第10話廊下で会った人
「で、先生、どこに向かってるんですか」
「湯澤といえば、オカ研だ。オカ研といえば…」
ワントーン下がった犬飼先生の声色に、俺はぎくりとして足が鈍る。
そうだ、確か、紅緒さんが言っていた。井上先輩が卒業していなくなった後、先輩のオカルト話に感化された写真部員たちがオカルト研究会を立ち上げ、部室を乗っ取られた、と。
部室を乗っ取るからには、かなりの人数が所属しているだろうし、そのせいで残数4人になり下がった写真部は、今や廃部に追い込まれる寸前だ。
つまり、その写真部の顧問である犬飼先生が乗り込んでくること自体、オカ研にとっては緊急事態でしかないはずだ。さらにその上、あの記事を学校中にばら撒いた後で、凶悪な顔つきをした先生が押し入ってくるのだ。もはや恐怖でしかない。
自業自得とはいえ、記事を書いた張本人が名指しで呼びつけられ、写真部に並々ならぬ愛情を持っている井上先輩まで引き連れた犬飼先生に尋問されるなんて…。
「や、ダメでしょ、先生が行っちゃ」
「…だろ? でも、やっちゃったんだな」
「そりゃ、喋らないでしょ」
「だよな。分かってる、分かってた。でも、仕方ないだろ」
先生が不貞腐れたように唇を突き出す。
「しかも、よりによって井上先輩まで同伴なんて。他に、いたじゃないすか、紅緒さんでも部長でも」
「んー、なあ。でも、山本は駄目だ。何も知らない。鈴原も…巻き込むわけにはいかないだろう」
鈴原、紅緒さんか。皆が紅緒さんと呼ぶので、名字の印象がなかった。
考え込んで一瞬間を開けた俺の思惑を読み間違えて、先生は真面目な顔をする。
「本当は、井上にだって、手伝わせたくない。あいつは、ひとりで先走りすぎる」
「…先生」
「井上が来れば、鈴原も追ってくる。単独で動かれたら、俺にはフォローができない。知らないところで生徒が怪我をするのは、もうごめんだ」
まっすぐに前を睨みつけて、犬飼先生が眼差しを暗くする。なにか、あったのだろうか。前に、紅緒さんが怪我をして入院したっていう話か。
「今回だって、井上がどこかで聞きつけてきたから、仕方なく、だ。放っておいて大ごとになるより、傍に置いて目の届くところで動かした方がいい」
「先生?」
力強いまなざしが、俺を見返す。
「ええと、お話の途中で恐縮ですが、くどいようですが俺を巻き込むのは構わないんですか…」
「んー、なあ?」
「誤魔化さないで!」
詰め寄る俺に掌を見せて「あはは、あれだ」と、先生が無意味に指先を回す。
「どれ?」
「あれだよ、なあ。佐伯。ほら、お前」
「事と次第によっては、許しません」
「じゃあ、事と次第によっては、許すのか」
「揚げ足取らない」
まあまあ、と犬飼先生の腕が息巻く俺の肩を抱く。
ふっと息を吸う音がして、思いの外、真摯な声がぼそりと耳に届いた。
「頼むよ、無理を言っているのは重々承知だ。だが、俺一人じゃどうにもならんし、何より、あいつらを助けたい。せめて、話を聞きだすだけでも、協力してくれないか」
「放っておけば、大ごとに、なるんですよね」
「なる。それは確かだ」
前髪の隙間から、薄汚れた上履きの爪先を見下ろす。できる限り、人と触れずに過ごそうと思っていたのに。分厚く伸ばした前髪は、何も防いではくれない。
俺は役立たずの前髪を掻き上げて、大きく溜息を吐いた。
「あー、もう、さっきも行くって言ったし。腹括ったつもりだったし」
ぐしゃぐしゃと前髪を掻き乱す。
「なんかあったら、絶対に、助けてくださいよ」
「それだけは、何に代えても、約束する。それに、そもそも、助けが必要になるようなことはさせない」
「信じますからね」
額に手を当てたままで、じっと犬飼先生の目を覗き込む。
見返してくる先生の目が、わずかに揺らいで、眉間にしわが刻まれる。
「佐伯、お前、なんでそんなに鬱陶しい髪してるんだ。井上が力説するのも納得するが、お前、前髪上げるとイケメンなんだな」
「今、それ、関係ありますか! 人が真剣に話してるのに!」
「ごめんて」
さほど悪気もなさそうに、犬飼先生が掌をひらひらさせながら俺の肩を離した。
不貞腐れて廊下の角を曲がると、女子生徒の華やいだ声が耳を打った。
「あれ、山本さん」
「あ、佐伯くん。どうしたの、先生と一緒?」
「無事だった、佐伯?」
「どういうことだ、小野」
じっとりとした目で、犬飼先生が小野さんを睨みつける。
窓の向こうは、すっかり夕暮れの茜色に染まっていた。
「お前たち、早く帰れよ」
「はーい」
山本さんが、慌てて手元の銀色の物をぱちりと閉じた。
「あれ、それ、開くんだ」
「う、うん」
覗き込むと、小さな鳥かごの形をした銀色のネックレスだった。山本さんがあたふたと掌にそれを包み込んだ。
「何入れてんの?」
「秘密に決まってるじゃん、佐伯のバーカ」
「小野さんには訊いていませんー」
「私のやまに気安く話しかけないでいただけますぅ?」
「うっせ」
「ははあん、気になるんだ。やまがこの中に、イケメンの写真とか入れてたらどうしようとか、思ってる?」
「思ってないし」
「またまた無理しちゃって」
「あ、ねえねえ、小野ちゃん、イケメンと言えばほら! 犬飼先生に訊いてみたら?」
いがみ合う俺と小野さんの間に不自然に、山本さんが身体をねじ込んできた。少しだけ、怒ったように頬が上気している。どうしたのか。
きょとんとして犬飼先生に助けを求めたら、はあっと、あからさまな溜息を吐かれた。どういうことだ。
「ほら、あのイケメンさん。小野ちゃん、気になるって言ってたじゃん」
「ああ! そっか、犬飼先生なら知ってるかも」
「なんだ」
女子2人は突然にはしゃいで、手を取り合って犬飼先生に詰め寄っていく。さすがの先生も、少し引き気味だ。
「さっき、廊下ですれ違ったんです。色素の薄い、カメラをぶら提げたイケメン!」
「何年生ですか?」
きゃっきゃと黄色い声で無邪気な笑顔を浮かべる山本さんたちを、犬飼先生は思案気な顔で見返した。
「目がさ、茶色に緑がかってて」
「そう、綺麗なんだよね!」
「…おい、佐伯」
「は、はい」
「悪い、お前、先に行っててくれないか。1人でいけるか?」
「…大丈夫です、たぶん。あの話、聞いてくればいいんですよね」
「頼む」
不意に硬くなった空気を察して、女子2人がおずおずと先生を見上げた。
「犬飼先生?」
「…気をつけろよ。そいつ、人じゃ、ないかもな」
固まった山本さんたちに、犬飼先生はにやりと唇を捻る。くっついて息を詰めていた2人は、お互いを叩き合って笑った。
「もう、やだー、犬飼先生!」
「びっくりした! マジでヤバいのかと思ったじゃん?」
「早く帰れよ、イケメンに現抜かしてる場合じゃないぞ。テスト、もうすぐあるだろ」
「はーい」
「センセ、さよーなら。また明日ね、佐伯くん」
2人は手を振りながら、廊下を軽やかに走り去っていった。花が舞い散るような笑い声が遠のいていく。
「…井上だ…」
ぼそりと暗い声が呟いた。
「俺は井上を探しに行く」
「はい」
「放っておくと、危なっかしいから…」
俺の肩を叩いて口の端を歪めて、犬飼先生は薄暗くなった廊下の向こうへ吸い込まれていった。
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