第7話犬飼先生は語る
角を曲がると、急に、廊下がしんとなる。
両側は壁ばかりが続いて、職員室も教室も途絶えた、何もない通路の突き当り、真正面に開かずの部屋の灰色の扉が立ち塞がる。誰も来ないせいか、天井の蛍光灯も消されて薄暗い。
この学校はロの字型で、全てのフロアはぐるりと一周できるのに、2階だけが開かずの部屋によって分断され、通り抜けができない。
その扉の前の薄暗がりに、濃い灰色の影が立っていた。左腕には、鎖を巻き付けている。
ぎょっとして、束の間立ち止まったが、すぐにそれが、ドアノブに取り付けてあった鎖を腕にぶら下げた犬飼先生だとわかり、小走りで近づく。あちらはとっくに気づいていたようで、わずかに手を上げてみせた。
「すみません、遅くなりました」
「や、俺も、今さっき、職員会議終わったとこだ。長引いてな。こないだの、ファストフード店での騒ぎの件で」
ちらりと犬飼先生が、俺を見る。俺は小さく頷いた。
「騒いでた生徒が倒れてた、って聞きました」
「まあ、病院に担ぎ込んだ時には、もう意識を取り戻してたから、大したことはなかったんだけどな」
「…クスリかもって…」
「そういう噂が出回ってるな。校長が改めて、病院に確認をとったが、そんな事実はなかった。なにか、強いストレスか、過呼吸的なものじゃないかって話だったけどなあ」
「俺が見たときは、3人とも、元気でしたけど。ストレスとか、そんな感じは、してなかったです。…奇声は確かに、あげてたけど」
先生が視線で俺を促す。
「犬の、遠吠えみたいな声を出してて。変な笑い方する子だなって」
「1人だけか? その笑い方、というか遠吠えをしてたのは」
「女の子が2人いたけど、どっちの声だったかは。たぶん、同じ子の声だと思ったけど、あんな声、普段聞かないから…。それに『けたけた』みたいな笑い方もしてた」
「『けたけた』みたいな、ってなんだ」
「感情のこもってない、平坦な笑い声です。会話が面白くて笑っているのとは、少し違うような。まあ、俺の勘違いかもしれないですけど。それと遠吠えを繰り返してて」
「同じ奴が、遠吠えと笑いを?」
「はい」
先生は、指先で顎に生えた無精ひげを引っ張っている。天井の蛍光灯が、じじっと微かに瞬いた。
「先生…?」
「なんだ」
「あの、聞きたいことが」
考え込んでいたような目が、じろりと俺に向く。
「犬飼先生、なにか『けたけた』のこと、知ってるんですか」
「何でだ」
「だって、この間、山本さんが廊下で急に笑い始めた時、助けてくれたじゃないですか」
犬飼先生の薄い唇が、開きかけて止まる。無精ひげを指先で弄びながら、先生の視線が、俺の目の中に押し入ってくる。
じっと、腹の底を探るように、目の奥が射抜かれる。
「俺、この間…」
「ちょっと待て、中、入ろう」
顎をしゃくって背後の扉を指し示すと、犬飼先生は腕に巻き付けたままの鎖を鳴らして、開かずの間を開けた。
「ん? なんだよ。こんな話、教師がまともにしてるの聞かれたら、ヤバいだろ。ただでさえ、俺はここでサバト開いてるとか言われてるのに」
「…違うんですか」
「…お前ね、俺を何だと思ってるのよ」
口をへの字にして、じっとりとした目で俺を見る。俺だって、ついこの間まで、犬飼先生のことを普通の先生だと思っていた。でも、山本さんの様子がおかしくなった時、明らかに、先生はそのことに気が付いて、意識的に山本さんを正気に戻したように思える。それに、あの、耳元で聞こえた金属質な歯の音。
もし、何か知っているのだとしたら、教えてほしい。
俺の身体にまとわりついていた、あのたくさんの影は何なのか。俺が『けたけた』を媒介して歩いているというのは、本当なのか。
それに、井上先輩は、何者なのか。
俺は、誰を信じて、誰に触れていいのか。もし、俺が、あの影のようなものを媒介するのであれば、人に触れては、いけないのではないか。
もし、もし、もし…。仮定ばかりが、頭をよぎる。ファストフード店で、あの二人が奇声を上げて倒れたのも、俺のせいだったとしたら…?
身体の内側を、何か冷たいモノでなぞられた気がして、俺はぶるっと身を震わせる。
不意に、犬飼先生が、俺の肩を叩いて、顔を覗き込んだ。
「なあ、佐伯、お前」
「な、なんですか」
「アレは、どうしたんだ」
眉をひそめて、犬飼先生が問う。
「まさか、全部をばら撒いてきてんじゃないだろうな」
「ち、違います、先輩が」
「先輩…」
小首を傾げた先生が、にわかに鼻に皺を寄せる。
「先輩って、まさか、あいつか…井上か?」
うんうん、と無言で首肯すると、さらに皺が深くなる。今にも牙を剥きそうだ。
「あいつになんか、されなかったか?」
「写真を…撮られまくりました…」
ハイテンションな撮影会を思い出してげんなりしたが、同時に、あの絡みついた腕も思い出して、身体が震えた。先輩は、俺のイケメン風写真を撮るのが目的だったんじゃない。紅緒さんが落としたあの写真を見たから、それがはっきり分かる。
「撮られたんだな、井上に」
「はい」
「だから、か。軽くなっただろ、身体が」
しげしげと、先生が俺の全身に視線を走らせる。そう言われれば、あのずっしりとした疲れのようなだるさが、いつの間にか、なくなっている。言われなければ分からないほどの些細な変化だったが、確かに楽だ。けれど、それと井上先輩の写真とはどう繋がるのかが分からない。
「お前、まさか、あれだけべったりしょってて、全然、なんともなかったのか?」
「…なんか、先輩にも言われた気が」
「だろうな」
呆れ返った視線が、俺にじっと注がれる。そんなことを言われても…。
「先生? 井上先輩のあれ、何なんですか。ていうか、俺についてたあれ、何なんですか」
「本当に、無自覚なんだな」
いたたまれない気持ちで、俺は小さく頷いた。
「お前に憑いてたのは、お前らが『けたけた』って呼んでるモノだ。時々、ああいうモノが沸いて出る。普通は自然に散るんだが、たまたま流れが悪くて、滞った。ひとつなら薄く透けていて誰の目にも止まらないが、一定数重なれば、薄っすらしていたモノも厚みを帯びて、人目に付く。こう、薄い霧が集まって、濃い靄になるみたいなイメージだな」
わかるか、と問いかけてきた視線に頷き返す。
「そういう、ぼんやりとした影のようなものに、誰かが名前を付けた。付けた名前をみんなが呼び、曖昧な影と名前とを結び付けた。命名は、そのモノに命を与え、淡い輪郭を縛り付けて形にする呪いだ。あやふやだったモノは『けたけた』になり、だから、『けたけた』は消えなくなった。消えられなくなったんだ」
誰も彼もが、忘れ去るまで。
「だから、誰かが、散らさなくちゃならない。『けたけた』みたいに人の感情から零れ出た、ひとつひとつは弱い影なら、本来は解体して、元の持ち主に還すのがベストだ」
「悪いもの、なのに?」
「元は誰かの感情だからな。感情っていうのは、移ろうものだ。黒がいつまでも黒のままじゃない、嫉妬や怒り、恨みだって、いつかは黒くなくなるだろう。人間そんなに気長じゃないさ。だが、ああいう、人の身体から零れ出て固まってしまった形だと、移ろうことができずにいつまでも、黒い。それどころか、周りの同じような色のモノを吸い寄せ、くっつき、どんどん深さを増していく。だから、藁人形に五寸釘みたいな、呪いを形にしたモノはマズイんだ」
薄い灰色の雲が寄せ集まってできた、真っ黒な雨雲が、空を塞ぎ覆いつくす様が脳裏に浮かぶ。太陽の光は微塵も見えず、稲光と、細い雨ばかりが降り注ぐ。
「そして、この学校は場所柄、ああいうモノを溜め込む力が、強い」
一度、小さなモノが湧けば、加速度的に培養されて、増え続ける。
「この部屋は、そういうモノが通り抜けできないように、足止めする場だ」
「え?」
犬飼先生が、開かずの間を、ぐるりと見渡す。
ただの、使われていない部屋では、ないのか。
入り口に物々しく巻かれた鎖は、生徒が悪戯をしに浸入するのを防ぐためではなく、生徒が、いたずらに黒い何かに飲み込まれないようにするための、防御柵。
犬飼先生の左腕で、鎖がじゃらりと音を立てた。
「佐伯、お前はこの部屋と同じで、そういうモノを捕まえておく力が、強い」
「…それ、井上先輩にも言われました。俺が『けたけた』を集めたり、ばら撒いたりしてるって」
「無意識なんだろうな、たぶん。集めているというよりは、向こうから寄ってきてる。お前に乗って移動している、という感じかな。お前はあれに侵されず、毒されない。だから、中に入り込みたいあいつらには居心地が悪くて、より色の近いものがいれば、そちらに移ろうとする。でも、お前の吸引力が強すぎて、一定の距離に近寄ると、また吸われてお前に戻る。それの繰り返しで、お前は歩きながら、どんどんあいつらみたいなモノを吸い寄せ、増やしていく」
いつしか、知らぬ間に、びっしりと背中に背負っているのだ。
幾本もの絡みついた腕を思い出して、俺はぶるぶると首を振った。
「普通は、体調を崩したりするんだが、お前は気付かない。きっと、身体が少し重いくらいだ」
やっぱり、今回の『けたけた』の騒ぎは、俺が元凶なんだろうか。俺は、この先、どうしたらいい。ひとり、閉じこもって、息を殺して暮らせば、いいのか。周りにぐるりと壁を巡らせて、何も見えないようにして。落ち着かず、分厚く眼前を塞ぐ前髪を引っ張った。
「まあ、だから井上がお前を推薦してきたんだけどな」
「え?」
「お気に入りなんだと。いろんな意味で無自覚だから、あらゆる意味で写真部に欠かせないって、鼻息荒くしてたぞ。諦めろ」
「は?」
「あいつはしつこい」
先生が何を思い出したのか、顔をしかめる。
今、俺は、褒められたのか? 複雑な思いで顔を上げると、眉尻を下げた複雑な表情で、犬飼先生が肩を竦めた。
「ちゃんとコントロールできれば、その力は、役に立つ」
「本当ですか」
「ま、何年かかるか分からんがな。それに、あまり勧められない」
「どうして」
「危ないから、だ」
当り前だろ、と先生は息を吐き出す。
そうして、この話はもうおしまいだ、と手を振った。
「なあ、佐伯、ところでさっき、お前。ファストフード店で騒いでた奴らが3人だった、っていったな。男1人に、女2人、か」
「はい。でも、先生。他の人たちは、女子生徒は、1人しかいなかったって」
「そうだな。倒れていたのは、男女1人ずつだ」
確かに、3人、いたはずなのに。どうして人によって、証言が食い違うのだろう。
「それ、こいつらか?」
先生が、ひらりと1枚の写真を取り出す。
男子1人と、ぴったりとくっついた女子2人。1人の顔はピントがずれてはっきりとは見えないが睨むようにカメラの方を向いていて、もう片方の子に、とてもよく似ている気がする。
「そうです。この3人」
「実際に、3人一緒にいるところを見たのか」
「はい…先生、この写真」
「井上が撮った」
あの時、カメラを持っていたのは、この子たちを撮るためだったのか。それとも、居合わせたのは、偶然か。
「先生、確かに、あの日、3人いたんです」
「そうか。わかった、なら、いい」
「え?」
「今日はもう、いいぞ。お前のしょってた荷物を取るつもりで呼んだんだが、井上が綺麗にしちゃったんで、俺はもう、することがないんだ。じゃ、解散」
ひらひらと、犬飼先生が、手を振った。
慌てる俺を、置いて、犬飼先生はさっさと開かずの部屋を出ていく。
「なんだ、ここに残りたいのか? 俺だったら、ごめんだな。夕方は、いろいろ湧いて出る」
「え、ちょ、先生、待って」
「早く行くぞ。先生、スーパー寄って帰りたいんだ。もう冷蔵庫、空っぽでさ」
自炊派なんだ…いや、そうじゃなくて。
こんなに中途で放り出されて、俺はどうしたらいいんですか。
あっという間に扉に施錠して鎖を戻すと、犬飼先生は、すたすたと、廊下の向こうに消えていった。
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