会ったら、戻るまで引き留めておけって言われたんだけど」


 言いながら小さな足音を立てて、紅緒さんが一歩近づく。

 フレームの奥の長い睫毛が、ゆっくりと瞬く。


「井上先輩、また来てるの?」

「や、うん、きっと先輩も聞き取りじゃないかな」

「ふうん」


 何もかも見透かされる気がして、前髪の上から額を押さえた。ただでさえ前髪に閉ざされた暗い視界は半分塞がれ、紅緒さんも図書室も、世界から消滅する。

 紅緒さんを、巻き込んだら駄目だ。悟られないうちに、ここを出ないと。


「じゃ、俺、見たいテレビあるんで帰ります!」


 くるりと背中を向けて、きょとんとした写真部員たちを残して廊下に駆け出る。

 廊下はすでに人影もなく、窓の向こうから、下校する生徒たちの笑い声が聞こえていた。


 もう、あとは、あの場所しかない。


 廊下の奥の暗がり。

 折れ曲がって見えない通路の向こう。

 開かずの部屋に向かって、俺は走った。

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