第8話犬飼先生とサバト

 前髪の隙間から見える空には、鱗雲が広がっている。

 もう、すっかり秋だった。

 シャツ一枚では肌寒くなった腕を擦って、俺は小さくくしゃみをする。


「何、佐伯、その可愛いくしゃみ」


 早速、小野さんが絡んでくる。どうしてこういうタイミングで傍を通りかかるのか。


「羨ましいな、そういう『くしゅん』ていうの」


 ひょこっと山本さんも顔を覗かせる。

 数週間経って、ようやく山本さんは、俺と普通に会話を交わしてくれるようになった。その代わり、俺が前髪を上げようとするのを、徹底的に阻止してくる。


「あれ、山本さん、髪切った?」

「うん、気が付いた?」


 嬉しそうに、山本さんが笑う。やっぱりかわいいが、実はどこがどう変わったのかは分からない。


「首元、ネックレスが見えたから」

「おい、佐伯、どんな気が付き方だよ」

「あはは。まあまあ、小野ちゃん、気が付いてくれただけ、ありがたいよ。ねえ、佐伯くん」

「…ははは」


 乾いた笑いを返すしかないが、小野さんの視線がまだ突き刺さったままだ。


「お、俺も、切ろうかな…なんて」

「え? 駄目だよ、絶対、ダメ!」

「でも、もう前髪邪魔でなんも見えないし」

「駄目、それだけは許しません」

「なんでよ、やま」


 何かを感づいた小野さんが、俺の前髪をぺろりとめくりあげ「ああ、こりゃ、ダメだ」と珍しく目を剥いて呟き、山本さんと目配せをして頷き合った。


「佐伯はそのままの佐伯でいて」


 謎のお達しまで受け取る。俺は、マッシュルームカットから抜け出せないまま、冬を迎えるのか。秋とか、イメチェン、したいじゃん。


「秋だから、きのこでちょうどいいじゃん」

「よくないよ。春も夏もきのこだったよ」

「後ろなら短くしてもいいよ」

「ベスト・オブ・キノコ狙えばいいじゃん」

「狙うか、そんなもん」

「あ、D組の東野君が『佐伯には敵わない』って、こないだオシャレパーマに変えたよ」

「話を膨らませるなって」


 通りすがりの女子が首を突っ込んで、けらけら笑いながら去っていった。


「そういえば『けたけた』の話、聞かなくなったね」

「あー、うん、そーね」


 俺はあわあわと狼狽えて答えた。

 まさか、俺が『けたけた』を媒介していて、それをもう卒業したはずの井上先輩が、なんだかよく分からない方法で解決したなんて、言えない。ましてこの学校に、そういう得体のしれないモノが湧きやすいなんて、口が裂けても、言えるわけがない。


 あれから、写真部の部活には顔を出すが、井上先輩が来たことはなく、紅緒さんも何も言わなかった。他の先輩たちは知っているのか知らないのか、まるで話に触れてこず、俺も口に出すのがはばかられる気がして、うやむやなままだ。

 結局、写真の謎が残ったまま、いつもの日常が戻りつつある。


「それにしても、風邪ひいてる人、多いよねえ」

「そうだねえ。佐伯も気を付けなよ、さっきくしゃみしてたじゃん」

「ふぁ…くしゅん」

「また、そんな可愛いくしゃみ…」

「誰か俺の噂でもしてんのかな」


 ティッシュを取り出して鼻をかむ。

 俺のティッシュケース入りのポケットティッシュを見て、小野さんが少し引いた。


「噂とい・え・ば!」


 嬉々として、山本さんが身を乗り出す。


「知ってる、ねえ、知ってる? 知らないでしょー」

「な、なに」

「佐伯くんは、知らないよねー」


 ふふん、と自慢げに、山本さんが顎を上げた。なんだ、なんなのだ。

 小野さんが、あああ、という感じで額に手を当てて苦笑いを浮かべた。


「新しい噂を、ご存知ですか!」

「し、知りません。すみません」

「さすが、佐伯くん! それでこそ、佐伯くん!」


 ごそごそと鞄を探る山本さんの襟元から、ころんと、銀色のネックレスが零れる。女子はやっぱり、こういうの好きなんだな。


「じゃーん。こちら、ご覧ください」


 山本さんが大事そうにクリアファイルから取り出した紙を、俺に差し出す。何やら半分に折られたA3判の紙に、みっちりと文字や写真が見えた。


「これ…」


 見出しには『犬飼先生とサバト』と大きなゴシックフォントが踊っている。左隅には『オカルト研究会』の文字。


「オカルト研究会新聞の最新号です! すごいでしょ?」

「う、うん」


 あの犬飼先生に喧嘩を売るなんて、俺には考えられないです…。ぶるっと身震いして、俺は紙面に目を走らせる。


 『開かずの部屋の内部レポート ついに、I先生の噂の証拠を入手』と題して、開かずの部屋の見取り図と、室内に入ったという生徒の証言が載っている。というか、見出しで名前を出しているのに、こっちで伏字にしてどうするんだ。

 内部レポート、とはいうものの、それほど目新しいことは書かれていない。入り口のドアノブに巻かれた鎖の写真と、室内には犬の絵柄のお札が壁一面に貼ってあるという『某生徒』の証言、犬飼先生だけに(せっかく伏字にしたのに、こっちで名前が出てしまっている)、その犬の絵柄のお札でケルベロス的な何かを呼び出しているのだという、荒唐無稽な推論。

 なるほど、あの犬のシールをそう結び付けてきましたか、と感心してしまう。


「ね、ね、すごいでしょ! で、こっち読んで!」


 山本さんがきゃっきゃとはしゃいでページを捲る。


 『我々は、ついに、開かずの部屋でサバトが行われている証拠の品を入手』という小見出しが添えられて、写真が一枚。

 どうせ、デジカメかスマホで撮ったのだろうに、わざわざモノクロに加工して載せられていたのは犬の図柄のシール。それも、千切れて首から上だけだ。


 俺は開かずの間の内部を思い出す。確か、壁に一枚だけ、破れて半分だけになった犬のシールが残っていた。あれは先生たちが壁を綺麗にしようとしたからじゃなくて、こいつらが無理に剥がして千切れてしまったからだったのか。

 まったく、手が込んだ悪戯をするものだ。壁にシールを貼りまくったのも、こいつらなんじゃないのか。

 俺は少し鼻白んで先を読み進める。


「ん?」

「お、佐伯さん、喰いつきましたね」


 にやにやと、山本さんが俺の肩を小突く。山本さん、こういう話になると少し、小野さんっぽくなる。

 俺は少し笑って、次の記事に目を走らせた。

 そこには。

 『犬の首を引きずって歩く女子生徒のウワサ』との文字。


 なんだ、それ。知らないぞ。や、俺が、知らないだけだろうか。学校内では有名な話なのか。


『先週末の夜、オカルト研究会部員が塾を終えた帰宅途中、犬の遠吠えが聞こえ、辺りを見回したところ、遠くに犬の首のようなものを引きずって歩く女子生徒を目撃。遠吠えをしていたのは、少女か、首だけの犬か!? 先日まで本校及び近隣のファストフード店を騒がせた『けたけた』の再来か、はたまた新たな怨霊か…それとも、開かずの間で行われている秘密の儀式で呼び出された何者なのか…! 真相は未だ分かっていない。この件については、追って報告する』


「なんだ、これ…」


 犬飼先生は、知っているのか。井上先輩は?

 や、それより『けたけた』はいなくなったんじゃないのか。

 俺は軽くパニックになる。がしがしと、前髪を乱す俺の手を、山本さんがそっと止める。


「見えちゃうから、ダメ」

「す、すみません」

「やま、徹底するね」

「当り前です」


 特集記事の最後に目を走らせると、そこに、担当記者として、男子生徒の顔写真と名前が載っていた。


「あれ、こいつ…」

「知ってるの?」

「んー、どっかで、見たような?」

「2年かな」

「そうみたい。湯澤って」

「んー、誰だっけなあ」


 考えながら、俺ははらりとページを捲る。

 さっきとは打って変わって、ポップな字体が紙面に踊り、緊張感が一気に脱力する。


『女子に今、大人気☆ 願い事が叶うマジカルグッズ!』


「何このだっさい、見出し」

「ダサくないよ!」


 山本さんが、またぐいっと顔を寄せてくる。

 慌てて身体を引いた俺の鼻先に、首元から出した銀色のネックレスを突き付ける。


「見て、これ、可愛くない?」

「あー、うん、女子ってこういうの、好きだよね」

「そうじゃなくて!」


 ぷいと山本さんが頬を膨らませてそっぽを向いた。あああ、また間違えた。

 小野さんが呆れたように俺の肩を叩く。


「可愛い! うん、かわいいよ」

「佐伯、正解。よくできました」

「でしょ、かわいいでしょ」


 うふふ、と笑う山本さん。少し、面倒くさい。

 ゆらゆらと目の前で揺れているのは、鳥かごの形をしたネックレス。


「なんか、少しおっきくない? 重たいだろ」

「ぶー、佐伯、不正解」


 小野さんに後頭部を叩かれる。

 乙女心がわからん。


「あー、やま! いいな、それ、買ったの?」

「そうそう、見て、ほら」

「かわいいー!」


 どこからともなく、女子がわらわらと近寄ってきて、俺は邪険に押し退けられる。

 手元のオカ研新聞によれば『今、学校内の女子の間で大人気 願いが叶う鳥籠モチーフペンダント』と見たまんまのことが書いてあるが、何がどう願いが叶うのか、具体的な内容は何一つ記されていない。

 肩を竦めて、新聞を放り出そうとしたところで、ぬっと頭上から影が落ちた。


「お前ら…毎度毎度、俺の授業を…」

「い、犬飼先生」


 俺は慌てて新聞を腕の下に隠す。


「それに…、さすがにアクセサリーは隠しとけ」

「えー、だって、校則で禁止されてないじゃん」

「着けてこないのが、常識だからです」

「え、でもセンセだって着けてるじゃん」

「うそー、初耳! どれ、先生!」

「うるせえなあ、俺のはいいんだよ」

「やだやだ、意外! みたーい!」

「見せねえよ」

「ドッグタグみたいなの、ね、センセ」

「なになに、彼女とペア? やらしー」

「えー! 犬飼センセ彼女いるの!?」

「嘘! ショック」

「何でショックなんだよ、俺のはいいの」


 犬飼先生が苦虫を噛み潰した顔で、首筋をぼりぼり掻いた。


「やだー、照れてる、かわいー!」

「可愛くねえよ、没収するぞ」

「いいじゃん、ネックレスくらい、みんなしてるよ」

「知らないの、センセ、流行ってるんだよ。見て、これ、ほら!」

「あっ?」


 誰かの手が、呆然としている俺の腕の下のオカ研新聞をかっさらって、犬飼先生の鼻先に突き付けた。


「ちょ、ま、それ…ダメ…」


 犬飼先生は新聞を受け取って、ちらりと目を走らせた。

 その鼻に、徐々に、しかし確実に、しわが刻まれていく。


「…マジカルグッズはいいけどよ…こっち…」


 俺の周りでさざめいていた女子たちが、少しずつトーンダウンして、すっと空気のように離れていった。

 犬飼先生の目は、ひとつの見出しの上で止まっている。

 『犬飼先生とサバト』

 俺は身体を震わせて、ぐるりを見回した。

 初めから、俺と犬飼先生しかいなかったかのように、全員自分の持ち場に着席して、教科書を広げて予習に余念がない。ずるくないですか…。


「…オカ研…マジで、潰す…」


 先生の口元から凶悪な唸り声が聞こえた気がするが、空耳だと思うことにして、俺もそっと教科書を取り出した。

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