第4話先輩

「悪いね、わざわざこんな所まで出向いてもらって」


 2階の廊下の突き当り。

 職員室も、準備室も何もなく、誰も来ないしんとした場所。

 そこに、灰色の鉄の扉がある。

 犬飼先生に呼び出されたそこは。


「2階奥って、佐伯、そこ、開かずの間じゃん」


 小野さんが、そういって眉をしかめた。

 曰く、入り口には、鎖がぐるぐるに巻き付けられている。

 曰く、灰色の扉の中に入った者は、誰一人戻ってこない。

 曰く、中から、女子生徒の泣き声がする。

 曰く、誰もいないはずの内側から、扉を叩く音がする。

 その他、いろいろ、あることないこと。小野さんが次々と教えてくれたが、教えられすぎて思い出せない。


 少なくとも、ドアノブには実際に、鎖がぐるぐるに巻き付けられている。

 鎖に付いた南京錠に、かちりと鍵が差し込まれた。


「ここ、開かずの間って言われているから、誰も来なくていいんだ」


 そうか。誰も来ないから開かずの間なんじゃなくて、開かずの間って呼ばれているから誰も来ないのか。

 ていうか、犬飼先生は、どうした。


 放課後、一分たりとも遅れてはならないと、5限終わりのチャイムと共に脱兎のように駆けて、この扉の前まで来てみれば、そこにいたのは犬飼先生ではなくて。


「先輩、写真部だったんすね」

「うん、そう」


 イケメン先輩は、色素の薄いブラウンの癖っ毛を揺らして、俺を振り返る。笑った目元が涼しすぎて、直視できない。


「あの、こないだは、ありがとうございました」

「ん?」

「これ、傷の手当してもらって」

「ああ、そんなこと。気にしなくていいよ。あの時さあ、みちる君、綺麗に飛んだよねえ。写真撮っておけばよかったなあ」


 使い込んで飴色になった革のストラップで首から提げたフィルムカメラを、愛おしそうに撫でながら、先輩が笑う。あの惨事をそんなに爽やかに笑われると恥ずかしくなる。

 先輩は外した鎖をじゃらりと鳴らして、俺を開かずの間の中に通した。


「開かずの間って言っても、別に、普通なんすね」

「うん、見た目はそうだろうね」


 鎖を内側のドアノブに引っ掛けて、先輩が微笑む。

 肝試しに、忍び込んだ生徒がいるのだろう。灰色の鉄扉の内側には、手作りなのか、墨で描かれた渋い犬の絵柄のステッカーが貼られている。同じ柄のステッカーが壁のところどころに貼りつけられているところをみると、うちの学校にもやんちゃな感じの生徒がいるようだ。

 きっと繁華街かどこかのシャッターに、同じようなオリジナルのステッカーを貼りまくってささやかな自己顕示欲を満たしているのだ。

 先生たちが片づけようとしたのか、左側の壁に貼られた一枚は、剥がし損ねて犬の身体が中途半端に破れて残っている。これじゃあ、ドアノブに鎖を巻きつけるのも頷ける。


「はい、それじゃあ。うちの部員を紹介します」

「てか、先輩。誰も来てないんですけど」

「大丈夫、後から来るから。先に知っておいた方がいい」

「そうっすか」

「そうっす。うちの部員、クセが強すぎて、揃ってからだとやかましくて、全っ然紹介できないから」


 先輩は少し遠い目をして、情けなく眉尻を下げた。そんな仏のような顔になってしまうほど、難ありな感じなのかと、俺はポケットの入部届を握りつぶしそうになる。

 そんな俺の心中を知ってか知らずか、先輩はトートバックを探って、小さな冊子を俺に手渡した。


「では、お配りした資料に、目を通していただけます?」


 ホチキスで閉じられた小さな冊子をぱらりと捲る。タイトルは、オシャレな感じの手書き文字だ。チョークアート、とかいうヤツだろうか。


「つか、上手いな、おい!」


 思わず、声が漏れる。部員5人を紹介したコピー用紙を閉じた冊子は、文章も全て手書きで、顔写真の代わりに、似顔絵が描いてある。本人たちを見たことがないが、それでも超絶に上手い。きっと、実物を見たら、絶対にこの人だと言い当てる自信がある。最後のページに載っている人を、最近どこかで見た気がするけれど、誰だったか。


「何で手書きなんすか」

「僕…PC、使えないんだよねえ」

「ていうか、写真部でしょ、写真は?」


 ふふ、っと先輩は、得意げに眼鏡のブリッジを押し上げる仕草をしたが、眼鏡なんかかけていない。普段はコンタクトレンズを着けているのだろう、俺もかなりの近眼なので、うっかりやっちゃうの、分かる。


「安直に写真を使うなど、全くもって、邪道だよ、みちる君」

「写真部の存在意義が。あっ、それともマジメにPC使えないんですか」

「分かってないなあ」


 はあ、と先輩は大げさな溜息を吐いて肩を竦める。

 なんだ、この人。せっかくイケメンなのに、面倒なタイプか?


「ねえ、みちる君」

「佐伯、って呼んでもらえます?」


 俺を少し下から見上げて、先輩がふと真顔になる。

 俺はぐっと言葉に詰まる。変人だが、黙っていれば、綺麗な顔なのだ。

 色の薄い茶色の目は虹彩の端が淡く緑にぼやけて、まともに覗き込めば飲み込まれそうになる。


「写真なんて、そうそう、撮ってはならない」

「…何で」

「知らないのかい」


 先輩は慣れた手つきで、首から提げた古い銀塩カメラを整えていく。フィルムを装填し、裏蓋を閉じ、きりきりとフィルムを巻き上げる音がする。


「魂を、抜かれるからさ」


 片目を眇めて、俺を見る。まるで、ファインダーを覗くように、片目をつぶって。

 閉じた先輩の右眼の代わりに、カメラの大きな一つ目が、胸元で光を撥ねた。心臓を射抜かれる気がして、俺は知らずに、シャツの胸元を握りしめている。

 先輩が、左眼にファインダーを当てる。整った顔が、カメラの向こうに沈んだ。


「みちる君、君、重たくはないのか」

「重い? 何が、ですか」

「そんなにごっちゃりと、背中にくっつけて」

「だから、何を」

「気づいてないの? それとも、知らないふりを、しているの」


 不意に、ずしん、と足が地面にめり込むような感じがして、俺はぶるぶると首を振った。カメラのレンズは、ぶれることなく、じっと俺に据えられている。


「君、いっつも『けたけた』がいる場所に現れるよね」

「え?」

「自転車で転んだ時も、ファストフード店でも、君は僕が知らないと思ってるかもしれないけど、それ以外のあちこちにも」


 俺は慌てて首を振る。そんなこと、ないはずだ。

自転車置き場と、ファストフード店だって、偶然居合わせただけだ。それ以外は、身に覚えがない。


「君が行く先々で、どうして『けたけた』が出るのかな。まるで、みちる君、君が媒介しているみたいに」

「そんな…だって『けたけた』の話だって、昨日聞いたばっかりで」

「ふうん」


 先輩の指先がレンズを回して、照準を合わせる。きりきりと、弓でも引き絞られているような錯覚に陥り、パニックを起こしかけた。落ち着けと命じても、身体ががたがたと震えて、どうにもならない。まるで、俺ではない何かが、早く逃げろと、俺に危機を伝えているみたいだ。


「本当に、君は、何も知らないんだね?」


 カメラを少しだけ下げて、先輩が安堵した表情で、小さく息を吐く。それからすぐに、表情を曇らせた。


「君が今回の犯人だったなら、僕も心を痛めずに済んだんだけど。仕方がない。だって、君は、真っ黒だもの。もう、どれが誰かも見分けがつかないほどに重なって」

「え?」

「『けたけた』は悪意だよ。みんなの身体から、少しずつ零れだした。君はそれを、吸い寄せる。吸い寄せたものを、ぶら下げて歩く。心に隙がある者や、嫉妬、羨望、欲望、それらを抱えた者が触れれば、低いところに水が流れるように『けたけた』も流れ込む」


 吸い寄せては、放ち、流しては、吸い上げ、『けたけた』は、積もり積もって、俺の身体を取り巻いている、らしい。先から震えが止まらないのは、そいつらの所為なのか。どうして、こんなにも、先輩に怯えているのか。

 先輩は今、俺が悪意を持って『けたけた』をばら撒いていたのなら、心を痛めずに済むって言ったけど、一体、何をするつもりなのか。


「さっき君は、どうして安易に写真を撮ってはならないのかって、聞いたよね」


 先輩は、上目がちに俺に微笑みかける。そっとカメラを指先で撫でながら。


「シャッターを切れば、君の欠片が、ここに焼き付けられる。君は少しずつ、少しずつ削り取られて薄くなって」


 すっと、カメラが持ち上がる。先輩の顔がまた、カメラの向こうに隠れて消える。

 踵から凍てつくような寒さが背筋を駆け上がり、俺は両腕で身体を抱え込む。


「いつしか消えて、なくなる。君は永遠に、印画紙の中に。そちらに残るのは、君の抜け殻、君の影」


 先輩の呼吸が、ほんの束の間、止まる。間合いを図るように、半歩前に出る。


「その空っぽの器に」


 かしゃり

 シャッターが切られて、俺はびくりと身を強張らせた。


「何を、入れようか」


 にたり。

 先輩の口元が、カメラの下で、禍々しく笑った。

 かしゃん

 また、シャッターの落ちる音。


「どうして僕を、そんな目で睨むの」


 ずい、と歩み寄る先輩は、思ったよりも大きく見える。


「ずっと考えてたんだ。君を手に入れたら、さぞかしいいだろうってね」


 カメラのレンズに、自分の顔が映っている。それはレンズの曲面の形にわずかに歪んで、よく似た別人にも見えた。


「なのに、君は素っ気なくて。わざわざ、目立つようにしたのに」


 後退って、壁際に追いつめられる。転がっていた何かに足を取られて、床に倒れこむ。慌てて顔を上げると、真上から、先輩のカメラが俺を狙っていた。


「もう、傷は大丈夫?」


 仰向いたせいで露わになった額を指差し、先輩は首を傾げて笑った。あの時、自転車に絡まったのは、何だったのか。どうして、あんなにタイミングよく、先輩はあの場にいたのだろう。

 もし、最初から、俺を、狙っていたのだとしたら?


「まさか…」


 ふふっと、空気のような笑い声に合わせて、カメラが揺れる。


「ねえ、フィルム一本、全部君を撮ったとしたら、君はどこに行ってしまうかねえ」


 愛おしそうにカメラを撫でて、先輩は俺を見て、晴れやかに笑った。


「ほ、他の人が、もう来るんじゃないんすか。犬飼先生だって」


 どうにかして逃げなくては。ここから、この人の視線から。あの、カメラから。


「来ないよ。初めから、君一人だ」


 だって、ここは、開かずの間だもの。

 ぞくりと、俺の背中を、恐怖の波が走り抜けた。

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