第18話夜の散歩

 翌日の現国の授業中。教室は異様な緊張感に包まれていた。

 いつも通りに気怠げに教室に入って来た犬飼先生の顔が、絶望的に怖かったからだ。


「なんか、あったのかな」


 坂本が振り返って、ありありと怯えを滲ませて囁くが、犬飼先生の一睨みで、かつてないほど姿勢よく座り直して静かになった。

 授業は水を打った静けさの中、淡々と進む。まるで全員が優等生であるかのように挙手と発言を繰り返し、素晴らしい精度の授業が進行され、廊下を通りすがった教頭が思わず入口扉の硝子窓から中を覗き込んで目を丸くしていた。


 俺はといえば。

 怖くて顔が上げられない。


「佐伯、設問3」

「は、はぃ」


 いっそ穏やかともいえる犬飼先生の静かな低い声に指名され、返事が思わず裏返る。目を坂本の肩甲骨辺りに釘付けにしたまま、配布されたレジュメの回答を口にする。


「…」

「…」

「…」


 あまりの静寂に、胃がきりきりと締め付けられる音が聞こえるようだ。

 沈黙の中に微かに聞こえた先生のブレス音に、堪りかねてちらりと前方を盗み見た。それを待ち構えていたのだろうか、虚空を抱えた先生の黒い眼差しが、俺の瞳孔に穿たれる。


「…っ」


 慌てて下を向こうとした視界の端で、先生の唇が兇悪に捻じ曲げられて、笑った。全員の呼吸が止まる。

 坂本の背中が「お前なにしたんだよ」と無言で責め立てる。


 やっぱり、俺か…。昨日の、アレだ…。犬飼先生を置いて逃げたりしたからだ…。


「正解だ」


 先生が俺の思考を読み取ったのか、目の下に濃い隈のできた瞼を細める。暗殺される…。

 冷や汗で背中を濡らして、俺は放心状態で椅子に腰を落とした。



◆◆◆



 戦慄の授業を終え、次の授業のために廊下を移動する。

 緊張と慣れない優等生風授業で疲れ果てた坂本と並んで廊下を歩いていたが、階段を降りかけたところで腕を掴まれ、空き教室に引きずり込まれた。咄嗟のことで、声も出ない。

 坂本はそれに気づかず、ぼんやりとした表情をしたまま、階下に消えていった。


「時間がないのに、悪いな」

「せ、先生」


 びくついた俺を制して、先生が疲弊しきった目元を眇める。


「井上とお前のことはこの先3日くらい恨むが、今はそれの話じゃない」


 恨むことは恨むんですね。視線だけで問いかけると、当り前だろ、と瞬きで返された。


「柳川のことは置いといて、だ」


 扉の前を生徒たちが通り過ぎる気配が近づき、先生は声を潜める。


「昨日の深夜、追尾の犬が騒いだんで、探しに行ったんだ。深夜1時になろうっていうのに、梶原は一人で出歩いていてな。追わせていた犬も遠巻きに周りをうろうろはするんだが、肝心の首の方が見当たらない」

「夜中の1時?」

「まず、普通なら、出歩くような時間じゃないだろ。おまけに目の焦点も合ってないし、犬の札云々を別にしたって、放っておける状況じゃないんで、声をかけようとしたんだが」


 顎先を指で擦りながら、先生が窓の向こうを見た。

 今日は曇天で、硝子の向こうは灰色に霞んでいる。


「…職質された…」


 吹き出しそうになるのを必死に堪えた結果、目じりから涙が滲んだ。先生は、笑うなと怒ろうか、笑ってくれと言おうか逡巡した果てに、ひどく情けない顔で首を掻く。


「お疲れさまでした」

「ほんとにな」


 ぼさぼさ髪に無精ひげの生えた40絡みの不健康そうな男が、深夜、女子高生を物陰から尾行していたら、俺だって通報する。警察は、職務を全うに遂行したまでだ。

 それでなくとも、大型の野犬が出没すると、近隣住民からパトロールの依頼が出ているだろう。完全に先生のミスだとしか思えない。

 俺が思っている以上に、先生も焦っているのかもしれない。


「それこそ、井上先輩でも呼べばよかったのに。あの人なら、深夜に徘徊していても納得できそうな風貌じゃないですか」


 月明かりを眺めて夜道を歩く、美青年だ。しれっと言い訳の一つもして、切り抜けるに決まっている。


「それが、昨日に限って連絡がつかなくてな」


 眉根を寄せて、先生が顎を掻く。


「俺の家からこっちまで来るには、時間がかかりすぎるんで連絡を入れたんだが、呼び出し音すら鳴らなかった」

「すぐさま電話に出そうなのに」

「いつもは出るんだよ。電源が落ちてることなんて、まず、ない」


 そんなに頻繁に、井上先輩と先生は連絡を取り合っているのかと、俺はしげしげと先生の横顔を眺めた。その視線に気づいて、先生が厭そうに鼻に皺を寄せた。


「いっとくが、プライベートの電話じゃないからな」

「元教え子と教師のプライベートじゃない電話って、なんすか」

「まあ、いろいろだ。部活絡み、かな」


 先輩、どれだけ写真部が心配なんだ。他に趣味とかないのかと、逆に、先輩が心配になる。


「て、そんなことはどうだっていいんだ。問題は、梶原がうろついていたのが、湯澤の家の近くでな」

「え?」

「玄関先まで行っては戻り、戻っては家の周りを回ってと、不審なことこの上ない。うちの学校の生徒じゃなけりゃ、通報してたよ」

「それって、湯澤さんが、危ないんじゃないですか」


 犬飼先生が頷く。

 今まで、梶原さんの目的は、間接的には湯澤さんに向かうにしても、直接どうこうしようとしているとは思わなかった。だって、それなら、最初から湯澤さんを襲うなり、拉致るなり、すればいいわけだ。

 今になって湯澤さんの家に直接向かうというのは、願いが上手く叶わなくて、焦れているからじゃないのか。


「思ったように事が運ばないんで、強硬手段に出ようとしたのかもしれない」

「湯澤さんは、無事なんですか」

「無事だ。さすがに真夜中に家を訪ねる訳にも行かなくてな。ご両親に『お宅の息子さんが怪異に狙われています』とも言えないんで、俺にとっては緊急事態でも、あまり早い時間にも連絡できなくて、参ったよ。停学中の様子見、っていう名目でこれから自宅にお伺いする連絡は入れた。その時に聞いた限りでは、今朝も部屋で大人しくしていたみたいだ」

「よかった」

「学校に来させるよりは、自宅にいた方が安全かと思ったんだが、そうも言えなくなってきた。井上に見張らせようと思ってるんだが、さっきも行った通り、連絡がつかない。もし、校内で見かけたら、俺に連絡するように伝えてくれ」

「わかりました」

「佐伯も、梶原を見かけたら気をつけろ。迂闊にかかわるなよ。それから、井上には開かずの間には近寄るなって、言っておけ」

「はい」

「それで、佐伯」

「なんですか」

「悪い、チャイム鳴るわ」


 飛び出そうと扉に手をかけた瞬間、無情にも始業のチャイムが鳴り響く。

 うちの高校は、授業始めのチャイムが鳴った時に着席していないと遅刻なのだ。遅刻3回で欠席1になり、出席日数が不足すれば、留年だ。


「お前、まだ日数余裕だろ」

「印象! 学生は、先生からの印象商売なんです!」

「だな。遅刻する生徒は印象最悪だ」

「だったら…ああ、もう!」


 口をぱくぱくさせる俺に、先生が口元に拳を当てて横を向いた。

 横目で睨みながら扉を引き開けると、ちょうど目の前を歩く柳川とまともに目が合った。はっと肩越しに今さっきまでいた場所を振り返るが、犬飼先生はもういない。


「佐伯、だったな」

「う…」

「あとで、職員室に来なさい」


 俺は絶望的な気分で、天井を仰ぐしかなかった。

 窓の向こうでは、いつの間にか静かに、雨が落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る