第13話嘘に溺れる

「だから、梶原さんが犬の札を持ってることは間違いないです。や、ほんと、マジで怖かった…」


 開かずの間で犬飼先生を見上げて、俺は情けなく眉尻を下げる。

 ふうん、と小さく声を上げて、俺の頭がぐりぐりと撫でられた。もちろん犬飼先生の手ではない、井上先輩だ。思案気に、緑がかった茶色の瞳を伏せて、もう片手でカメラを撫でている。


「湯澤さんも、梶原さんが肌身離さず持ってるって言ってたし。それに」


 思い出して、俺ははっと顔を上げた。そのついでに井上先輩の手も打ち払う。


「梶原さん、こないだ野犬に、襲われたって。それって、梶原さんが持っている札の犬ですよね」

「違うな。それはたぶん」

「犬飼先生の別の犬でしょ。首だけのやつを、匂いで追わせてる」


 井上先輩が、俺の目の前に写真を一枚突き出した。


 街灯の消えた薄暗い公園の中に、小柄な影が映っている。あまりよく見えないが、うちの学校の制服のようにも見える。

 その女子生徒に飛び掛かるようにして、大きな犬の影が重なっていた。


「近所の人が来ちゃったから、これ以上は無理だったんだけど」


 井上先輩が大きく溜息を吐いた。


「それに、出てこないんだよね、首だけのヤツが。そこにいるのは分かってるのに。て、僕は分んないんだけどさ」

「そうなんですか」

「そ。みちる君と違って、僕はカメラがないと何にも見えないし、カメラのレンズを通しても見えないものは気配もぜーんぜん」

「井上のカメラに写らないってことは、そこにいないか」

「何かで隠されているか」

「まあ、追跡の犬が吠えたんだから、少なくとも直前まではいたに決まってる。問題は、どうして消えるのか、だ」


 俺の肩越しに腕を伸ばして、井上先輩が写真を突いた。


「ここに、少し影が見えるみたいなんだけど、なんせ暗くて」

「や、なんも見えねっす」

「これだよ、ほら」

「ちっさくて無理ですよ、どれ」

「これだってば、もう」


 井上先輩の綺麗な爪が示したのは、女子生徒の胸のあたり。確かに、黒く何かがかぶっているようにも見えるが、そもそも遠いし、犬の影もあるし、髪の毛かもしれないし。


「ていうか、この写真を撮ったってことは、2人とも知ってたんですか。梶原さんが札を持ってるって!」

「だって、ねえ、そもそも遠吠えしてたのは、女の子の方だし」


 井上先輩が柔らかそうな髪をかき上げて、犬飼先生と顔を見合わせた。


「俺が! せっかく! 聞き込みにいったのに!」

「まあまあ、佐伯、裏付けが取れたってことで、よくやった。予測はしていたんだが、確信が持てなくてな。なんせ、犬に追わせても、途中で見失って戻ってくるし」

「俺、骨折り損じゃないっすか! 道理で俺なんかに…。殊勝な顔して、頼む、とか言っちゃって…」


 歯噛みをして睨みつける俺を、犬飼先生が生ぬるい笑顔で退ける。


「で、犬の首を引きずるって方の話は、どうだった。それも湯澤の記事だろ」

「ん?」

「誰か別の奴が書いたのか」

「…ん。それ…聞き忘れた…みたいな?」

「みちる君、君って子は、本当にもう」


 俺の首を抱いて、井上先輩が頭に頬擦りをする。払い除ける気力もなく、俺は犬飼先生のシビアな視線にさらされた。


「まあ、しょうがない。俺が1人で行かせたんだし、俺と井上よりも話は弾んだんだろ。だったら、お前をとっかかりに次から聞きに行きやすい」

「…でも、先生。あの湯澤さんって先輩、なんか、胡散臭いっていうか」

「うん、胡散臭いだろうねえ。僕もそう思った」


 犬飼先生の代わりに、井上先輩がぶんぶんと首を振って同意する。


「ほぼ、何も知りませんよ。面白がって、適当に記事をでっちあげてるだけで」

「うんうん」

「ペンダントにおまじない、なんて記事を書くぐらいだから」

「眉唾物ばっかりだよねえ」

「そうです、信用ならない」

「でもね、みちる君」


 井上先輩が、俺の首を抱いたまま、耳元に囁きかける。


「全てが嘘じゃない、だろう?」


 ぞくりと、俺は身を震わせる。振り返ろうにも、ぴったりと先輩の腕が貼りついている。


「火のない所に煙は立たぬ。上手に人を騙すには、嘘に真実をほんの少し混ぜるだけでいい。基本だよ」


 整った爪の先が、俺の頬を滑る。


「君は、湯澤君の吐いた嘘に、飲み込まれて溺れる。息も出来ず、何も見えない」


 耳たぶに、先輩の唇が触れる。柔らかな声が耳の奥に、密やかに押し入ってくる。


「もう、呼吸ができなくなって、目の前が真っ暗になって、最後の意識が閉じる前に、何かが、見えたはずだ。溺れかけたこの指が掴んだものを、見てごらん」


 ぞろりと、背中を何かが駆け上がる。俺は、首元に絡みついた先輩の腕に手をかける。首元…手…犬に引っかかれた手の甲の赤い痕…俺が、見た、何か。


「あ。ネックレス…。梶原さん、鳥かごのネックレスをしてた。犬の札は肌身離さず持ってる、って…あの中か…襲ってきた犬から守ろうとしたから、手の甲に傷がついた」


 首を横に捻じ曲げると、先輩の唇が三日月の形に吊り上がる。


「それに、湯澤さん、次の号の草稿で『ネックレスにおまじないをかける』っていう記事を書いてた。没になったって言っていたけど、確か、記事の内容は」


 そうだ、斜め読みした記事の内容は。

 それに、梶原さんも言っていた、ネックレスを人に見られたら、願い事が叶わなくなるって。それを、湯澤さんに教えてもらったって。

 でも、山本さんはネックレスの中身はともかく、外側は俺に見せてくれた。山本さんは噂が三度の飯よりきっと好きだ。とすれば、女子の間で「ネックレスを人に見せたら、願いが叶わなくなる」なんてそんな噂は、ない。

 それなら、その新しい噂の種を撒こうとしているのは、湯澤さんだ。意図があるのか記事のためのネタなのかは分からないが、少なくとも、火のない所に火種を起こして煙を立てようとしているのは、湯澤さんだ。

 記事の中身は、確か。


「鳥かごのネックレスに、秘密を、隠す。隠した願い事は、叶うって。『秘密の願い事』だ」

「それだ、佐伯」


 犬飼先生がにやりと笑う。


「湯澤はまだ何か隠してるはずだ。もういっぺん、湯澤を締め上げに行くぞ」


 犬飼先生の手首で、巻き付けた鎖が、じゃらりと鳴った。

 俺と湯澤さんとが築き上げたささやかで大して意味もない繋がりが、ぶっつりと断ち切られるのが見えたが、まあ、別に、問題ない。

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