第9話犬の札
5限が終わって帰り支度をしていると、がらりと教室の扉が開いた。
「佐伯ぃ」
「ひっ」
「お前、ちょっと来いよ」
まるでおっかない先輩の呼び出しのように、犬飼先生が俺を呼んでいる。
クラス中の全員がぴたりと動きを止めて、息を詰めて横目で俺を盗み見る。
「な、なんすか」
「いいから、来いよ」
俺の首に腕を回して、犬飼先生が横目で凄んだ。俺が、いったい、何をしたっていうんですか。
涙目になって教室から拉致られる俺に、小野さんが憐れみを浮かべた顔で手を振った。
「佐伯、読んだか、あれ」
「…読んだような、読まないような」
「読んでないのかよ」
「よ、読みました!」
犬飼先生は下唇を突き出して、じっと俺を見る。
「どう思った?」
「濡れ衣だと…」
「サバトの方じゃねえよ、噂の方だ。犬の首の」
はっと身を引き締めて、姿勢を正す。
「先生は、知ってましたか。井上先輩は?」
「お前は?」
「俺は、何も…すみません」
「謝ることじゃない。俺も初耳だ。たぶん、井上も」
参ったな、と先生は首筋を掻いた。
「『けたけた』の続きなんでしょうか」
「違うな、あれは、この間の井上の写真でお前から剥がれて、片が付いた。何かが残っているとすれば、ファストフード店の、あの遠吠えだ」
「井上先輩の写真に写ってた、3人ですか」
「それがなあ」
先生は顎を擦って、伸びかけた無精ひげを引っ張る。
「あの記事に載ってた犬の札があったろ」
「はい、千切れたヤツ。お札なんて書いてあったけど、どっかの厨二病拗らせたヤツの手作りシールでしょ」
先生が下を向いてぼりぼりと首を掻きむしっている。…あれ。
「俺のだ」
「はい?」
「俺の、手作りの、札だ」
「えええー!」
「言っとくけど」
先生が上目に見上げて、言いにくそうに唇を歪ませた。なんだ、照れてるのか、拗ねてるのか。
「本物だからな」
「ん? ホンモノの厨二病」
「噛まれてえのか、佐伯」
「嘘です、冗談です」
「あの部屋に溜まる厄介なもんを、あの札で抑えてる」
視線を反らしてややいつもよりも早口に喋る犬飼先生に、俺は唇が緩むのを禁じ得ない。が、まだ傷物にはなりたくないので、必死で口元を引き締めて聞く。
「護符、だな。適当に貼ってあるようで、一応、結界だ。一枚でも欠ければ、バランスが崩れて、そこから綻ぶ。一か所に穴が開いたからといって、すぐに壊れるほどやわじゃないが、完璧でもない。開いた隙間から漏れるものも出てくる」
眉をしかめて先生が言葉を紡ぐ。
ちらっと俺に視線を寄越すので、理解していますと、軽く頷きを返した。理解はしてるが、実は気持ちが追いついていない。狼狽える俺に気づいているのに、先生はさらさらと先に話を進める。まるで俺を煙に巻くように。
「破れたり千切れたりするくらいじゃあ、通常は問題ない。けどなあ、あそこから破れた札が持ち出されたのは、計算外だ。それも、持ち出した奴は、意図的にどこかに隠してやがる」
「え、まだ、あの写真のを持ってるってことですか」
「すぐに廃棄してくれてりゃよかったんだけどな。使い物にならなくなった護符なら、術を解いて、札を作り直せば済む話なんだが。持ってる奴がなにをどうしてるのか分からんが、こっちの指示が届かない。術は発動したまま、犬は千切れた状態で俺の指示なしに、動いてる」
「それって、マズいんじゃ」
「ああ、マズい」
「じゃあ、遠吠えの正体って」
ファストフード店で啼いていたのも、今回の遠吠えも。
「俺の犬、だろうな」
本当にマズいんだ、と先生は顔をしかめた。親指で引っ掻いていた顎先が、無精ひげの下で赤くなっている。
「だから、ファストフード店にいた生徒たちに憑いていたなら、そいつらが札を持っているのかと思ったんだが。こないだ聞き取りに行ったら、空振りだった。その上、倒れた生徒は、あの場には、2人しかいなかったといっている。写真の3人目が誰かは、不明だ。ま、井上の写真に写っていたが、レンズを通すまで、井上には2人しか見えていなかったみたいだから、人ではないだろう」
「あ、先生、あの札の写真を撮った人なら、新聞に」
「新聞、オカ研のか」
先生が尻ポケットに突っ込んでいた新聞を広げる。俺は横からそれを捲って、特集記事の下、担当者の顔写真と氏名を指し示す。
「ほら、先生この人が。…あれ、先生、この人って」
「ああ、だな」
ようやく思い出したが、ファストフード店にいた、あの3人組の中の男子生徒だ。2年湯澤、と名前が記されている。
「やっぱり、こいつ、か」
先生の眉間の皺が、不穏なまでに深くなる。
「知ら切りやがって…。絞め直すか」
到底、教師とは思えない眼光の鋭さで、犬飼先生が身震いするような笑みを浮かべた。
「佐伯、俺は札を取り返したい。それに、3人目が誰なのか、犬の首を引きずって歩いてるのがそいつなのかを調べたい。それに、一番は」
「ほかの生徒に被害が出ないか、ですね」
「そうだ。よし、行くぞ」
「待って、先生」
「なんだ」
早くしろよ、と犬飼先生が不審げな視線を俺に向けてくる。
いやいやいや、ちょっと、おかしいでしょう。話の流れからして、おかしいでしょう。
「なんで、俺が行くんですか」
「やっぱ、気づいたか」
先生が横を向いて小さく舌打ちをした。道理でぐいぐい話を進めるはずだ。
「写真部だろ、お前」
「それとこれとの間に、どんな関連があるんですか」
「んー、俺が、顧問?」
「いやいやいや、おかしいでしょ? 写真部、関係ないし」
「…じゃあ、カメラ持っていくか」
「違うから、先生、そこじゃないから」
「なんだよ、意外と細かいんだな、佐伯」
「いやいやいやいや、細かいとかじゃなくて、先生が大雑把なんですって」
「そうか、それでいいから、行くぞ」
もう、抵抗できる気がしない。俺の肩に腕を乗せて、犬飼先生が、にやりと顔を覗き込んで笑う。
「頼りにしてるぞ、佐伯。なんせ、井上のお気に入りだからな」
犬飼先生と井上先輩の関係はいまいちよく分からないけれど、気が合うことだけは間違いない。
どうして写真部なんかに入部してしまったのだろうかと、俺は心の底から自分の選択を悔やんだが、後の祭りだ。巻き込まれるなら、もういっそ、腹をくくった方がいい。
「分かりましたよ、行きますよ」
「助かるよ。俺と井上が行くと、あいつ、警戒しまくって何にも喋らないんだ」
「ああ、それで…」
俺ですらまだ未体験のゾーンに、すでに突入してしまったらしい湯澤さんとやらに、同情を覚えてしまう。あの2人に挟まれたら、と思うと、身震いしか出ない。
妙に納得した顔の俺を、犬飼先生が不服そうに見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます